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第0話:銀の炎、舞い踊る


 始まりは、王都の片隅にある『灰かぶりの厨房』と蔑まれた一つの料理店。


 そこで紡がれる料理達の記憶は、やがて王族の心を動かし、国家の運命さえも左右する奇跡の始まりになるとは、まだ誰も知らなかった。


 これは、料理という灯火が紡いだ物語。

 獣人として蔑まれた心優しき少女と、異世界で居場所を失った青年が、共に未来を切り拓いていく運命の叙事詩である。



 この物語を語るには、まず一つの輝かしい場面から始めなければならない。

 一人の少女が料理という名の魔法を紡ぎ、銀色の炎が初めて世界を照らした、あの輝かしい黎明の日から——。




── ── ──




 陽光が特設ステージいっぱいに降り注ぐ王都の中央広場。

 数百人もの観客が半円形の客席を埋め尽くし、その熱気は波のように押し寄せてきた。


 最前列には華やかな衣装を身にまとった貴族たちが座り、その後ろには市場に集まった一般の人々が熱心な表情で詰めかけている。


 司会者が、王都の料理人たちを紹介するたびに、会場では歓声が湧き上がる。



 舞台袖に佇む一人の『獣人の少女』は、その押し寄せる熱気と歓声に息を詰めた。



 数多の視線が突き刺さる舞台。鉄と香辛料の匂いが入り混じり、他の料理人たちが放つ自信に満ちたオーラが、波のように彼女の肌を打つ。年に一度の「王都黎明市(おうとれいめいいち)」、その最大の舞台に、自分は今から立つのだ。


「そして最後に……」


 司会の女性の声が少しだけ躊躇ったように聞こえた。



「東区『銀の厨房』、リュカ・ヴァレン!」



 カーテンの向こうから、小柄な影がゆっくりと現れた。他の料理人たちと比べると、彼女の体躯はあまりに華奢で、無邪気な少女のような風貌だった。


 しかし、その翡翠色の瞳には芯の強さが宿っている。


 彼女は深く息を吸い込むと、頭巾を取った。


 褐色の獣耳が堂々と露わになった瞬間——


 会場に一瞬の沈黙が訪れ、続いて大きなどよめきが広がる。最前列の貴族たちの間で嫌悪感に満ちた表情が交換され、続いて観客全体に波のように広がっていく。


「獣人が……?」

「あれは獣耳?」

「なぜ獣人が選ばれたんだ?」

「料理なんてさせて大丈夫なの?」

「ヤメロ!帰れ!」


 あからさまな嫌悪感を示す声が上がり、ブーイングさえ聞こえた。遮るもののない獣耳はこれらの言葉をはっきりと拾い上げ、その心に刺さる棘となる。


 逃げ出したい。

 その衝動が喉元までせり上がる。


 かつてなら、その場で逃げ出していたかもしれない。



 ──しかし今日は違った。



 リュカの獣耳がゆっくりと前を向き始めた。


 客席の奥、人波の向こうに立つ『異世界から来たという一人の青年』の小さく頷くその仕草だけが、冷たい記憶を溶かす唯一の陽だまりだった。


 恐怖はある。だがそれ以上に、自分の料理を届けたいという強い思いが胸に満ちていた。


「制限時間は三十分!」


 審査員の一人が大きな銀の鐘を鳴らした。


「さあ、始めてください!」


 鐘の音と共に、料理人たちは一斉に動き出す。

 リュカはまず食材を丁寧に整理していく。

 調理台の上には、厳選された仔牛の肉塊、王国各地から集められた香辛料、新鮮な野菜と果実がすべてが計算された位置に並べられていった。



 リュカは深く息を吸い込み、包丁を持つ手に力を込めた。心を整え、獣耳を前に向けると、彼女の集中力が一気に高まる。まるでスイッチが入ったかのように、その表情が変化する。



 ──そして、調理が始まった。



 最初に彼女が手をつけたのは、メインとなる肉の処理。手のひらでその状態を確かめ、彼女は肉にそっと耳を寄せた。人間の耳には聞こえない、内部の筋繊維が発する微かな緊張音。それによって、刃を入れるべき最適な角度を瞬時に見抜く。観客には奇妙な所作にしか見えなかっただろう。


 しかし次の瞬間、リュカの包丁さばきに会場全体が息を呑んだ。


 見事な速さと精度で、彼女は肉を均一な厚さに切り分けていく。

 その刃さばきには無駄がなく、まるで舞うような美しさがあった。


 肉の筋目を完全に読み取り、それに合わせて刃を入れていく技術は、画家が流れる様に筆を取るかの如く芸術の域に達していた。


「見てください! あの包丁さばき!」


 司会の声に、審査員も思わず身を乗り出す。魔導計測器がリュカの調理台を映し出すと、観客からも小さな感嘆の声が漏れた。包丁を握る彼女の指の形、力の入れ具合、刃の角度──すべてが完璧な調和を保っていた。


 リュカの動きは流れるように続く。切り分けた肉の表面を指先で軽くなで、微細な筋を取り除き、それから特製の塩で表面を丁寧に覆う。塩の量は厳密に計算されており、一粒一粒が肉の上で踊るように散りばめられる。


 次に彼女の手が向かったのは、五種類の香辛料だった。獣人特有の鋭敏な嗅覚で香りのバランスを確かめながら、絶妙な調合を完成させていく。


 彼女の鼻腔が、並の料理人には感じ取れない香りの階層を分析していく。


 一つ目の香辛料が持つ土の香り。

 二つ目が持つ森の香り。

 そして三つ目が持つ風の香り。


 それらが乳鉢の中で混ざり合い、一つの完璧な調和を奏でる瞬間を、彼女は知っていた。


 最終段階──


 リュカはフライパンを高温で熱し、そこに油を引く。

 油が煙を上げ始めたちょうどその瞬間、彼女は香辛料をまぶした肉を一気に投入した。


「シュワッ」という軽やかな音と共に、炉から炎が舞い上がる。

 その炎の色はありふれた赤や橙ではなく、不思議な『銀色』。


 まるで月光を溶かして固めたかのような、清浄な銀の輝き。それは熱気ではなく、どこか神聖な気配を纏い、澄んだ鈴の音のような響きを立てていた。



 そして彼女の体は炎と共に踊るかのような動きで呼応する。



 腕は優美な弧を描き、黄土色の髪が風に舞い上がった。獣耳は炎の律動を捉えることで微かに震え、翡翠の瞳は銀色の炎を映して神秘的な輝きを放つ。


 彼女の指先が肉の上を舞うたび、炎は応えるように立ち上がり、沈み、うねっていく。




 まるで炎と少女が一つになった舞踏──

 その銀の炎は、彼女の魂そのものと共鳴しているかのようだった。




 それは調理という枠を超えた芸術。


 彼女の体は料理と一体化し、鍋の中の食材すら彼女の意志に応じるように完璧な調和を奏でていた。


 観客は固唾を呑んでその光景を見つめている。

 最前列の貴族たちの間で、最初はリュカを侮蔑していた者たちさえ、今や椅子の端に身を乗り出し、目を見開いて見入っていた。


 炎が大きく舞い上がり、その光が小さな体を神々しく照らし出す。


 汗でキラキラと輝く彼女の表情には、深い集中と静かな情熱、そして今この瞬間を生きる喜びが溢れていた。




 その姿はまさに、『黎明の空に咲き誇る銀色の炎』のようだった。




 会場に静寂が広がり、リュカの動きだけが全ての焦点となる。この瞬間、彼女は獣人ではなく、ただ一人の素晴らしい料理人として、全ての人の視線を集めていた。


 やがて炎の舞いが終わると、リュカは静かに息を吐く。彼女の瞳には、もはや恐怖の影はない。代わりに、自分の料理への誇りと、それを食べてくれる人への思いやりが満ちていた。


 完成した料理は、五地方の食材を一つの皿に調和させた芸術的な一品。


「これが私の『軍人の宴』──です」


 リュカは汗を拭い、堂々と宣言した。

 その声には、獣人としての誇りと、料理人としての自信に満ちていた。


 ひとりの少女が、たった一つの料理で、数百人の心を動かした瞬間だった。





 ──これは、彼女の物語のほんの始まりに過ぎない。


 「銀の厨房」という小さな料理店で紡がれる、料理と絆の物語。種族の壁を越え、心と心を繋ぐ、温かな奇跡の序章である。


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