それはまるで、蜘蛛の糸
「もういい!出ていけ!!」
それ以上対話する時間が無駄、とでも言うようにお父様が手を振るう。
それをただ無表情で見つめながら、私はお父様に言った。
彼にとっての、真実を。
「私が言いたいことも、お母様が言いたいことも、お父様はとっくにご存知なのではありませんか」
それなのに、お父様は目を逸らし続けている。
見なければ、無いもの。
見なければ、存在しないものだと、そう思い込んでいるように。
彼にとって、私とお母様は【都合の悪いもの】であり、存在を直視したくないのだと思う。
受け入れてしまったら、彼は認めるしかなくなってしまうから。
今までの、私とお母様への態度が、いかに酷いものであったかを。
冷えきった家族関係を生み出したのは、他ならぬ父であるということ。
それらを、認めることになってしまう。
プライドの高い父には、できないだろう。
だから、私とお母様を排斥する。
彼の、彼にとっての都合のいい世界を維持するために。
「お母様への説明と、説得は、お父様がなさってください。それは、お父様がなさるべきことです」
淡々と、一切の感情を乗せずに呟いた。
それから私は、ドレスの裾を摘んで淑女の礼を執り、踵を返した。
「待ちなさい!!フェリシア!!」
ドンッ、と机が勢いよく叩かれる。
振り向くと、お父様は顔を真っ赤に染めながら私を見ていた。
「なんだその物言いは!?その目つきはなんだ!!お前は、淑女教育で何を学んできた!!」
「私は、今までの淑女教育で、『唯唯諾諾と親に従え』と習ってきました。ですが、私はお父様の操り人形になる気も、都合のいい駒になる気もないのです。……お父様」
私の物言いに、さらに腹が立ったのだろう。
彼がなにか言おうと口を開くより先に、私は言った。
「私も、お母様も。感情を持たない人形ではありません。ひとりの人間で、考える頭と、感じる心がございます。お父様は、ご存知なかったようですが」
さながらお父様にとっては、手持ちの駒が突然反抗したようにしか見えないだろう。
暴力的に言うことを聞かされてはたまらない。
そう思った私は、そこでようやく笑みを浮かべた。
そこそこ可愛い私だからこそ出来る、邪気のない笑みだ。
「誤解なさらないでくださいませ。私は、お姉様とフェリックス様を祝福しております。我が国の王太子殿下に【運命】が現れたのですもの。私だって、もちろんおめでたいことだと思っておりますわ。……ですから、私も私で、自身の幸せというものを探したくなりましたの」
それは、額面通りに受け取るなら『お姉様とフェリックス様のように、わたしも【運命】を探したくなった』という意味になる。
もちろん、私の真意とは異なるのだけど。
私も、私の幸せというものを探してみたくなった。
事実だ。
だけど私の幸せは、必ずしも【運命】の人がもたらしてくれるものではない。
そもそも、結婚とか、恋愛とか、そういう枠組みに囚われることなく──私の、幸福を見つけたいと、そう思ったのだ。
幸せは、与えられるものではなく、自分から獲りに行くもの。
少なくとも、私はただ与えられるかも分からないそれをひたすら待ち続ける気にはなれなかった。
☆
書斎を出て、自室に向かう途中、名前を呼ばれた。
「フェリシア」
お姉様はまだ城から戻ってきてないようだ。
……となると、この邸で私を『お嬢様』ではなく、名前で呼ぶ人はひとりしかいない。
私は、ゆっくりと振り返った。
そこには、私と同じ桃色の髪をした女性が佇んでいた。
外出の予定がなく、部屋にいたのだろう。
肩には薄手のショールをかけ、髪をひとつに結っている。
女性にしては長身。
彼女こそが、私の母親であり、フレンツェル公爵夫人。
パトリシア・フレンツェル。
「お母様」
「戻ってきたのですね。殿下のお話はどうでしたか」
淡々と、彼女は私に尋ねた。
お母様が聞きたがっているのは、私とフェリックス様の婚約がどうなったのか、ということだろう。
お母様にとって、私とフェリックス様の婚約は、彼女の自尊心を満たすものだ。
婚約が解消される……となったら、お母様は相当取り乱すのだろう、と私は思った。
お母様は、生粋の貴族だ。
だからこそ、お父様の舞台通いが明るみになり、愛人の存在を知った時でさえ、声を荒らげたり悋気を見せるようなことはしなかったという。
貴族の娘として、品位を欠く行いはできない、と彼女は思っているのだ。
だから、常に氷のような眼差しでお父様を静かに責めながらも、口では何も言わない。
今も、お母様はジェニファーのことで胸にわだかまりを抱えている。
お母様は、お父様の前では何も言わないけど……娘の前では稀に、その本音をこぼす。
(お母様にとって、アグネスお姉様は、お父様が浮気をした証拠に他ならない……)
お母様はお姉様を心底嫌悪している。
今までお母様がお姉様に顔を合わせた回数は極わずか。それも、どうしても顔を合わせざるを得ない状況の時のみ。
例えば、お姉様がその病弱が理由で社交界デビューを断念するとなった時。
お母様は、それで問題ないかとお姉様に意志を確認しにいった。
娘の社交界デビューを取り仕切るのは、公爵夫人であるお母様の役割だからだ。
お姉様は、お母様が自身を嫌っていることを知っているから、彼女はいつも以上に気を遣い、結果的に体調が悪化した。
お父様はお母様を責め、夫婦の仲はさらに冷え切った。
氷の貴婦人、とはお母様の社交界での第二名だ。
にこりとも笑いもしない。
なまじ美人だから、常に無表情のお母様はかなり迫力がある。
私は、数秒逡巡したものの、先程お父様と交わした会話の内容を素直に口にすることにした。
フェリックス様との婚約は解消されそうなこと。
お姉様とフェリックス様が、改めて婚約を結ぶことになりそうなこと。
それを伝えると、お母様は眉を寄せた。
「何ですって?あなたは、それでいいのですか?」
「良いも何も、お父様と陛下が決めることですから。それに、お姉様はフェリックス様の運命──」
「そんな上辺だけの話などどうでもいいのです」
お母様は、吐き捨てるように言った。
「運命だから、何です?運命とは、自身の感情も理性も、全て失ってしまうものなのですか?そうなのであれば、それはもはや祝福ではなく、呪いじゃない」