なんて生きにくい、この世界
「まさか。レディ・フェリシア。私は、きみだけに誠実になると誓うよ。どうかこの手を取って欲しい」
アーノルドは、穏やかな笑みを浮かべて私に手を差し出してきた。
それを見て──私は、レース編みの手袋を抜き取った。
そして、それを彼の手の上に乗せる。
「……生憎、私では力不足のようですわ。この手袋が似合うご婦人を、どうかお探しになってくださいませ」
アーノルドは、私に渡された手袋にちらりと視線を向けてから、笑みを浮かべ、聞いてきた。
「それは、何かのなぞかけかな?あるいは、きみなりの了承なのかな。まだ、きみはフェリックスと婚約関係にあるものだから」
「深い意味なんてありませんわ。ただ、私には荷が重いのです。このレース編みの手袋も、私に素晴らしく似合っているかと聞かれましたらそうとは言えません。この貴婦人のアイテムは、美しい人にこそ、似合うものだと思います」
──そう、例えば、お姉様のような。
私の言葉に、アーノルドは困ったものを見るような目で、私を見た。
自虐していると思われたのだろう。
「きみも、十分に美しい。いや、美しい、というよりも可憐だ。それに何より、私はきみの瞳を気に入っている。きみの瞳から見て、世界はどう映っている?その世界を、私にも教えて欲しいんだ」
「私の瞳から見た世界?そんな大層なものではありませんわ。森は緑に見えるし、空は青く見えます。アーノルド卿、あなたも同じのではなくて?もし違うようなら、お医者様にかかった方がよろしいのではありませんか?」
にっこり笑みを浮かべて答えると、流石のアーノルドも鼻白んだ様子だった。
その隙を逃さず、私は今度こそ彼に淑女の礼を執り、その場を後にした。
「では、失礼いたします。貴婦人のアイテムが似合うご婦人が見つかるとよろしいですわね」
令嬢、ではなく貴婦人と言葉にしたのは、意図的である。
我ながら嫌味ったらしい~~と思わなくもないが、こういう相手にはお世辞というのは通用しないのが世の常というものである。前世も今世も、そこは変わらない。
足早に回廊を後にして私は、曲がり角を曲がって、ようやく安堵の息を吐いた。
(フェリックス様と婚約を解消することになったら、私はどうなるのかしら……)
いや、私はどうしたいのだろうか。
やりたいこと、したいこと。
それは何だ、と突然聞かれても、すぐに答えを出せそうにはない。
いくら、前世の記憶、知識、経験があるのだといっても、今世、貴族令嬢として生きてきたのは変わりようのない事実。
十八年かけて培ってきたものを全て忘れることはできなかった。
(だけど)
私は、フレンツェル公爵家の娘だ。
公爵令嬢として、誰かと結婚し、この血を残していかなければならない。
それは私の責務で、義務だ。
この十八年間、私は貴族として育てられてきた。
貴族として贅沢もしてきた。
それなのに、その権利だけ享受して、義務を放り出す……というのは、できない。
それは、前世の記憶──社会人としての経験があるからこそ、より強くそう思うのだろう。
(うーん……。理不尽な目に遭ったから全て捨ててやる!っていうのは、あまりにも無責任すぎるわよね……。私は、公爵家の娘として、生を受け、その権利を散々貪ってきたのだから……)
平民の家に生まれていたら身につけることは不可能だった、知識や教養。
衣食住に悩んだことはなく、美味しい食事が当然のように振る舞われる日々。
それを、私は今までこの十八年間受けてきたのだ。
それは、私が貴族だから受けてきたもの。
それなのに、その権利だけ得て義務を放棄など、私にはできない。
(……とは言っても、結婚……というか、貴族としての生き方に縛られるのも、嫌なのよねー……)
アーノルドの提案は、【貴族の娘】としての立場で言うなら、願ったり叶ったり、というものだ。
諸手を挙げて受け入れるべき話であり、先程の私のように突っぱねるなど有り得ない。
この話をお父様にしたのなら、きっとお父様は早々に彼との婚約話を纏めてしまうだろう。
少し考えて、私はすぐに答えを出した。
(アーノルドと結婚……は嫌!!)
本能というのか、直感的というのか。
とにかく嫌なものは嫌なのだ。
「助けてあげる」と言う彼からは、傲慢さが透けて見える。
さながら彼は、釣竿を構えて魚を釣り上げようとしている釣り人のよう。
本当に助けたいと思うのなら、思ってくれるのであれば、彼は私を試すような行動をするべきではない。
つまり、彼からは誠実さが見えてこないのだ。
この期に及んで、私は相手の気持ちを望んでしまう。
かなり、高望みをしている自覚はあった。
それでも、自身の感情を押し込め、責任と義務に圧殺され──『仕方ないから』という言葉で全てを諦めるのは、もっと嫌だった。
(アーノルドとの婚約を回避するには、他の人と婚約を結ぶ?行き遅れになったら、お父様にも迷惑がかかるわよね……。社交界の人にも、なんて言われるか分からないし)
ああ、と私は強く思った。
生まれ変わったら、異世界で。
貴族の娘として生を受けたというのに──なんって、生きにくいのよこの世界は……!!
これなら、前世の方がよっぽど生きやすかった。
少なくとも、結婚を強制されることはなかったもの。
(そういえば、前世も私、未婚だったものね~……)
婚活しなきゃなぁ、とか思ってもいたけど。
案外おひとり様も楽しくて、仕事にのめり込んで──気がついたら婚期を逃していた。
(それで……)
何歳で、私死んだのだっけ??
というか、死因は何だったかしら……。
(……思い出せない!!)
前世の記憶の最期を辿ろうにも、全く分からないのである。
ぼんやりと、前世の人生で体験したこと、感じたことなんかは思い出せるのだけど。
詳細を思い出そうとすると、途端それはぼやけてしまうのだ。
(老後の健康づくりのためにロッククライミング始めたり、親戚に『結婚しないの?』と聞かれた時に、『相手は結婚できない人なの(注:二次元キャラクターの話です)』と答え、それ以上、話を続けにくい雰囲気作りをしたこととかは、はっきり覚えているのに……!!)
しかも、その後、親戚内で、私が不倫していることになり、腫れ物を触れるような扱いになったことまで、覚えているというのに……!!
無駄なことばかり覚えていて、肝心な部分は思い出せない。
ため息を吐いた私は、そのまま城を出て馬車留めへと向かった。
まずは、お父様に報告しなければ。
私とフェリックス様の婚約。
そして、お姉様とフェリックス様の件。
(お姉様とフェリックス様は【運命】なのだから、あちらが優先されるわ。そしたら、私は──)
☆
フェリシアが去った回廊で、ひとり残されたアーノルドは含みのある微笑を浮かべた。
「……やっぱり面白いな、彼女」
発言も行動も、全て彼の斜め上をいく。
だから、目が離せない。
手渡されたレース編みの手袋を見て、彼はそれに口付けを落とした。
「……必ず、私はきみを手に入れる。フェリシア。これは、宣戦布告じゃない。勝利の宣言だ」
なぜなら、手は既に打ってある。
彼女には届かない言葉を呟いて、アーノルドは彼女の手袋をコートのポケットへとしまった。
フェリックスの【運命】がアグネスだと言うのなら──。
彼の【運命】は、フェリシアだと、相場は決まっている。
運命など、どうとでも出来る迷信だ。
彼はそれを、端から信じていない。