マグノリアの花が舞う
マグノリアの花吹雪が舞う、ある春の日のこと。
その日、お姉様の体調は普段よりも落ち着いていた。
だから、お父様が言ったのだ。
『そろそろアグネスも王太子殿下にご挨拶をしなければな』
お父様の言葉に、私も頷いた。
お姉様は、病弱だ。
だから社交界デビューもしていない。
当然、フェリックス様と面識もなかった。
だけど、いずれお姉様はフェリックス様の義姉になる。
フレンツェル公爵家の人間としても、ずっと挨拶をしないというのも体裁が悪い。
病弱とはいえ、伝染る類のものではないのだしいつかは挨拶しなければならないとお父様もお母様も考えていたのだ。
それに、お姉様自身、私の婚約者であるフェリックス様に興味があるようだった。
部屋から出ることができない彼女は、私の話を興味深そうに、楽しそうにいつも聞いている。
今日あったこと、そこで感じたこと。
そこでした会話。天気の様子。私の予定。
お姉様は、取り留めのない私の話を楽しげにいつも聞いてくれる。
彼女は、私の婚約者であるフェリックス様の話を聞くとぽつりと言った。
「王太子殿下に……お会いしてみたいわ」
泡沫のような、溶けて消えてしまいそうな小さな声。
私が目を瞬くと、お姉様がふっと笑った。
さらりと、彼女の白い髪が揺れる。
どこもかしこも白いお姉様。
彼女が口を開く度、赤がちらついた。
「あなたの婚約者でしょう?挨拶を、しなければならないわ」
そういう経緯もあり、フェリックス様とお姉様の対面の場が設けられた。
とはいっても、お姉様はやはりベッドから起き上がることは出来ない。
必然、フェリックス様がお姉様の寝室を訪れることになる。
私も同席し、彼と共にお姉様の部屋を訪ねた。
扉をノックし、声をかける。
「お姉様、フェリックス様がいらっしゃったわ」
すぐに返答はあった。
フェリックス様を連れて、私は部屋の中に入る。
その時、一際強い風が吹いた。
ざぁ、と春の暖かな風が吹く。
お姉様は、窓際のベッドに腰をかけて──私たちを見ていた。
その瞬間、私は見てしまった。
お姉様を見た、フェリックス様が──息を呑んだ。
彼は目を見張り、お姉様を見つめていた。
頬に、朱が差している。
いつも冷たげで、氷のようなひとが。
お姉様を見て、その瞳に希望を見たような煌めきを宿し、目を、心を、奪われていた。
一目で、彼は恋に落ちたのだと──私は知った。
お姉様に恋した、私の婚約者。
お姉様は、ケホケホと空咳を繰り返しながらも私たちを見た。
そして、にこりと微笑む。
「お初にお目にかかります。こんな格好で申し訳ありません……。私が、フェリシアの姉、アグネス・フレンツェルです」
軽やかな声は、柔らかく空気に溶けた。
お姉様の言葉を受けて、ハッとしたようにフェリックス様が彼女を見て、挨拶を返す。
「あ、ああ。私がフェリックス・ツァオベラーだ。……あなたがフェリシアの姉君だね。噂通り……お美しい」
その言葉は、よくある社交辞令のひとつだし、定型文のひとつだが──私は、それが彼の本心のように感じた。
お姉様は、フェリックス様の言葉に少し驚いたようにまつ毛をはね上げさせた。
そして、恥ずかしげに俯いた。
長い白銀のまつ毛が、彼女の薄青の瞳を扇のように覆い隠す。
お姉様の頬は薄桃に染まり、紅翠色の瞳は潤んでいた。
その瞬間、確かに彼らは恋に落ちたのだ。
ひとが、恋に落ちる瞬間を私はその時初めて見た。
お姉様は、淡い初恋を。
フェリックス様は、確かな一目惚れを。
彼らが交わした言葉はごくごく少ないものだったけど、その短すぎる時間を、彼らはとても大事にしていた。
それが、私には手に取るように分かった。
この場で、【邪魔者】は私だ。
想い合うふたりを引き裂く障害に、私はなってしまったようだった。
「…………はぁ」
その時のことを思い出した私は、またため息を吐く。
(ひとの心は縛れないもの)
だから、フェリックスがお姉様に心を奪われたことを、私は責める気にはなれなかった。
それは、お姉様も同様だ。
今まで、彼女はフレンツェル公爵家の人間としか関わってこなかった。
そんな彼女にとって、外部の人間……つまり、フェリックス様との接触は、かなりの衝撃を伴ったのだろうし、新鮮でもあったのだろう。
フェリックス様は【麗しの王太子殿下】と呼ばれるほどに、整った顔立ちをしている。
切れ長の青い瞳に、研ぎ澄まされた刃のような銀の髪。
一見、冷たそうに見えるが、フェリックス様は目が大きいからか可愛らしい印象も受ける。
目元にかかる程の長さの前髪も、可愛らしさを増やす一助となっているように見えた。
総合的に見て、【可愛らしさと冷たさを併せ持つ美青年】それがフェリックス様である。
容姿に反して、彼は声が低い。そのギャップも、彼の魅力のひとつなのだろう。
そして、私との関係は──。
(お察し、完璧なまでの政略結婚……!!)
互いに特別な感情はなく、ただ定められた婚約者だから慣例に従って、定期的な逢瀬を重ねる程度の間柄である。
(……気付いて、しまったのよね)
今でこそ、こんなに冷めきった冷却完了な婚約者同士だが、聞いて驚くことなかれ。
私はこれでも、フェリックス様に憧れを寄せていた時期があるのだ。
(……まあそれも極々短期間で終わりましたけどね!)
恋……を、していれば、わかるのだ。
相手に、気持ちがないことを。
相手が、私を見ていないことを。
歩み寄っても、彼には見えない壁があって──それを踏み込むことを、彼は許してくれなかった。
(……ううん)
考えて、私は内心首を横に振った。
ただ、私に勇気がなかっただけ。
その、見えない壁を壊すほどの勇気が、私にはなかった。
結果、私は彼に歩み寄ることをやめ、ドライアイスのような仮面夫婦ならぬ仮面婚約者のいっちょうあがり!状態である。
他者を拒むような絶対的な見えない壁も、お姉様を見た瞬間、消失したのだ。
私が歩み寄ろうとしても、決して消えなかった壁が──一瞬にして。
それが、答え。
チリ、と僅かに胸が軋んだ。
それは失恋の悲しみ……とか、辛さとか、そういうものではなくて。
ただ、彼と婚約を結んでからの三年間。
私が求め、探していたものをお姉様はあっさりと得た。
私の今までの努力は、何だったのだろうと……そう、思ってしまったのだ。
意味がなかったんじゃない、とか。
無力感、とか。
この胸の痛みは──そう、喪失感に、少し似ている。
──と、その時。
考え事をしていたからか、誰かと衝突した。
──ドンッ
「痛っ……!」
鼻を殴打した私は、その痛みに目の前に星が舞った。