過去からの脱却
それは誰も持っていないのに、持ち手が宙に浮いている。
驚きのあまり絶句して見ていると、そんな私を見て、リアン殿下が苦笑した。
「フェリシア様は、ご存知ないですよね。これは、日傘石と言って、貴族のご婦人の必需品なんです。こうして、手で持っていなくても直立する」
「……それも、五大属性魔法のひとつなのですか?」
唖然として尋ねると、リアン殿下は頷いて答えた。
「木と風の混合魔法です。およそ五十年ほど前に発明された品ですよ。……どうぞ」
リアン殿下がそっと、日傘を私の方に動かした。
魔力で操作しているのだろう。
(いまいち、魔力というものが私には分からないわ……)
こんな状態では、フレンツェル公爵家の娘だったことはおろか、魔力の証明すらできない。
ますます怪しさに拍車がかかるというものだ。
自身の至らなさと情けなさを突きつけられた私は、いたたまれない思いで日傘の柄を掴んだ。
柄の先には、先程の水晶のような石がついている。
いや、ここから日傘が伸びているのだろう。
……文明の進歩を感じる。
しみじみそう思っていると、リアン殿下が空を仰いで言った。
「もう日も陰ってきましたが……それでも、初夏の日差しは強いですから」
「ありがとうございます。……ツァオベラーでは、肌の白さが美人の象徴だったのです。私も日差しには昔から気を遣っていて……そうそう。肌の白さを求めて瀉血をする婦人もいたくらいです。そんなものだから、パーティーでは貧血で倒れる女性も少なくなくて──」
……と、私は何の話をしているのだろうか。
斜め上に話を展開してしまった。
リアン殿下もさぞ困惑していることだろう。
私は、話を変えようと咳払いをした。
(そもそも、リアン殿下はなぜ私を誘ったのだっけ?)
そうだわ、先程の話の続きをするためじゃない。
(さっき、どこまで話をしたっけ……)
記憶を辿ろうとすると、リアン殿下が言った。
「それは……五百年前。ツァオベラー王朝の社交界の話ですよね?とても興味深いです、ぜひ、聞かせていただけますか」
──とても、興味に溢れた声で。
思わず顔を上げると、そこにはきらきらと目を輝かせたリアン殿下がいた。
(……そうだったー!!このひと、魔法学に大変興味があって、だからこそ嘆きの塔の封印を長年解こうとしてたのよね)
その知的好奇心からして、五百年前の──この国の歴史に興味と関心があるに決まってる。
私は、引きつった笑みを浮かべ、取り繕うように言った。
「ええ、そうなのですが……ええと、リアン殿下は先程の話の続きをされにいらしたのですよね?」
何とか話を本題に戻すと、ハッとした様子で彼が頷いた。
「はい。先程は急用が入ってしまい、話が途中のままでしたから。……この先に、東屋があります。そこで話をしましょう。フェリシア様、お手を」
リアン殿下が、私に手を差し出した。
エスコートしてくれるのだろう。
流石、皇族だ。
その所作は手馴れているし、美しい。
マナーとして、私も彼の手に自身の手を乗せる。
ふと──フェリックス様のことを、思い出した。
ツァオベラーの時と王都も城の構造も全く違う。それでも思い出してしまった。
庭園の先、フェリックス様に連れていかれた東屋の傍にあったのは──マグノリアの、木。
『あなたは王妃として、あなたの姉……第二妃となる彼女を、助けてあげて欲しい』
その時、びゅう、と一際強い風が吹いた。
木々が揺れ、枝葉が擦れる。
髪が舞い上がり、それを咄嗟に抑えた。
強い風が去った後──リアン殿下が、苦笑する。
「強い風でしたね。春の嵐でしょうか。……フェリシア様、私は四季の中でも、春が一番好きなんです」
ふと、そんなことを口にした彼に、私は顔を上げた。
目が合うと、リアン殿下が微笑む。
「春は、芽吹きの季節ですから。何か新しいことが起きるのではないかと、つい、期待してしまう。ほら、よく言うでしょう?『春は出会いの季節だ』って」
「──」
「……我ながら、少しロマンチックすぎるとは思うのですが」
苦笑する彼に、私は目の覚める思いだった。
記憶が、入り交じる。
あの時の光景を思い出す。
マグノリアの白い花が舞う、東屋。
紅茶の中に浮かんだ、白い花弁。
誰も、私の話を聞いてくれない。
違う、そもそも、聞く気がないのだ。
皆、自分のことばかり考えている。
皆、自分が一番大切だ。
当然のように私を動かそうとして、私に感情があるとは思いもしない。
私は、人形じゃない。
私は、私の──。
「…………フェリシア様?」
リアン殿下に声をかけられた私は、思わず笑みを零していた。
「……確かに、春はいい季節ですね。私は、あなたのその言葉が好きです」
「え……」
リアン殿下が、僅かに目を見開いた。
それに、私は静かに言葉を続ける。
「……今まで、私は春が一番嫌いでした。……春は、姉と婚約者が出会った季節ですから」
いつまでも囚われていてはいけない、とは思う。
春を迎える度に思い出しては悪感情に襲われる、なんて真っ平御免だ。
だけど、それでも問答無用であの時の光景を、会話を、気持ちを──思い出してしまう。
しかし、それだけではいけないのだと思った。
だって、春はこんなにも気持ちが良い。
暖かな日差しは明るくて、風は穏やかで、空は明るい。
私のこの淀んだ感情は、相応しくない。
庭園の木々は既に花が散っていて、新緑が鮮やかに彩っている。
夕陽を浴びたその姿は、春の終わりを知らせているようで、少しだけ、切なさも感じさせるけれど。
「……ありがとうございます。私は、あなたのおかげでまた、春を好きになれそうです」
私は、人形じゃない。
今を生きる人間で、私にだって感情がある。
思考する頭がある。
私は、私の人生を生きるのだ──そう決めたのだから。
「過去に囚われるのではなく、未来に目を向ける。……とても、素敵だと思います」
いつまでも囚われているべきではない。
過去は過去なのだと、割り切らなければ。
だって、人生は長いのだから。
それを気付かせてくれたリアン殿下に、私は笑いかけた。
吹っ切れたような、晴れ晴れとした、爽やかな気持ちだった。
リアン殿下は、僅かに沈黙してから彼もまた、笑みを浮かべた。
「──そうですか。それなら、良かったです」
いつの間にか、互いに足を止めていた。
どちらともなく、また、歩き出す。
──今度は、マグノリアの花を、あの時の光景を、思い出すことは無かった。
 




