婚約を、解消してください
(…………転んでしまった……ですって~~!?!?)
いや、あなたが押したんじゃない!!
お姉様、押したわよね!?私の背を!!
思い切り、突き飛ばしたわよね!?
信じられない思いで彼女を見る。
一瞬、視線が交わった。
「──」
お姉様は、私を見た途端、なにかに怯えるようにびくりと震えた。
それを見て、フェリックス様が疑念に満ちた目を私に向けてくる。
すぅ、と心臓が冷えた。
お姉様は、フェリックス様の胸に顔を埋めながら、震えた声で、はっきりと言った。
「フェリシアが……!フェリ、シアがっ……ゴホッ!」
興奮したためか、彼女が激しい咳をした。
「アグネス!無理は……」
フェリックス様の言葉を遮って、お姉様が叫んだ。
やはり震えた、細い声で。
「フェリシアが、自分で落ちたの……!!」
「は……?」
「えっ」
フェリックス様と私は、それぞれ驚きの声を零した。
(何を言おうとしてるの、このひとは……)
唖然とする私の前で、お姉様が泣きながら言った。
もはや、この場のヒロインは彼女だ。
舞台は、彼女のために誂えられている。
「辛いって。私たちを見ているのが、もう、苦しいって……」
「そんな……」
「違います!」
私は咄嗟に叫んでいた。
痛む足を引きずって、何とか階段を無理に登る。手すりに掴まり、もはや執念で階段を登りきると、お姉様が薄青の瞳を見開いた。
そして、酷く怯えた様子でまた、私から視線を逸らし、俯くのだ。
その仕草に、腹が立った。
(あなたが突き落としたのよね!?)
それなのに、なぜ嘘を言うのだろうか。
そこまで考えて、私はお姉様の考えを悟った。
「──」
(そうだわ、だって)
お姉様は、打たれ弱いひとだ。
基本的に、彼女は公爵家の人間としか接しない。
公爵家の人間──使用人は全員、お姉様に優しく接する。
当然だ。
彼女は、家の主人の愛娘。
正妻の子であるフェリシアよりよっぽど溺愛されている。
もし、傷でも付けようものなら、どんな罰を受けるか分からない。
使用人は、過保護なまでにお姉様を大事に大事に守った。
蝶よ花よと可愛がられ、慈しまれて育ったお姉様。
だから、彼女は慣れていない。
叱られることに。
責められることに。
今だってきっと、自分が妹を突き落としたと知られたくないから、嘘を吐いている。
(ひとを……妹を、殺しそうになっておいて……その態度?)
私は、唖然とした。
彼女は今、自分が何をしたのかわかっているのだろうか。
(ひとを、殺しそうになったのよ?)
危うく、妹が死にそうになったというのに──この期に及んで、彼女は自己保身を選ぶというの。
そこに、家族の愛はない。
親愛の情は見られない。
今になって、私は思い知る。
(お姉様は……自分が大事なんだわ)
ううん、違う。
自分しか大事では無いのだ。
それに気づいた瞬間──私は、全てを諦めた。
もはや、こういうひとには何を言っても無駄だと、私は知っているからだ。
話しても、意味が無い。
なぜなら、彼女は本気で私と向き合う気がないのだから。
偽りと欺瞞だらけの言葉に、何の意味があるのだろう。
嘘しか言わない彼女に、何の話が出来るというのだろう。
酷く冷めた目を向けていると、フェリックス様が恐る恐る、といった様子で私を見てきた。
お姉様は、私の視線を恐れるように顔を伏せている。
目が合わない。
「……フェリシア。やはり、あなたは私を──?」
いい加減にしろよ、この野郎。
──と、危うく淑女らしくない言葉が飛び出そうになった。
自己保身しか頭にないお姉様。
自分に都合のいい世界しか見えないフェリックス様。
(良いじゃない。良くお似合いだわ。
返品は受け付けませんので、悪しからず)
そんなことを考えながら、私は薄く笑みを浮かべた。
フェリックス様の顔が引き攣ったので、今の私は、それはそれは恐ろしい顔をしているのだろう。
鏡がないから、自分が今どんな顔をしているかも分からない。
分からないけど──でも。
もう、良い。
お母様に似ているのかもしれないことだって、もうどうでも良くなった。
そんなくだらないことを悩んでいたこと自体、馬鹿らしく思えたのだ。
「婚約を、解消してください。私には、耐えられません」
「──」
フェリックス様が、息を呑む。
気がつけば、随分野次馬の数が増えていた。
(皆様、噂話がお好きなようで……)
全く、貴族といっても、ひとの噂話を好むところは平民と変わらない。
きっと、明日には社交界中にこのことが広まっているだろう。
なにせ、目撃者が多すぎる。
──周囲のひとたちは、私が失恋の痛みに耐えきれず、言い出した言葉だと思っただろう。
だけど、私の顔を見たフェリックス様は、ようやく私の真意に気がついたようだった。
なにせ、今の私はお母様と同じくらい、冷たい目をしているようだから。
私の目を見れば、その瞳に悪感情はあっても、恋情がないことくらい、彼にもわかるだろう。
目は、口ほどに物を言う、と言うのだから。