「フェリシアが転んでしまったの」
その瞬間、私は考えるより先に体が動いていた。
足先に力を込めて、まず、踵からの着地を心がける。
──ダンッ!!……と、めちゃくちゃやばそうな音がした。
(あ、まずいかも……??)
うっすら嫌な予感を感じたが、考えるより先に体を動かした。
(足の裏が床に着いたら、次は足首を変な方向に捻る前に……)
力任せに、膝を曲げる……!!
屈伸のような体勢から、そのまま私は飛ぶように背中から倒れた。
しかし顎は引いて、頭を守る体勢を心がける。
(いわゆる、蹲踞の体勢からの後ろ受け身……!!)
前世、老後の体を心配した私は、健康づくりのためロッククライミングを始めたのだ。
その時の経験が、今、活きた。
ロッククライミングは──それはもう、とにかく落ちる。本当に落ちる。
初心者は特に落ちやすい。
汗で手が滑って落ちる。
疲れで掴まる力が弱まり、落ちる。
とにかく……落ちるのだ!!
ロッククライミングの教室で、私が最初に習ったのが【受け身】だった。
それを、覚えていたのだ(魂が)。
しかし、流石にこの高さだ。
完全に落下の勢いを殺せることはできず、私は長座体前屈のような形でフィニッシュを決めることとなった。
はたから見たら一体何が起きたのか分からないほどの勢いだっただろう。
だけど、階段落ちのように転がり落ちるよりは、マシだったはず。
この長い階段だ。
階段落ちみたいな、ギャグのような落ち方をしていたら、多分肋の骨が何本かいっていたと思う。
貴族の娘とは思えない長座体前屈姿を披露した私は、ゆっくりと息を吐いた。
(ドレスが……苦しい……!)
それに、覚悟はしてたけど足首も捻った気が……する!!
いや、怪我の確認はあとにしよう。
認識してしまったら、動けなくなる気がするから。
のろのろと顔を上げた私は、階段の上のお姉様と目が合った。
「っ…………!!」
お姉様が、息を呑む。
その顔は、遠目からでも分かるほどに青ざめていた。
ゆっくり、私は体を起こした。
瞬間、鈍痛が足首を駆け抜けた。
「──っ……」
(やばい。これ……まずい、かも?)
骨、折れてる?
いや、歩けてるしきっと大丈夫よね……??
怖いから、今は確認はしたくない。
私は、右足を引き摺るようにしながら立ち上がった。
「ひっ……」
お姉様の悲鳴のような声を上げる。
『ひっ』って、何……!!
悲鳴をあげたいのは、私の方である。
今、突き落とされたばかりなのよ!?私!!
(……お姉様は一体どういうつもりで私を階段から突き落としたのだろ……)
私を殺したかった?
ううん。そんな明確な殺意は感じなかった。
だから、きっと──。
感情が昂って、ついというところだろう。
じんじんと痛む右足首は、徐々に熱を持っていっているような気がする。
それを極力、気にしないようにしながら、私は別のことを考えて意識を逸らすことにした。
(お父様への交渉材料が増えた、と思えば……不幸中の幸いなのかしらね)
そう思わなければ、やっていられない。
(一体、私が、何をしたって言うの)
ただ、懸命に自分の人生を生きてきただけだ。
誰かを虐げていたわけでも、誰かを搾取してきたつもりもない。
それなのになぜ、こんな目に遭わなければならないの。
突き落とされて──下手したら、命を失っていたかもしれなかった。
「………」
きっと、今の私は酷く冷たい目をしている。
お母様のように。
私が階段から落ちた音を、聞きつけたのだろう。
人の足音が、遠くから聞こえてくる。
彼らはまず、階段上のお姉様を見つけたようだ。
「どうなさいましたか!?今の物音は……。……レディ・アグネス!?」
騎士が、お姉様を見て驚きに息を呑む。
深窓の令嬢が、まさか登城しているとは思わなかったのだろう。
そして、ここはまだ、王族専用区域内。
騎士の驚きぶりを見るに、前回同様お姉様は予定を取り付けていなかったのだろう。
彼女の姿に、騎士が動揺した様子を見せた。
(……こんなに騒ぎになったのなら、きっと)
私がそう思った、その時。
「──アグネス!?」
驚いた声が、階段上から聞こえてくる。
今、まさに私が考えていたひとの声だ。
結局、フェリックス様はこの場に現れた。現れてしまった。
足首は痛いし、人が集まってきたせいで好奇の視線に晒されて居心地が悪い。
(……どうして、こうなるかしら!!)
本当に、いい加減にしてほしい。
思わず袖の中で拳を握った、時。
「フェリシアが……転んでしまったの……!!」
階段の上から、お姉様の細い声が聞こえてきた。