98.ブサメン、ラブホ街で凄む
小一時間後、源蔵はダイナミックソフトウェアの社屋へと辿り着いていた。
裏手にある休日用出入口に廻り、IDカードでロックを解除してから薄暗い廊下へと足を踏み入れる。
土曜の午後だから、当然ながらひとの数は少ない。
いつも作業している評価用ベンチのフロアもほとんど誰も居ないが、自席のあるフロアに移動すると、何人かの見知った顔が源蔵を出迎えた。
「あぁ、来てくれましたか」
声をかけてきたのは、開発部門課長の末永敏樹という人物だ。彼は美彩や璃奈、更には良亮といった開発担当社員らの上司である。
源蔵は評価担当ではあったが、所属部署は彼も同じく開発部門となる為、この末永課長は源蔵の上司に当たる訳だ。
実はこの日、源蔵を呼び出したのはこの末永課長だった。
「例の話、GOがかかったんですか?」
「うん、遂にね。これでやっと、櫛原さんの実力をこの目で拝むことが出来るというものですよ」
末永課長はニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
過日、緊急にして重大な不具合が発生した際に、良亮は己の失態を棚に上げて美彩や璃奈を激しく罵倒した。ところが源蔵による鋭い分析の末、結局は全ての責任は良亮にあることが明白となった。
あの時、良亮を厳しく叱責した職制クラスの人物が、この末永課長だった。
末永課長はあれ以来、源蔵に何かと声をかけて色々と技術面の話をする様になっていた。どうやら彼の中では源蔵が相当なスキルを持つ技術者であると、強く印象付けられたらしい。
そして今回。
末永課長は或る極秘特例業務の一端を源蔵に担当させるという話を、少し前から持ち掛けてきていた。
当初源蔵は断る腹積もりだったが、内容が内容だっただけに、とても見過ごせるものではなかった。
(ちょっと今回だけは、真面目に頑張ろか……)
美彩との約束をドタキャンしたのも、末永課長からのこの極秘特例業務の開始日がたまたま同じ日にバッティングした為でもあった。
彼女には申し訳ないことをしたとも思うが、今回の極秘特例業務は美彩とのプライベートな約束をも反故にせざるを得ない程の重大なインパクトを持つ。
今のところは社内でも極秘中の極秘である為に真相を話す訳にはいかないのだが、いずれこの件が正式且つ公式にアナウンスされる様になれば、美彩に謝罪を添えて説明することが出来る様になるだろう。
「ほんなら、早速始めましょか……」
「頼みますよ、櫛原さん。貴方のスキルには大いに期待していますからね」
末永課長は源蔵の筋肉で盛り上がる肩口をぽんと叩きながら、信頼に満ちた笑みを浮かべた。
どうやら彼は、源蔵の技術を相当に買っているらしい。
◆ ◇ ◆
それから半日程が過ぎて、源蔵は末永課長の席へと歩を寄せていった。
「今日の結果は大体、こんなもんです」
源蔵が手にしたノートPCの画面を示すと、末永課長は自身の顎先を軽く触れながら何百行と並ぶソースコードをじぃっと凝視した。
「……これを、この半日で」
「えぇ。まだデバッグは済んでませんけど」
源蔵の応えに、末永課長は神妙な面持ちで二度三度、頷き返してきた。そして彼は手元のシーケンス図や仕様書と何度も見比べながら、源蔵が書き上げたコードを順に追いかけてゆく。
「成程、ここで改竄されてた訳ですか。よく見破りましたね」
「昔、或るOSのカーネル開発に携わったことがありまして、その知見が役に立ちました」
何の気なしに答えた源蔵だが、末永課長は流石ですと、感心した様子で大きな吐息を漏らした。
「お陰様で一番厄介な部分を乗り越えることが出来ました。情報セキュリティ部からもエビデンスが出てきていますので、来週の後半には社内に公表することが出来るでしょう。お疲れ様でした」
まだ多少の残作業はあるものの、今日のところはお開きで良さそうだ。
源蔵は帰宅の挨拶を交わしてから帰り支度を整え、フロアを出ようとした。
「あ、お疲れ様です」
裏手の休日用出入口に向かう途中、ひとりの女性社員が会釈を送ってきた。
彼女の名は、小湊由歌。総務課所属で、休日出勤者の管理を担当している。
この日、源蔵が末永課長に呼ばれて出社することになった際も、休日出勤届の諸々を処理してくれたのが彼女だった。
「お疲れ様でした~」
源蔵も会釈を返して、そのまま通り過ぎようとした。
ところがどういう訳か、由歌が幾分慌てた様子で源蔵の背中に呼び止める声を投げかけてきた。
「あ、あの櫛原さん! その、出来たらこの後、少しお時間、宜しいですか?」
「え? 僕にですか?」
思わぬ申し入れに、源蔵は驚きを禁じ得なかった。
よくよく見れば、由歌も退社のタイミングだったらしく、既に帰宅の準備を終えている様子だった。
「いや、まぁ、別にこの後は特に予定も無いんで構いませんけど……」
「やった……ありがとうございます!」
そんな訳で、ふたりは肩を並べて社屋を出た。
一体何の用なのか内心で小首を傾げていた源蔵だったが、由歌に案内されるまま幾つかの通りを過ぎて、と或る一角に足を踏み入れた段階で、これは妙だと密かな警戒心が湧き起こる様になっていた。
由歌が源蔵を連れてきたのは、ラブホテル街だった。
「……ここの辺に、小湊さんの用があるんですか?」
「えっと、はい……その、実は」
足を止め、何故か困り切った顔で源蔵を見上げてくる由歌。
この時、源蔵は懐からスマートフォンを取り出して時間を確認する振りを見せながら、電源と音量ボタンを由歌にはバレぬ様に小さく操作した。
「わたしのカレシが、この近くのラブホで働いてて……その、ちょっとした金銭トラブルになってるんです」
「それを、何で僕に?」
何かが妙だ。
源蔵は由歌の大人しそうな小顔を覗き込んで、僅かに凄んだ。
これは絶対に、裏がある――由歌の表情を見れば見る程に、源蔵のその確信はより強固なものへと変わっていった。




