88.ブサメン、軽い気分でID交換
翌週、月曜の朝。
この日も美彩は、評価用ベンチ環境にノートPCを持ってきて、源蔵の隣席に陣取っている。
横からちらりと覗き見た源蔵は、美彩の表情には落ち着いた色が伺えることに、少しばかり安堵した。
先週末の彼女は色んな意味で荒れ気味だったが、今はそんな素振りなど欠片も見られない。どうやらしっかりと気持ちを切り替えて、週明けの業務に臨んでくれている様だ。
ところが、源蔵は他のところで少しばかり気になる部分があった。
「……上条さん、香水、変えました?」
「あ、気付いてくれたんですね」
すると美彩は、妙に嬉しそうな笑みを返してきた。
曰く、今までの香水はカレシである良亮の好みに合わせていたらしいのだが、実をいうと美彩自身は、余り好きなブランドではなかったらしい。
それがこの日は、わざわざ違うものに変えてきた。もっといえば、以前から美彩が好んで使っていたものに戻したというのである。
一体どういう心境の変化なのかは分からないが、自分の身につけるものなのだから、矢張り当人の好みに従うのが最も自然であり、あるべき姿ではないだろうかとも思う。
「うん、良いと思いますよ」
その応えに美彩は、とろける様な笑顔を返してきた。
更に源蔵は、イヤリングや髪留めにも幾つかの変化を発見したのだが、余り細々と褒めるのは却ってセクハラにもなりかねないと判断し、敢えて口にするのはやめた。
ただ、
「今日はまた今までと違った雰囲気で、華やかで良いですねぇ」
と、自分なりの感想を軽く伝えた。全く何もいわないのは、それはそれで失礼かも知れない。
この辺の複雑な機微は結構難しいところではあるのだが、これも矢張り、白富士で課長職を経験した対人能力の蓄積の結果であろう。
ともあれ、美彩が機嫌良く仕事に取り組んでくれているのなら、それに越したことはない。
源蔵はそれ以上の余計なことは何もいわず、自らの評価業務に意識を集中させた。
やがて午前中の業務も終わり、昼休憩に入ったところで源蔵はトイレへと足を運んだ。
その途中、何人かの若手男性社員の会話が聞こえてきた。
「何かさ……今日の上条さん、すっげぇ雰囲気良くね?」
「オレ聞いたんだけど、宮城さんと別れたらしいぜ」
矢張り、そうだったのか――源蔵はこの日の美彩の奇妙なまでの上機嫌に、何となくではあるが、そんな予感を抱いていた。
今までの彼女は良亮のカノジョという安定したポジションを得る代わりに、色々な面で無理をして、負担を背負い込んでいたのだろう。
しかし今日は、それらの重圧から解放された様な爽やかな印象を振り撒いている。彼女自身、相当に気分さっぱりと己の精神を解き放つことが出来たのだろう。
「いやー、マジでイイよな……ってか、今ならワンチャン、イケんじゃね?」
「今日、飲みに誘ってみよーぜ。何か脈ありそうな感じするし」
色んなところで、そんな声がちらほらと聞こえてきた。
恐らく美彩は、恋愛体質だと思われているのだろう。でなければ、こんなにも社内が色めき立つ筈がない。
(まだ週始めやのに、皆さん元気やなぁ)
内心で苦笑を漏らしつつ、源蔵はオフィスの自席へと引き返してコンビニ弁当を広げた。
今日は隣席に美彩の姿は無い。どうやら、同僚か友人ら辺りと社外へ食べに出たのだろう。
意味も無く源蔵の隣に張り付くという日常も、そろそろ終わりが近いのかも知れない。
そんなことを考えながら食事を終えてスマートフォンをいじっていると、昼休み終了の10分前になって美彩もオフィスに戻ってきた。
そして彼女は隣の自席に腰を落ち着けるや、妙に気負った様子で源蔵に美貌を寄せてきた。
「あ、あの、櫛原さん……ちょっと、イイですか?」
「はい?」
やけに真剣みを帯びた美彩の表情に、源蔵は思わず首を傾げた。
すると美彩は、微妙に緊張した様子でスマートフォンを取り出し、その先端部分を源蔵に向けた。
「あの、もし出来たらでイイんですけど、ラインのID交換、お願い出来ませんか?」
曰く、緊急時の連絡用に源蔵のIDを念の為に取り込んでおきたいとのことだった。
そういうことであれば、と源蔵は特に深い考えも無く、自身のスマートフォンを取り出した。当然ながら、櫛原名義で購入したものである。
そうしてID交換を終えると、美彩は何故かほっとした様子でひとつ大きな吐息を漏らしていた。
「あの、一応緊急用とはいいましたけど……その、御挨拶ぐらいは送っても大丈夫ですか?」
「あー……おはようございますとか、その辺ですか。僕は全然構いませんよ」
白富士時代、源蔵は部下や同僚、上司などのラインIDを誰彼構わず集めまくっていた。美智瑠や晶に至っては普通に雑談チャットを交わしていたし、ビデオ通話なども当たり前の様にやっていた。
そういう意味では、美彩とのID交換もそれらの延長の様な感覚に過ぎず、日々の挨拶や、簡単な雑談程度ならば幾らでも応じるつもりだった。
そんな軽い気分でID交換を終えた源蔵だったが、どういう訳か美彩の方は、隣席で妙に気合を入れて拳を握り締めていた。時折、
「よっし……よーっし……やった……やったぞ……」
という妙な小声が漏れ聞こえてくる。
そんなに源蔵からIDを聞き出すのが怖かったのか。
(まぁそらぁ……こんなスキンヘッドの強面やから、気合要ったんやろな……)
一緒に働き始めて、漸く二カ月目という間柄である。
源蔵の見た目に引いてしまう心境も、十分に理解出来た。
と、その時だった。
「あのぉ、上条さん……ちょっと良いスか?」
何人かの若手男性社員が、連れ立って歩を寄せてきた。先程、トイレに向かう途中に聞いた声の主も、その顔ぶれの中に居る様な気がする。
(ははぁ……早速皆さん、上条さんを口説こうって訳やな)
源蔵は、邪魔をしてしまっては申し訳ないとばかりにそっぽを向いて、午後の作業に備えて諸々の機材を取り出し始めた。
一方で美彩は、声をかけてきた連中に笑顔で応対しながらも、何故か時折、源蔵にちらちらと視線を流していた。




