86.ブサメン、家政婦パワー発揮
初めて足を踏み入れた他人のワンルームマンション室内――そこで夜明けを迎えた源蔵は、キッチンを借りることにした。
ここは、美彩がひとり暮らししている一室だった。
昨晩、完全に酔い潰れて身動きが取れなくなった彼女を担いで、何とかここまで辿り着いた源蔵。
あらぬ疑いをかけられて立場が危うくなるのを恐れ、早々に立ち去ることも考えたのだが、ベッドに横たえたところで美彩が源蔵のスラックスをむんずと掴んで放してくれなかった。
「うぅ……櫛原さぁん……帰らないでぇ……」
意識があるのか無いのかよく分からない状態だったが、随分と苦しそうにしている彼女をそのまま見捨てることも出来ず、結局こうして美彩の部屋で一夜を明かす破目となってしまった。
が、この部屋に残ることにした決断は、間違っていなかったかも知れない。
夜中にベッドから這い出してトイレに向かおうとする彼女だったが、ろくに立ち上がることも出来ず、その場で嘔吐しそうな構えを見せた為、源蔵は美彩を小脇に抱えてトイレまで引き摺っていってやったりした。
あのまま放っておけば、室内がとんでもなく悲惨な状況になっていただろう。
泥酔者が嘔吐物を喉に詰まらせて窒息死したという話は、決して珍しくはない。そういう意味でも、源蔵が美彩の為に居残ったことについては正しい判断を下したといえる。
問題は、美彩自身がどういう反応を示すかだろう。
もし昨晩のことを彼女が何ひとつ覚えていなければ、相当拙いことになるかも知れない。
しかし源蔵は、自身が罵られ、謗られるぐらいは別段何とも思わなかった。それよりも、美彩をあのまま放置して帰宅する方が遥かに後ろめたく、後悔に苛まれていただろう。
勿論、源蔵は性的な意味合いでは美彩に指一本触れることは無かった。
彼女は飽くまでも良亮のカノジョだし、他人のオンナに手を出す程に飢えているつもりはない。
(信じる信じひんは上条さんに任せて、僕はやるべきことだけやっとこか)
源蔵は美彩を再びベッド内に押し込めてから、室内の片付けへと着手した。
正直、彼女を抱えてこの部屋の中に足を踏み入れた時には、その余りに乱雑な荒れっぷりに驚きを禁じ得なかった。
所謂、汚部屋というやつだった。
ゴミはそこら中に散乱しているし、衣服や下着もあちこちに放置されたままだ。
その他、生活用品が至る所に散らばっており、ベッドと玄関までの動線を除けば、ほとんど足の踏み場も無い程の有様だった。
(そいやぁ上条さん……カレシの為に尽くしまくってて、自分のことは何ひとつ出来てないとかいうてたっけ……)
この室内の惨状も、いってしまえば良亮に散々振り回された結果の、ひとつの被害といえなくもない。
ここまで乱れた生活を強いられても尚、彼女は良亮に尽くそうとしていた訳か。そしてその良亮は美彩にモラハラ的な態度を取り続けたばかりか、他のオンナにまで手を出している。
そう考えると、美彩が憐れに思えて仕方が無かった。
(部屋の片づけぐらいは、してやっとこか……)
源蔵がそんな発想に囚われたのも、美彩の悲しい境遇を思えばこその同情心だったのだろう。
部屋の主をベッドに眠らせた後、源蔵は出来る限り音を立てない様に気を遣いながら室内の掃除と片付けに着手した。
そして、現在。
朝陽がカーテンの向こう側から射し込んできた。一晩中、室内の片づけと掃除に時間を費やした源蔵は、急激に空腹を覚えた。
(梅昆布茶も淹れとこか……)
美彩は恐らく、頭痛に悩まされることだろう。
昨晩彼女をベッドに押し込んでから、近所のコンビニへと買い出しに出かけた際に入手しておいた梅昆布茶セットを、大きなマグカップに放り込んだ。後は電気ポットの湯を注ぐだけである。
すると、しばらくしてベッド上で美彩がむくりと起き上がり、茫漠とした顔でこちらに視線を流してきた。
「あ……櫛原さん……おはよう、ございます……」
しばらく呆けた顔で室内をきょろきょろと見廻していた美彩だったが、次第に意識がはっきりしてきたのか、急に顔を青ざめさせて再び源蔵にはっとした表情で振り向いてきた。
「あ、あの……アタシ、もしかして、やらかしちゃいました……?」
「やらかしの定義をどこに置くか次第ですけどね」
源蔵は苦笑しながら、熱い梅昆布茶を入れてベッド脇のテーブルに置いてやった。
美彩は途端に顔をしかめた。恐らく感覚を取り戻すにつれて、頭痛が彼女を苦しめ始めたのだろう。
やがて、ひと息入れて漸く落ち着いた表情を見せる様になった美彩は、そこで改めて再び驚いた様子で室内を見渡した。
「え……嘘……何、これ……全部、片付いてて……って、まさか、櫛原さんが、やって下さったんですか?」
「すんません、勝手なことしまして……ただ、あのままですと僕も暗がりで怪我する恐れがあったんで、失礼は承知の上で片付けさせて頂きました」
いいながら源蔵は、再びキッチンに戻って朝食の準備を進めた。
今日は、土曜日。会社は休みだ。
少しぐらいゆっくり朝食を楽しんでも、バチは当たらないだろう。
一方、美彩は尚も呆然としたままであったが、源蔵が用意を進めている朝食の匂いに釣られたのか、もぞもぞとベッドから這い出してカウンターテーブルの向こう側から覗き込んできた。
「わ……美味しそ……櫛原さんって、料理がお上手なんですね」
「感想は食べてからで結構です。ところで上条さん、昨夜は化粧も落とさんと寝てしまいましたけど、大丈夫ですか?」
その瞬間、美彩はヤバいという顔つきになって、慌てて脱衣所兼洗面所へと飛び込んでいった。その後、彼女はそのままシャワーを浴び始めた様だ。
(何や、慌ただしいひとやな……)
源蔵は小さく肩を竦めながら、並べたプレートにスクランブルエッグやウィンナーを盛りつけていった。
後はインスタントコーヒーを淹れれば、完成である。
(何か、こういうの久し振りやな)
美月と共に暮らしていた頃は、こうやって朝食を用意してやるのが当たり前の日常だった。
それが今は、失われた。
自ら決断したこととはいえ、一抹の寂しさが脳裏を過った。
やがて、ドライヤーを当て終えた美彩が簡単なナチュラルメイクだけを施して、脱衣所兼洗面所から姿を現した。この時の彼女はラフなルームウェア姿で、オフィスで見せるきっちりしたバリキャリOL然とした美しさとはまた別の魅力に溢れていた。
「すっごく、美味しそうな匂い……櫛原さん、お待たせしました。その、お腹空いちゃったんで……頂いても、イイですか?」
「僕も腹減ってますんで、食べましょか」
そうしてふたりは、小さなダイニングテーブルを挟んで腰を落ち着けた。




