83.ブサメン、ちょっとだけ本気出す
翌朝、いつもの時間に出社した源蔵は、ふと小首を傾げた。
大体の場合、源蔵よりも早く出社していることが多い美彩が、今日はまだ姿を見せていない。もしかすると昨日の夜にカレシとデートして、少し頑張り過ぎたのだろうか。
そんな馬鹿なことを考えていると、始業直前になってその美彩が慌てて出社してきた。
(……おや?)
源蔵は、美彩の両瞼が妙に腫れぼったいことに気付いた。
或る程度は化粧で上手く誤魔化しているものの、源蔵は白富士インテリジェンスやリロードで何人もの恋する女性達と接する機会があった為か、その微妙な変化にも目ざとく気付くことが出来た。
恋多き女だった美智瑠の言葉を借りれば、今の美彩の両目は間違い無く、泣き腫らした後だろう。
ということは昨晩、カレシとの間で何かあったのだろうか。
(まぁ、他人様のことやから僕がとやかくいうのは筋違いやろうけど)
しかし、業務に支障を来たすようでは、何か考えなければならない。事実美彩はこの日、危うく遅刻しそうだった。
(とはいうても、僕が上条さんのプライベートにずけずけ踏み込むのもなぁ……)
少しばかり難しいかも知れない。源蔵は内心で溜息を漏らしつつ、美彩からの評価業務指示の展開を静かに待った。
ところが、ここでもおかしなことが起きた。
つい先程、美彩が送ってきた業務内容の一部は既に、昨日の内に実施済みだったのだ。
「上条さん……この三番から五番、昨日やりましたけど」
「え、そんな筈は……良いです、分かりました。もう一度確認します」
美彩は平静を装っている様に見えるが、しかしその美貌には明らかに動揺の色が広がっていた。
彼女程の優秀な社員でも、色恋沙汰で何かあると、こんなにも脆いものなのか――決して恋愛経験値が豊富とはいえない源蔵だが、美彩のこんな反応を見ていると、ついそんなことを考えてしまう。
このまま大きな事故も無く、すんなり業務をこなしてくれれば良いのだがと密かに願った源蔵。
過去の経験から、そんな願望を抱くと大抵裏切られるものだと分かっていたが、それでも矢張り祈らずにはいられなかった。
そして案の定、心配した通りの結果となった。
源蔵が評価する予定のテストプログラムは、午前中にはビルドが完了して試験用モジュールに書き込まれる筈だったのだが、午後一になっても一向に準備が整う気配が無い。
どうやらメイクファイルの修正に手間取っていたらしく、本来の予定よりも三時間以上オーバーして、やっと源蔵の手元にテストプログラムが届くという有様だった。
「すみません、遅くなりました。もし定時までに終わらなかったら、明日続きをお願いします。別に残業までして貰わなくても結構ですから」
素っ気無い態度で、その様に告げてきた美彩。
源蔵は思わず、眉間に皺を寄せた。
(あれ……これの評価結果って、今日の定例報告会で出さんとあかんやつと違たっけ?)
それでも美彩は、今日中に終わらなければ明日でも良いと語った。つまり、自分のミスで遅れたのだから、自分が叱責されれば良いという訳だろうか。
(先輩社員としての矜持とかプライドってやつか……まぁ大変なこって)
勿論、彼女自身が上司からの叱責を甘んじて受け入れるというのならば、それでも構わない。
しかし本来の実力を少しだけ発揮しようと腹を括ったばかりの源蔵としては、凡庸な評価担当者としての、当たり前の結果だけを出すつもりは無かった。
(ま……見とって下さい)
源蔵は手早く作業に着手した。
◆ ◇ ◆
そうして夕方の17時を過ぎた頃、源蔵はひと通りの評価作業を終えて美彩に報告用データを提出した。
美彩は、驚いた様子で両目を大きく見開いている。
「え……もう、終わったんですか?」
「はい、終わりました」
源蔵は何事も無かった風に、しれっと答えた。
これに対して美彩は、源蔵が出してきた結果ファイルを何度も何度も見返している。やがて彼女は、眉間に皺を寄せてその美貌を源蔵に向けてきた。
「櫛原さん、念の為に確認しますけど……まさか手を抜いたり、適当なデータを貼り付けたりなんてことはしてませんよね?」
「お疑いなら、ログを全部ご覧下さい。デバッグログを仕込んだのは上条さんご自身ですから、僕の出した結果が嘘かどうかは、上条さんの目で見て下されば分かることかと思います」
接続基板や評価用スニファを片付けながら、源蔵は小さく肩を竦めた。
美彩は尚も疑わしげな表情を浮かべていたが、やがてその面からは疑念の色が綺麗に消え去っていた。自身が仕込んだデバッグログが間違い無く出力されていることを、その目で確認したのだろう。
「嘘……間違い無く……全部、終わってる……」
それから美彩は、一体どうしてこんなに早く終わらせることが出来たのかと問いかけてきたが、会議室の方から彼女を呼ぶ声が響いてきた。
どうやら、定例報告会が始まるらしい。
「別にどうしても何も無いですよ。たまたまです」
源蔵は嘯いたが、事実は違う。
彼は今回、似た様な手順が多かったことを利用して、簡単な自動評価マクロを手早く組み上げたのだ。更に出力された評価結果はAIを駆使して取り纏め、所定のフォーマットに全て落とし込んだ。
恐らく、源蔵が演じている凡庸な評価担当レベルの人材では、ここまでの技量はあり得なかっただろう。
しかし白富士インテリジェンスで数々の複雑なシステムを造り上げてきた源蔵にとっては、本当に朝飯前レベルの手業に過ぎなかった。
(まー、流石にネタバラシしてしもたら色々訊かれてまうやろうから、ホンマの偶然ってことにしとこか)
源蔵は美彩に捕まってしまっては面倒だと考え、さっさと帰宅の準備を済ませて退社した。
(カレシさんと何かイヤなことがあったんかも知れんけど、一個ぐらいエエことがあっても宜しいでしょう)
この日の源蔵の評価結果は、いわば後輩から先輩への贈り物だ。
また明日から、今まで通りに業務を割り振ってくれれば、源蔵としてはそれで満足だった。




