79.悟ってしまった己の虚無
その日の仕事を終えて、夜遅くにコンドミニアムへと引き返してきた源蔵は、窓から望むセントラルパークの漆黒の姿を遠目に眺めた。
白富士インテリジェンスの経営陣から北米支社の立て直しを直接に命じられてから、既に半年以上が経過していた。
ロサンゼルスからニューヨークに本拠ビルを移転した北米支社は、外から見れば日本の一流ソフトウェア開発企業の流れを汲む優良な会社に見えるだろう。
しかし内実は違った。経営基盤こそ辛うじて維持されていたものの、対外的な信用はガタ落ちとなっており、白藤家がテコ入れを強く望んだのもやむなしと思える程の悲惨な状況だった。
源蔵は、緩み切った現地採用社員の性根を徹底的に叩き直し、余剰な人員は容赦無く解雇し、あらゆる無駄を削りまくって何とか収支を五分五分に戻した。
そこに加えて、ソフトウェア開発のノウハウに関しても技術部門の幹部らと何度も議論を交え、最近になって漸く彼らも源蔵の言葉に理解を示す様になってきていた。
しかし、ここに至るまでが本当に長かった。
元々英語が堪能だった源蔵は言語の壁に苦しむことはなかったものの、緩みに緩んだ気質を引き締め直すのには相当に骨が折れた。
それでも、何とか北米支社は僅か半年で最悪の事態を免れるところまで持ち直してきた。
実際、もうあと一歩というところまで迫っている。
源蔵は自身を抜擢してくれた白藤家に、結果を以て応える段に至ろうとしていた。
(それでも、まだあと半年ぐらいはかかるかなぁ)
最初の約束では、赴任期間は六カ月だった。しかし到底この期間だけでは時間が足りない。
源蔵は日本で統括管理課の課長をも兼任してくれている玲央に頼み込んで、何とかもう半年、北米支社赴任期間を伸ばして貰う様に経営陣に話を通して貰った。
返答はすぐに寄せられた。勿論、OKだった。彼らとしても源蔵に託した以上は、源蔵の判断に委ねたいとの思いを抱いているらしい。
(白藤家も、随分と僕のことを買ってくれてはんねんな……有り難い話やわ)
そんなことを思いながら、ひとり掛けソファーに巨体をゆっくりと沈めた源蔵。その時、奥の寝室から物音が聞こえてきた。
何事かと腰を浮かしかけた源蔵だったが、しかし立ち上がることは出来なかった。
火花が迸り、何かが炸裂するかの様な破裂音が鳴り響いた。
直後、腹の辺りに焼ける様な痛みが走った。
見ると、ワイシャツの腹部付近に赤黒い染みが広がり始めていた。
改めて破裂音――否、銃声が鳴った方に視線を転じた。黒い目出し帽の男が、驚いた様な色を青い両目に滲ませて呆然と佇んでいた。
押し込み強盗か、或いは武装空き巣か。
いずれにせよ、源蔵は自身の腹を撃たれたことを咄嗟に悟った。
急激に、意識が失われてゆく。自分は、ここで死ぬのか。
だが、憂いは無かった。
自分にもしものことがあった場合には、全ての財産を美月に譲る旨を記した遺言書を既に完成させてある。同時にリロードの権利も美月に譲り、以後の経営は操と協力して進めてゆくようにとの指示も抜かりなく残しておいた。
そういえば、操はどうなるだろう。
源蔵が渡米する際、操とは偽装カノジョの関係を解消する旨を伝えておいた。
操は、源蔵が帰国した日に自分の思いを伝えたいなどと口走っていたが、あれは恐らく社交辞令だろう。実際彼女は源蔵が渡米して三カ月後には、別の男性と良い仲になり始めていたらしい。
美月からの連絡によれば、その男性は操が過去に付き合った元カレのひとりで、今はバリスタ講師として真っ当な道を歩んでいるとの由。
コーヒー好きの操が、バリスタ講師の元カレと結ばれるのも時間の問題だろう。
ましてや、自分はもうここで命を落とすのだ。彼女は源蔵という足かせから解放され、自らの意思で恋愛を楽しむことが出来る様になるだろう。
白富士インテリジェンスの統括管理課も、きっと大丈夫だ。課長を兼任してくれている玲央が上手く差配してくれるだろうし、美智瑠や晶、詩穂、康介といった優秀な部下達がきっと立派な成果を残してくれるだろう。
日本に残してきたひとびとは全て、源蔵が居なくても十分にその能力を発揮して、完璧に立ち回ってくれる筈だ。
美月も調理師学校でしっかりと学び、源蔵から継いだ遺産を上手く活用して立派なシェフになってくれるに違いない。
(けど……僕は、結局何やったんやろうな……)
薄れゆく意識の中で、源蔵は己には何も残っていないと実感した。
傍らを、拳銃を携えた目出し帽の男が酷く慌てた様子で駆け抜けてゆく。きっと彼も、まさか自分がひとを撃つことになろうとは、思っても見なかったのだろう。
そういう意味では気の毒な奴だとも思ったが、源蔵にとっては最早、どうでも良い話だった。
(僕は……何も無い空虚な人生やったなぁ……)
最後まで、一企業人として在り続けた。だが、本当にそれだけだった。
養女の美月は既に手を離れつつあるし、操も元カレと共にリロードを上手く軌道に乗せてゆくだろう。
源蔵が気を掛けてきたひとびとは全て源蔵の手を離れ、自立して去ってゆく。今ここで、人生の終焉を迎えようとしている源蔵が居ようが居まいが、彼ら彼女らには何の支障も無い。
結局、自分はその程度の男だったのだ。
そのことが、ただただ情けなかった。
(けど……もうエエわ……僕はもう、このまま死ぬんやし……死人に口なしやな。後は皆、自分の人生を楽しく生きてってや……)
どんなに頑張っても、所詮はただのブサメンだ。
イケメンならばドラマの様な起死回生の展開が待っているのだろうが、誰にも顧みられることのない禿げの不細工野郎には、そんな奇跡は起こらない。
ただ、その残酷で厳然たる事実を受け入れながら、源蔵は目を閉じた。
そこで、意識が途絶えた。




