72.バレてしまった悩み事
操は、源蔵の腕に絡みついたまま艶然とした笑みを寄せてきた。
「えっと……昨晩のことが思い出せないなら、もう一度……今度こそはちゃんと、記憶に残る様に、ヤってみませんか?」
彼女のこの大胆な一面に源蔵は驚くと同時に、或る種の危惧を抱いた。
それは操に対してではなく、自分自身に対してである。
(ヤバい……もし二回目でやらかしてしもうたら、どうしようか……)
源蔵は、素面の状態では操の期待に応えられないかも知れぬという恐怖感を覚えた。
操は源蔵との体の繋がりに、最高の快感を得ることが出来たと絶賛しているが、それがもしも、酒の力に依るものだったなら、どうなるのか。
初めての時の方が余程に素晴らしかったなどといわれたら、立ち直れる自信はあるか。
その不安から、源蔵は慎重に判断せざるを得なかった。
「いや……今日はもう、やめときます」
極力優しく操を押し退けつつ、源蔵は布団から這い出した。
操は幾分驚いた表情を浮かべているが、しかし決して嫌悪感や失望感などは浮かべていない。彼女は飽くまでも源蔵の意思を第一に考えてくれている様子だった。
(酒に酔ってたからこそ、大胆に出来たってことも十分、考えられるしな……)
逆に素面だと、却って緊張して上手く出来ない可能性もある。否、寧ろそう考えるべきだ。
であれば、今ここで操の誘いに乗るのは非常にリスクが高い。
(絶対、幻滅されるわ……)
源蔵は己の中に湧き起こってきた恐怖心や警戒心を決して操に気取られぬ様に平静を装いながら、下着や衣服を身につけ始めた。
一方の操は、少しばかり心残りな表情を見せているものの、彼女も同じく下着や部屋着などに手を伸ばし始めていた。
「ちょっと朝飯の準備でもしてきます」
源蔵は一階のリロード店舗部へと向かった。
料理でもして、心を落ち着けようと思った。兎に角何でも良いから別のことに意識を向けなければ、まともな思考も出来ない様な状態だった。
(童貞卒業って、こんな不安になるもんなんか……?)
色々な場面で、色々な話を聞いてきた源蔵。
しかしどの男性も、童貞喪失に対してそこまでマイナスの感情を抱くことも無かっただろう。寧ろ、やっと一人前のオトコになれたと喜ぶケースが多かった様に思う。
これに対し源蔵は、ひたすら不安と恐怖だけを感じていた。
酔わなければ下手くそと思われるかも知れない――普通はそんなことはあり得ないのだろうが、この歳になるまで女性経験が無かった男の複雑な心理状況が、今の源蔵の精神に深い打撃を残している様に思える。
(やっぱり偽装カノジョなんて、頼むんやなかったな)
決して惨めだとか、そういう感情ではない。
操にはオンナ除けの効果を期待しているし、きっと彼女は立派にその役割を果たしてくれるだろう。
しかし、肉体関係という部分で余計な情報を操に与えてしまったのは痛恨だった。
事実源蔵は、昨晩操と夜を共にするまでは本当に女性経験が無かった。どうすれば相手が喜び、何が嫌がられるかなどは今の時点でも全く分かっていない。
それ故、もう一度肌を合わせたいといい寄られても、その気になれなかった。
(酔って記憶を無くすぐらいの状態になった時の僕は、何をどうやって神崎さんのお眼鏡に叶う様なことをやってのけたんや……?)
それが何ひとつ、分からない。
だから恐ろしかった。
(神崎さんとは当分……昨晩みたいな状況にはならん様に気ぃつけんと拙いな)
もしまた、抱いてくれと誘われた時、どうやって断れば良いのか分からない。
であれば最初から、そういう状況にならなければ良いのだ。
源蔵は、階段を下りてくる操の足音を聞きながら、渋い表情で朝食の準備を進めた。
◆ ◇ ◆
週明けの朝、源蔵は出社に備えて着替えを済ませてから、ダイニングテーブルで美月が用意した朝食にありつこうとしていた。
すると美月がテーブルの差し向かいに腰を下ろしながら、妙にニヤニヤした笑みを寄越してきた。
何事かと源蔵が小首を傾げると、美月はさも嬉しそうに問いかけてきた。
「ね、お父さん。もしかして操さんと、ヤっちゃった?」
「……何で、そない思うん?」
幾分警戒しながら問い返した源蔵。
操は、昨日の土日限定ボードゲームカフェの手伝いでリロードを訪れた際、操がいつも以上に上機嫌だったと応じた。
「それにね、お父さんの話題が出てくると、めーっちゃ嬉しそうだったんだよね。で、うちもピンと来た訳。あー、これって絶対、お父さんとヤれたんだなーって」
「……女子って、ホンマに怖いな。何でそんなことで分かんのやろ」
源蔵は否定はしなかった。こんなことで嘘をついても意味が無いと考えていたのである。
ところが美月は、源蔵の浮かない顔に不思議そうな面持ちを向けてきた。
「……お父さんは嬉しくないの? 何だか、機嫌悪そうだけど」
「機嫌悪いっちゅうか、ちょっと拙いなぁって思うてるのは確かやな」
こんなことを義理の娘に話すのは如何なものかと思う部分もあったが、少なくとも性体験に関しては間違い無く美月の方が余程に上級者である。
源蔵は操との初体験の際の記憶が全く残っていなかったことと、酔った時の自分に対する強烈なコンプレックスを抱いていることを素直に告げた。
これに対し美月は驚くと同時に、訝しげな視線を返してきた。
「え……男のひとって、そんなこと気にするもんなの? うち、初めて聞いた」
「いや、僕がこの歳になるまで女性経験が無かったからやと思う。普通はそんなこと、誰も気にせんやろな」
源蔵は静かにかぶりを振った。
美月は何ともいえぬ神妙な面持ちで、ただ腕を組むばかりだった。




