65.バレてしまった負け組
夜の遊歩道。
張り詰めた冷気の中で、源蔵はひとりベンチに腰を据えている。その視線は、少し離れた大通りを行き過ぎる群衆の間を彷徨っていた。
「あの、楠灘さん……お待たせしました」
そこへ、いつになく声のトーンを落とした美智瑠が姿を現した。いつもの明るく元気な笑顔は無く、その美貌には彼女らしくない緊張が張り付いている。
源蔵は立ち上がり、穏やかな笑みで彼女を出迎えた。
「すみません、こんな寒いところで。でもあんまり変に腰落ち着けてしまうと、却って辛気臭くなりそうやったんで」
「いえ、そんなの、全然大丈夫です」
美智瑠の表情は依然として硬い。晶から、美智瑠には或る程度話を通しておいたとの連絡を貰っている。
であれば、前置きは無用だ。
源蔵はちょっと歩きましょうかとひと声かけてから、幾分沈んだ表情の美智瑠と肩を並べてゆっくり歩を進め始めた。
「初恋の方と再会出来たって話は、こないだ園崎さんからお聞きしました。良かったやないですか。一番、好きな方やったんでしょ?」
何となく気まずそうな顔つきで小さく頷き返す美智瑠。
すると源蔵は美智瑠の正面に廻り込んで、その巨躯を屈める様な格好で彼女の美貌を覗き込んだ。
「僕のこのぶっさいくな顔、よぉ見て下さい。怒ったり、機嫌悪そうにしてますか?」
源蔵はにっこり笑って自身の頬を拳で軽く叩いた。
美智瑠は、可笑しそうに頬を緩めた。同時に、目尻から僅かに涙が溢れ始めた。
「折角好きなひとと再会出来たのに、何をそんな暗い顔する必要あるんですか。もっと喜ばんと、人生損しますよ」
「でも……アタシ、楠灘さんに色々助けて貰ったのに、何も……」
恐らく彼女は、源蔵からの様々な好意や力添えに恩返しが出来ていないといい出すつもりだろう。
しかし源蔵は先手を打って、自らの剃り上げた頭をぺたぺたと叩いた。
「僕は雪澤さんに、凄く大きな恩がありましてね……ほら、この頭。雪澤さんが背中押してくれたから、思い切ってスキンヘッドに出来たんです。お陰様でただのしょぼくれた薄ら禿げから、エエ感じのいかつい強面に様変わり出来ました。もうホンマに感謝してます」
これは嘘偽りない、源蔵の本心だった。
美智瑠からスキンヘッドにしてみてはと提案を受けたあの時から、源蔵の人生は大きくプラスの方向に転換した様な気がしている。
確かに源蔵は社内コンペで美智瑠を助け、彼女の暴力的な元カレから救い、更には才女としての第一歩を踏み出すサポートもしてやったが、そんなものはどれも大した話ではない。
それよりも彼女が源蔵に、新たな一面を開かせたくれたことの方が余程に大きな出来事だった。
だからこそ源蔵は心の底から、自分なんかを負担に思って欲しくないと願っていた。
「雪澤さん。是非、幸せになって下さい。雪澤さんは僕の大事な恩人で、お友達です。雪澤さんが最高の人生を送れることを心から願ってます。僕に応援、させてくれますか?」
美智瑠は涙目で何度も頷き返してから、斜め後方に視線を転じた。
そこに、コート姿のひとりの男性の姿がある。長身で中々のイケメンだった。彼は美智瑠が手招きするのに応じて、小走りに歩を寄せてきた。
「楠灘さん、紹介しますね……アタシの初恋のひとで一番大好きなカレ……夏川陽太さんです」
「はじめまして、夏川です。美智瑠から、貴方のことは色々と伺っておりました」
差し出されてきた手を、源蔵は穏やかな笑みと共に握り返した。
陽太は外務省に務める英語通訳担当で、事務官としても忙しい毎日を過ごしているらしい。
裏表を感じさせない、真っ直ぐな瞳が印象的な人物だった。
「とてもお似合いのおふたりです。ただ夏川さん、雪澤さんを少々お仕事でこき使ってしまいますけど、そこは勘弁して下さいね」
「えぇ、どんどん使ってあげて下さい。美智瑠はちょっと忙しいぐらいの方が、余計なことを考えなくて済むので丁度良いんですよ」
おどけた調子で陽太が笑うと、美智瑠が目元を拭いながら苦笑を滲ませて、彼の小脇を肘で突いた。
「ま、そんな訳ですから雪澤さん……もしまだ心変わりしてなかったら異動願、出しといて下さい」
「……はい。明日にでも」
ここで源蔵は、ふたりから離れた。
自身がいうべきことは、全て伝えた。後はふたりで色々話し合い、そして前進してくれれば良い。
そうして源蔵が遊歩道を出たところで、それまで物陰に身を潜めていた晶がそっと近づいてきた。
「カッコイイ振られっぷりでしたね、センセ」
「いやいや、僕そもそも告白も何も無かったのに、振られたとか酷くないですか?」
ワンレンボブを傾けながら悪戯っぽく笑う晶に、源蔵は苦笑を返した。
「あたしも振られることがあったら、あんな風にカッコ良くて爽やかに笑ってあげたいなぁ」
「あのね園崎さん、振られること自体、全然カッコ良くないですからね。変に負け組の方に足突っ込んで来ないで下さい」
そんな源蔵に、晶は尚もいう。
源蔵は負けて男をアゲた、と。
美智瑠が初恋の男性と結ばれたことが何故源蔵の敗北となるのか、その辺の理屈がよく分からないのだが、晶は兎に角ひとりで勝手に納得していた。
「ねぇセンセ。この後、どこか飲みに行きましょうよ。センセの四度目の失恋祝いに」
「微妙にムカつくいい方しますねぇ」
しかし源蔵の面には怒りの念は微塵も浮かんでいない。寧ろ、晴れやかな笑みが張り付いていた。
過去三度の失恋は、いずれも源蔵自身の醜悪な容貌が理由とされた。
翻って今回はどうか。源蔵の容貌が嫌われた訳ではなく、更に好きな男性が現れたという点が大きく違う。不細工が理由ではない別れというのは、初めての経験だった。
だからこそ、逆に嬉しかったし、清々しく思えた。
「センセ……振られたのに、何か嬉しそう……」
「いやだから、振られたってのはいい方おかしいですって」
尚も源蔵の面からは笑顔が消えない。
これなら、大丈夫だ。
美智瑠とはこの先も、友人として接することが出来る。
今はただ、その一事だけで満足だった。




