61.バレてしまった法曹知識
夜の東京都心を望むガラス張りのパノラマビューに視線を据えたまま、美月はソファーの上で愛用のクッションをぎゅうっと抱き締めていた。
つい数分前、源蔵は真奈子が帰ってきていることを美月に告げた。
美月はそれ以降すっかり表情を消し、物思いに耽っている様子でじっと動かなくなった。
きっと彼女も、いつかはこんな日が来るだろうと予測していたに違いない。しかしいざ実際にその時が訪れてみると、頭の整理と心の準備が追い付かなくなっているのではないだろうか。
少なくとも源蔵は、その様に考えた。
(まだ19歳やもんな……そらぁ、すぐに切り替え出来る訳ないやんな)
気の毒には思うが、しかし美月の気持ちはしっかりと聞いておく必要がある。
源蔵はリビングテーブルを挟んだ反対側のソファーで、上体を乗り出す構えを見せた。
「少なくとも一度は会うて話しとかんとならん。せやから僕は会うつもりで居るけど、美月はどうする?」
すぐに答えを求めるつもりはなかった。
美月は美月で色々と考え、決心を固める為に相応の時間を要するだろうと思っていたからだ。
ところが意外にも、彼女は源蔵に視線を戻し、小さく頷き返してきた。
「うちも、会う。どんな結末になるか分かんないけど、でも、ちゃんと顔合わせて、最後まできっちり話した上で結論出したいから」
この時の美月は、思いの外、はっきりとした強い意志を湛えた表情を浮かべていた。
もっと怯え、気弱になってもおかしくない状況なのだが、それでも彼女はしっかり前を向いていた。
ひとりで高校生活を耐え凌ぎ、生き抜いてきたバイタリティーが宿っているのかも知れない。
「……そうか。ほんなら、先方に連絡入れとくわな」
源蔵は腰を浮かせて二階部の自室に戻ろうとした。が、出来なかった。
同じく立ち上がった美月が背後から抱き着き、そのか細い腕を源蔵の屈強な体躯に廻していたからだ。
美月は小刻みに震えていた。
「お母さんのことは、好きか?」
「……分かんない」
自信の無さそうな声が帰ってきた。背中越しに、美月がぎゅっと瞼を強く閉じている気配が伝わってきた。
矢張りこれは伝えておくべきか――源蔵も腹を括って、僅かに首だけを巡らせた。
「場合によっては、美月のお母さんと喧嘩することになるかも知れへんで。それでも構へんか?」
「……うん。大丈夫。うちの今の家族は、お父さんだけだから」
どうやら美月も、覚悟は決まっているらしい。であれば、源蔵も迷いなく自らの取るべき手段を講じるばかりである。
源蔵は一度瞼を閉じ、それからしばらくして目を開けた。
その時の彼の面には鬼神の如き迫力が伴っていた。
◆ ◇ ◆
その週の土曜日。
源蔵は美月を連れて、都心部の繁華街へと足を向けた。
駅前の待ち合わせスポットに辿り着いたところで、40代半ばから後半ぐらいのカップルが、ふたりを出迎えた。
女性の方は美月の母、真奈子である。
そして男性の方は真奈子が最近付き合い始めたカレシで、内科医の前田秀介という人物だった。
両者は多少表情が硬いものの、社会人としての礼儀を以て互いに挨拶を交わし、簡単な自己紹介まで済ませたが、その間美月はほとんど言葉を発することなく、僅かに俯いて秀介に会釈する程度だった。
「ここでは何ですし、そこの喫茶店にでも入りましょか」
源蔵は、大通りに面したガラス張りのウィンドウが特徴的なカフェチェーン店を指差した。
真奈子と秀介も是非そうしましょうと応じ、四人は連れ立ってその店内へと足を運んでいった。
そうして四人掛けのテーブルに腰を落ち着けたところで、源蔵はまず、美月の現状について説明を加えた。
「まず美月さんですが、今は私と養子縁組を組んでおりまして、姓も楠灘に変わっております」
「え……どういうことですか?」
驚きを隠せない様子で、真奈子が声を裏返らせて鋭く叫んだ。
ここで源蔵が、店の迷惑になるから落ち着く様にと真奈子を諭した。秀介も、立ち上がろうとする真奈子の腰の辺りに軽く手を振れ、兎に角座れとばかりに呼び掛けている。
真奈子は尚も不服そうな面持ちで、それでも一応は再び椅子に腰を下ろした。
だが、真奈子は一度爆発しかかった感情を抑えることが出来ないのか、尚も険しい表情で噛みついてきた。
「ちゃんと説明して下さい。うちの娘を、私の承諾も無しに勝手に養子縁組で引き取るだなんて、一体何を考えてらっしゃるんですか?」
「お言葉ですが蕗浦さん。美月さんは既に成人に達していますので、親の了承無しに養子縁組が可能です。お疑いなら今ここで、ネット検索してみて下さい」
そんな馬鹿なと呟きながらスマートフォンを操作した真奈子。それから数分後、彼女は愕然とした表情を浮かべていた。
源蔵の説明に誤りが無いことを確認したのであろう。
秀介も渋い表情を浮かべているが、養子縁組に関しては反論の余地が無いとして一旦は言葉を呑み込んだらしい。
ここから源蔵は、美月を引き取るに至った経緯を事細かに説明した。
最初は怒りの表情でじっと睨みつけてきていた真奈子だったが、源蔵の言葉が進むにつれて、その顔色には次第に怯えの念が混ざる様になってきた。
「まぁそういう訳でして、美月さんは現在、法律上も戸籍上も私の娘です。ここから先は、その前提で話をさせて貰います」
「ちょっと……美月、あんた、それで良いの? こんな見も知らない男の娘だなんて、あんたそれで、私に顔向け出来る訳?」
再び真奈子が感情を高ぶらせながら立ち上がり、美月に迫る構えを見せた。
対する美月は、意を決した表情で凄まじい剣幕の母親を睨み返す。
「勝手なこと、いわないでよ……お母さんの無責任な行動で、うちがどれだけ苦しんだか、分かってるの? うち本当に、死にそうな目に遭ったんだよ? それなのにお母さんは、うちの知らないところで、新しいオトコ作って……そっちこそ親として、散々苦労を負わせた娘に顔向け出来るの?」
「この……馬鹿娘!」
真奈子が激発し、掌を振り下ろしてきた。
美月は覚悟を決めていたのか、ぎゅっと目を瞑って、母親からの強烈な一撃に耐えるべく歯を食いしばっている。
が、その張り手は遂に炸裂することは無かった。
源蔵がその直前に、自らの手刀で真奈子の掌を受け止めていたのである。
「な、何すんのよ! 邪魔しないでよ!」
「……蕗浦さん。何度もいいますが、美月さんは戸籍上、貴方の娘ではありません。その貴方が私の娘に対して暴力を振るうならば、それは立派な暴行罪です。親の躾とか教育なんてものは、通用しません。赤の他人ですからね。何ならこの場で警察呼んで、被害届出しましょか? 暴行罪は親告罪やないから、警察はすぐにでも貴方を暴行罪容疑者として逮捕し、捜査が始まりますよ」
源蔵の凄みを帯びた眼光に、真奈子は目に見えてたじろぐ様子を見せた。
秀介も、源蔵の法曹知識は侮れないと見たのか、真奈子に落ち着けと諭す言葉を投げかけている。
そして美月は呆然としながらも、源蔵をじっと見つめていた。
その瞳には、安堵と信頼の色が浮かんでいる。
「私は舐められんのが大嫌いでしてね。喧嘩をお売りなさるなら、何ぼでも買いますよ」
ドスを利かせた源蔵のひと言に、真奈子は顔色を失いながら腰を下ろした。




