60.バレてしまった季節感の無さ
そろそろ二月が目前に迫ってきた一月下旬の或る日。
定時を過ぎても尚、課長机に張り付いたまま事務作業を続けていた源蔵の前に、詩穂がにやにやしながら姿を見せた。
「課長、もうすぐ二月ですね」
「そうですねぇ。一月なんて、あっという間でしたねぇ」
源蔵は吐息を漏らしながら、小さくかぶりを振った。
「最初の三カ月は月日が過ぎるのが早いっていう意味合いで、一月は去ぬ、二月は逃げる、三月は去るっていいますもんね」
「えーっと……あたし、そーゆーことをいいに来た訳じゃなくてですね……」
詩穂は赤いインナーカラーのミディアムボブを揺らしながら、苦笑を浮かべて小首を傾げた。
では、何を伝えたかったのだろうか。
行事的な何かだろうか。
「ほら、二月っていったら……」
「あー、豆まきですか。来週には節分ですね」
源蔵はこの日最後となる文書に職制サインを入れてから、ノートPCをシャットダウンした。
ところが詩穂は依然として、源蔵の目の前に居座ったままだ。その可愛らしい面には苦笑が浮かんでいる。
「うーん、それも間違いじゃないんですけど……ほら、こっちもあるじゃないですか」
などといいながら、彼女は自身の胸元で両手を組み合わせ、何かの形を作った。
ハート型だった。
ここでやっと源蔵も、詩穂がいわんとしていることに思い至った。
「あー、バレンタインですか」
「んもー……ここまでヒントあげなきゃ出てこないって、どんだけですか課長」
可笑しそうに頬を緩める詩穂に対し、源蔵は何ともいえぬ表情。
正直なところ、これまでバレンタインなどには全く縁が無かった為、彼女にいわれるまで全く思いつきすらしなかった。
しかし今年は違う。源蔵は卓上カレンダーに視線を流した。
バレンタイン当日は金曜日だった。
「ちょっと色々、考えなあかんな……」
「え? え? もしかして、もう予定入っちゃってます?」
若干慌てた様子で詩穂が覗き込んでくる仕草を見せた。
源蔵は、この日は多分忙しくなると腕を組んだ。
「リロードでも何ぞ、イベントやらんとあかんでしょうね。ちょっと神崎さん巻き込んで、何か考えんとあかんか……」
「あー……そっちですか……」
何を期待していたのか分からないが、詩穂は目に見えてがっくりする様子を伺わせた。
それにしても、己の季節感の無さには苦笑を禁じ得ない。詩穂も恐らく、呆れていることだろう。
と、その時、胸ポケット付近で鈍い震動が鳴り響いた。
マナーモードにしてあったスマートフォンが、電話着信のバイブレーションを起動させていた。
「ちょっと失礼しますよ」
いいながら源蔵は応答に出つつ、小走りに通路へと移動した。
着信相手は、叔父だった。
「源蔵君、今ちょっとエエかな?」
「はい、大丈夫ですよ」
叔父の声には、少しばかり硬い響きが感じられる。また何か問題が起きたのだろうか。
源蔵は周囲に軽く視線を流しながら、叔父からの次の言葉を待った。
「ちょっと面倒臭いことになるかも知れんでなぁ」
矢張り、何かあったのか。
源蔵は僅かに渋い表情を浮かべた。
「美月ちゃんの母親が、帰ってきたみたいなんやわ」
その瞬間、源蔵の面が軽く強張った。
美月の母親は確か、蕗浦真奈子という名だったと記憶している。
もうかれこれ半年以上、下手をすれば一年近く美月の前から姿を消していた筈なのだが、その真奈子が今になって帰ってきたということか。
「住んでたアパートが無くなってしもとるから、どういうことやっちゅうてうちに電話してきよったんや」
叔父は今更何をと、僅かに怒気を含んだ声で吐き捨てた。
アパート解体の件は以前から何度も連絡を入れており、応じない場合は強制的な措置を取るという旨も申し入れていた。それも、一度や二度では無かったとの由。
それなのに真奈子は何ひとつ応答を返さず、全て美月がひとりで対処してきた。
はっきりいって、真奈子にどうこういわれる筋合いは無いというのが叔父の主張だった。
例え真奈子が裁判所に申し立てたとしても、事実関係が明らかになれば彼女のいい分など通らないだろう。
「まぁそーゆー訳でな、アパートについてはこっちの責任で何とかするけど、問題は美月ちゃんの方やわ」
確かに、と源蔵は小さく息を呑んだ。
美月は今や、戸籍上は源蔵の娘だ。
しかし真奈子が生みの親であることにも変わりはない。彼女が美月に会わせろといって来た場合には、応じない訳にはいかないだろう。
そうなると問題は、美月本人の意思だ。
彼女が、真奈子との邂逅を望むかどうか。
「ちょっと美月と話し合ってみます」
「そないしてくれるか。わしの方でも、もうちょい時間稼いでみるから」
そこで通話回線が切れた。
源蔵はしばらく通路脇で腕を組んだまま、仏頂面を浮かべて身じろぎひとつ見せなかった。




