5.バレてしまった職人
休憩室まで缶コーヒーを買いに足を運んだ源蔵だったが、そこで深刻そうな表情でベンチに座り込んでいる早菜の姿が気になった。
彼女はその可愛らしい顔に深刻な表情――というよりも、もうほとんど泣き出しそうな程の絶望感を張り付けながら、揃えた膝の上にノートPCを開き、何かを必死に打ち込んでいる様子だった。
これは何か、ただならぬ事態に陥っているのかも知れない。
源蔵はそっと歩を寄せて、小声で呼びかけた。
「長門さーん……なーがーとーさーん」
「あ……は、はひぃ?」
涙ぐんだ顔に驚きの色を浮かべた早菜は、缶コーヒー片手にベンチのすぐ傍らに佇んでいる源蔵のブサメン顔を見て、何故か安堵の表情を浮かべた。
「あ、良かった……課長じゃなかった……」
「どないしたんですか?」
源蔵がその長身を屈めて覗き込むと、早菜は涙目のまま必死に嗚咽を堪えている様子で、ノートPCの画面を指差した。
「それが……この……データの入力が、間に合わなくて……」
曰く、本日この後に開催される会議用のデータを、表計算ソフトに入力しておかなければならないのだが、それがどうにも間に合わなさそうだというのである。
本来であれば、この作業は昨日の内に終了している筈だった。
ところが早菜は入力元となるデータを間違えてしまっていたらしく、丸一日かけて進めた作業が全て徒労に終わったというのである。
「あー、そらまぁ、ありがちな話ですねぇ」
「でも、これ絶対今日の会議に間に合わせなくちゃならなくて……」
どうやらこの日の会議は大事な顧客へのプレゼンも兼ねており、絶対にミスは許されない重要なイベントなのだという。
ところが、早菜の今のペースではほとんど絶望に近い有様で、間に合うかどうかと考えると、間に合わない可能性の方が遥かに高いという話だった。
これは流石に捨て置けない――源蔵はちょっと良いですかと断りを入れてから、早菜の膝の上から件のノートPCを手に取った。
(入力元のデータファイルはこれか)
その内容をざっと読み取った源蔵。どうやら、規則性はありそうだ。
これを特定のフォーマットのデータに配置を組み替えながら全て転記すれば良いという訳か。
「時間は、あとどんくらいあります?」
「あと……30分ぐらい、です……」
もう完全に涙声になっている早菜。
しかし源蔵は彼女の泣き顔を気にかける時間も惜しんで、表計算ソフトのマクロ編集ページを開いた。
そこで入力元データを横に並べながら、一気にコードを組み上げゆく。
早菜は一体何が起こっているのか理解出来ない様子で、呆然と源蔵の素早いキータッチを眺めていた。その美貌に、僅かな希望の色を浮かべて。
そして10分程が経過したところで、源蔵は一本の専用マクロを組み上げた。
(後はこのファイルを読み込ませたらOKやな……頼むから、ちゃんと動いてや……)
一応軽くデバッグしたから大丈夫な筈だと自分にいい聞かせつつ、マクロを実行。
すると、早菜が途中まで進めていたものと全く同じ形式で、入力元のデータが出力先のファイルに、ほとんど一瞬で吐き出されていた。
源蔵はノートPCを早菜に返しつつ、こんなんで大丈夫ですかと訊いてみた。
「あ、あ……あ、あああ、ありがとうございます! か、完璧です!」
早菜は今にも抱き着かんとする程の勢いで、涙に濡れた可愛らしい顔を一気に寄せてきた。
「ホントに……ホントに、ありがとうございます! もう半分以上、諦めてたんです……それなのに……それなのに、楠灘さん……やっぱり……ホントに……凄い……!」
「いやいや」
余りにも大袈裟に感動している早菜に、源蔵は薄い頭を掻きながら苦笑を返した。
「僕もエンジニアなんで、こんくらい出来んかったら、お前アホかって笑われます」
「そ、そんなことないですぅ! もう、ホントに! すっごく助かりましたぁ!」
余りに感謝の声が大き過ぎて、周辺を歩いていた他の社員が、何事かと覗き込んでくる有様だった。
そして早菜は立ち上がり、更に頭をぺこりと下げた。
「じゃあ、行ってきます……楠灘さんに作って頂いたこのデータで、ちゃんと仕事してきます!」
「あー、まぁコケん様に、ゆっくり行って下さいねー……」
未だに感謝感激の様子で、それでも後ろ髪を引かれる様な表情を浮かべながら早菜は営業部の会議室へと猛ダッシュしていった。
(あんなガンダかましてしもて、大丈夫かいな……)
若干の不安に駆られながら、源蔵は第二システム課のオフィスへと引き返していった。
◆ ◇ ◆
翌日、源蔵がフレックスでやや遅めの時間に出社してくると、まるで待ち構えていたかの様に、営業部の方から早菜が小走りで駆けつけてきた。
「楠灘さん、おはようございます!」
「あ、どうも、おはようございます」
早菜の可愛らしい顔立ちが、朗らかな笑みに彩られている。どうやら昨日の会議は、上手くいったらしい。
源蔵としても、即興で作ったマクロがちゃんと機能してくれたことに、内心でほっとしていた。
「昨日のアレ、上手くいきました?」
「はい! お陰様で!」
まるで両手を取らんばかりの勢いでぐいぐい身を寄せてくる早菜。流石の源蔵もこれには若干、閉口した。
「まぁ、そらぁ良かったですね」
早菜曰く、例のマクロが営業部内でも大いに評判となったらしく、作成者の源蔵を、敬意を込めて職人と呼ぶ者が続出しているということらしい。
そしてあのマクロだが、わざわざ社内稟議を通して、是非とも正式に買い取らせて欲しいという旨の連絡が、営業部から當間課長のもとへ寄せられる運びになっているらしい。
(いやぁ……あんな即興のマクロを、そんなお値段付けて貰ても……)
逆に源蔵は、申し訳ない気分になってしまった。
が、早菜の感激に満ちた表情が余りにきらきらと輝いて眩しかった為、源蔵としてもそれ以上のことは何もいえなかった。