27.バレてしまった焦燥感
火曜日に始まった業者によるリロードの害虫駆除作業はトータルで四日を要し、金曜の夕刻に漸く全工程を終えた。
ひと通りの手続きを終えてリロード店内へ久々に足を踏み入れた源蔵は、営業再開に向けての諸々の準備を、金曜の夜から土曜の朝にかけて徹夜で進めることにした。
これに対し操が、
「私もお手伝いします」
と申し入れてきたが、源蔵はこれを却下した。
操には土曜の朝から営業再開したリロードの切り盛りに廻って貰わなければならない。彼女には万全の状態でお客を迎え入れて貰わなければならないから、徹夜での作業に従事させる訳にはいかなかった。
「ここは僕ひとりで全部やり切ります。神崎さんは明日からの営業再開に備えてしっかり休んで下さい」
「え、でも……」
尚も渋る操に、源蔵は敢えて厳しい顔を向けた。
「カフェの経営は、寝不足のままで出来る様な簡単なものやないでしょ? それは神崎さんが一番よぅ分かっておられる筈です。お客さんに御迷惑をお掛けしない為にも、今日は寝て下さい」
そこまでいって、やっと操は納得した様子だった。
しかし源蔵ひとりに全てを任せるのは流石に気が引けるらしく、その美貌には申し訳無さそうな感情が色濃く張り付いていた。
「そんな気にせんで下さいって。会社は明日休みですし、そもそもここは僕がオーナーなんです。僕がやるべきことなんです」
「それは、そうなんですけど……」
操の責任感の強さはひとりの人間としては非常に好ましい部分ではあるが、こういう時には逆にマイナスとして作用するのが玉に瑕だった。
ところが操は、源蔵ひとりに全て任せ切ることだけを気にしている様子ではなかった様だ。
彼女はしばらくもじもじしていたが、漸く意を決した様子で作業に着手し始めた源蔵に声をかけてきた。
「その……今夜徹夜で作業されるってことは、明日はもう、厨房には立たない、ってことですよね?」
「えぇ、そうですね」
すると操は、微妙に訴えかける様な目で源蔵の顔をじっと見つめてきた。
「先日、お話しし損ねたことですけど……どうして、その、楠灘さんはもう厨房に立たないって決めてしまったんですか?」
「あぁ、それですか……そういえばちゃんと話するっちゅうて、中途半端に終わってましたね」
源蔵は一旦手を止めて、カウンター脇に佇む操に面を向けた。
この話し合いは避けては通れない。ならばここで、決着をつけてしまっても良いだろう。
操はしばし目線を落としていたが、やがてその美貌に悲痛な色を湛えてぐっと面を上げてきた。
「それはもしかして、私と藤浪君の昔の話が、関係してますか?」
この問いかけに対し、源蔵は素直に頷き返した。
「はい、最初の内は確かにそうでした……ただ、今は別の問題が持ち上がってて、寧ろそっちの方が大きいですね」
「別の問題、ですか?」
操は意外そうな面持ちで更に問いを重ねた。源蔵は小さく肩を竦めたが、その面には焦燥の色がありありと浮かんでいる。
「実は幹部社員登用審査の実施時期が、四カ月以上前倒しになったんですよ。つまり、もう来月には受験なんです。せやから僕も、もう全然時間が無いんです」
これは事実だった。
どうやら白富士インテリジェンスの大株主に当たる一部上場企業から、組織変更の早期実施要望が突き付けられてきたらしく、それに合わせて幹部社員登用審査も相当早まったのである。
これには玲央もすっかり困り切っていたが、こればかりはどうにもならない。白藤家でさえ頭を痛め、困惑しているという話らしいから、源蔵としても焦りはあるものの、受け入れざるを得なかった。
「まぁそんな訳でして、僕の好むと好まざるとに関わらず、もう厨房に立ってる時間が無いんです。正直いってめちゃめちゃ焦ってます」
「そう……だったんですね……」
操は残念そうに俯いた。しかしその面には、失望や気落ちの色は見られない。
純粋に、本業が原因となってリロードの経営に携われなくなったというだけの話である。そのことに、何故か操は妙に安堵した表情を浮かべていた。
そして彼女はしばし目線を落としていたものの、すぐに気を取り直した様子で微笑を浮かべて面を上げた。
「そういうことなら、仕方が無いですね。寧ろ楠灘さんのキャリアアップに繋がるお話なんですし、それはもう頑張って下さいとしか、いえませんね」
いいながら操は、胸元で両手の拳をぐっと握り締めて、応援しますと更に続けた。
「楠灘さんは登用審査に全力を注いで下さい。リロードの方は、私と冴愛ちゃん、由良君の三人で切り盛りしてみせまるから!」
操は気合を入れた笑みを浮かべて、小さく頷きかけてきた。
しかし源蔵としても、操の料理の技術が全て完璧に整っているとは思っていない。まだ彼女には全てを伝授し切った訳ではないのだ。
そこで源蔵は、ひとつの提案を持ち掛けた。
「登用審査に合格しても、すぐに昇進する訳ではありません。まだ少し、時間の猶予があります。せやからそれまでの間、神崎さんには僕が教える料理を少しでも多く、身につけて貰います」
その為に源蔵は、来週から平日の夜は毎日リロードに通い、閉店後に料理の特訓時間を設けると宣言した。
操は今のままでも十分に土日のランチタイムに耐え得る技量を身につけつつあるが、出来ることなら彼女には源蔵の持っている技術をひとつでも多く伝授してやりたい。
その為の特訓だ、と源蔵は静かに語り掛けた。
操は、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「じゃあ……これから毎日、楠灘さんに沢山、指導して貰えるんですね?」
「はい、ちょっと厳しくやらせて貰います」
これは遊びではない、と源蔵は釘を刺した。
しかしそれでも操は何故か、物凄く嬉しそうだった。寧ろ、この時を待っていたといわんばかりの幸せそうな笑顔だった。
(厳しくするっていうてんのに、何でそんな嬉しそうなんやろ)
源蔵は、内心で小首を捻った。
閉店後に時間を潰されるとなると、隆輔とのデート時間も失われるということである。その現実を、彼女は理解しているのだろうか。
女心というものは、やっぱりよく分からない。




