24.バレてしまったゴキキラー
閉店近い時間帯ともなると、客席テーブル周辺にはひとの影はほとんど居なくなる。
そして今宵は、源蔵のみが居残っている状態だった。
「じゃー、お先でーす」
「お疲れっしたー」
私服に着替え終えた徹平と冴愛が揃って退店してゆく中でも、源蔵は客席テーブルの一角に陣取って軽く手を振るのみだった。
一方、操は玄関ドアの外側にCLOSEDの掛け看板を吊り下げ、路上に並べてあった立て看板の幾つかを店内へと仕舞い込む。
そうしてひと通りの閉店作業を終えたところで、いよいよ彼女が源蔵の居るテーブルへと足を向けようとしたその時、まだ鍵をかけていなかった玄関ドアが勢い良く開いてドアチャイムが幾分激しく鳴った。
隆輔だった。
「操! 急に御免! でも、今日こそは返事を……」
そこまでいいかけて、隆輔はあっと口をつぐんだ。客席テーブルに源蔵の姿を認めて、幾分慌てた様子を見せている。
が、しばらくして彼は目を丸くした。
「え……もしかして、楠灘さんですか?」
隆輔は何度も目を瞬かせた。もしかすると彼は、最初のうちは強面スキンヘッドの巨漢を、別の誰かかと勘違いしていたのかも知れない。
源蔵は苦笑しながら腰を浮かせ、自身の頭をぺたぺたと叩いてから小さく会釈を送った。
「これは、大変失礼しました。まさかオーナー殿がいらっしゃるとは思ってもみなかったので……」
「いえ、とんでもございません。そりより、神崎さんに御用でしたか?」
訊き返された隆輔は、何ともいえぬバツの悪そうな面持ちで頬を掻いた。
操は操で、少し不満げな顔。
このふたりの間で何か特別な話があるのだろうが、さて、どうしたものか。
「神崎さん、どちらの話が長くなりそうですか? 何やったら、今日のところは帰った方が宜しいですかね」
「いえ、楠灘さんとは今日、絶対お話しておきたいので……藤浪君とはプライベートのことですから、後でも結構です。それで良いよね?」
操の最後の言葉は、隆輔に向けられたものだった。
ならばということで、源蔵は作り置きのアイスコーヒーを冷蔵庫から取り出し、グラスに注いで客席奥のテーブルへと置いた。
「ではすみませんけど藤浪さん、こちらで少しお待ち頂けますか?」
「あ……お気遣い、痛み入りいます」
隆輔はすっかり恐縮した様子でアイスコーヒーの置かれたテーブルへと歩を寄せようとした。
ところがその時、厨房内で操が甲高い悲鳴を上げ、慌ててカウンターの外側に飛び出してきた。
「操、どうした?」
「あ、ご、ごめんなさい……で、でも、あ、あれが……」
駆け付けた隆輔が操と入れ替わる様にカウンター裏を覗き込み、そして同じ様に驚きと恐怖に顔を引きつらせながら後退った。
黒い影が、カウンター裏の床上を這いずり回ってる。
「あー、ゴキブリですか」
「く、楠灘さん……平気なんですか?」
すっかりビビってしまっている隆輔に、源蔵は渋い表情。
「いや、別にどうってこたぁないんですけど、ちょっとこれは由々しき事態ですね」
いいながら源蔵はカウンター裏に置いてあった軍手を大きな掌にはめ込み、その手で床上に張り付いている大きなクロゴキブリを掴んでみせた。
操と隆輔はすっかり表情が凍り付いたまま、源蔵がレジ袋の中に掴んだクロゴキブリを放り込み、使用した軍手も一緒に中へと押し込んで袋口を縛るのをじっと凝視していた。
「す、凄い、ですね、楠灘さん……」
隆輔は尚もビビりまくった様子で、腰が引けたまま覗き込んできた。よくもあんな不気味なものを掴めるものだと感心している。
源蔵は、流石に素手で掴むのは躊躇すると苦笑を滲ませた。
「あいつら汚いし臭いし、雑菌だらけですからね。それに、変に叩き潰すと破片があっちこっち飛んで、それ片付けるのも大変なんですよ」
「な、成程……」
それから隆輔は、操に青ざめた顔を向けた。
たかだか虫一匹に対し、操と同じ様に悲鳴を上げて逃げ惑う男と、平然と立ち向かった男。その対比に、何らかの危機感を覚えている様にも見えた。
その操は、安堵の吐息を漏らして源蔵だけを見ている。隆輔には一切目もくれずに。
「あ、ありがとう、ございます……やっぱり楠灘さんは本当に、頼りになりますね……」
やっと落ち着きを取り戻した様子で操がほっとした表情を浮かべた。
対する隆輔は、操の前で情けない姿を晒してしまったことに対して、相当気まずそうな顔を見せている。
しかし源蔵は、そんなふたりとは全く別のことを考えていた。
「神崎さん、明日から三日間、リロードを臨時休業させて下さい。害虫駆除の業者を呼びます」
源蔵は厳しい表情で操に振り向いた。
「閉店後で良かったですよ。これが営業中やったらと思うと、ぞっとします」
基本的にゴキブリの様な夜行性の昆虫は、日中の営業時間に姿を見せることは少ない。しかし万が一ということもある。
衛生管理の面から見ても、早急に害虫駆除業者を呼んで徹底的に店内を綺麗にする必要があった。
「僕はこの後、業者に連絡入れます。知り合いんところがこの時間ならまだ、電話繋がる筈なんで」
いいながら源蔵はスマートフォンを取り出した。
と、ここで思い出した様に操に再度、面を向けた。
「神崎さん、僕にお話あったんでしょうけど、こっちの方が重要です。またにしましょう。今日のところは、藤浪さんとの用件だけを済ませて下さい」
この時の源蔵は、リロードのオーナーとしての顔を覗かせていた。




