176.ハゲは秘密を抱える
ここのところ、源蔵は次世代AI機器設計開発部のフロアー内に漂う空気に、幾つかの変化が生じていることに気付いた。
まずひとつは、貴之に対する視線の変化だ。
特に多くの女子社員から好意的な感情が向けられているのは、疑いようもない事実である。
貴之の頑張りが功を奏したともいえるが、その一方で男性社員らからも敬意に近しい目が向けられていることも事実だった。
実際、貴之は室長専属解析班の中では完全に主力として覚醒しており、毎日幾つも寄せられている市場不具合の一次解析では、真因に近いところにまで切り込んで、各モジュール担当から感謝の言葉を贈られる様になっていた。
(顔つきも、かなり良うなってきたな)
彩華との関係に不安を感じ始めた頃には随分と沈んだ色が重く張り付いていたが、今は非常に明るく快活で、マイナス思考など欠片にも感じられない。
勿論、彩華との関係を忘れた訳ではないだろうが、今は己の時間を大いに満喫しているというのが正確なところだろう。
ところがその一方でフロアー内の多くの社員、特に若手女子からの彩華に対する視線や態度には、以前とは比べ物にならない程の溝が感じられる様になっていた。
男性社員はまだ表面上は平静に対応しているが、若手女子社員らは露骨に彩香を避けている様にも見える。場合によっては敵愾心の様な感情をチラつかせていることも珍しくはなかった。
(何ぞあったな、これは……)
源蔵は即座に察したものの、しかしすぐに動く様な真似はしなかった。
彩華は既に室長専属解析班からは離れている。彼女は主任という立場で、今やひとりで己の仕事に向き合っているのである。
ここで源蔵が己の勝手な判断で彩華に手を差し伸べるのは、不公平に過ぎる。そもそも、本人が望んでいるかどうかも分からない。
(まぁ……うちには地獄耳がひとり居るしな……)
放っておいても、勝手に情報の方から転がり込んでくるだろうと考え、今はひとまず静観することに決めた源蔵。
その予想は、その日の午後には早くも現実となって飛び込んできた。
「お疲れ様です室長。さっき解析結果一本送りましたので、確認お願いしま~す」
喜美江がわざわざチャンピオンベンチ脇の作業用PC台にまで歩を寄せてきて、源蔵の強面を横合いから覗き込んできた。
こういう時は大体、何かいいたいことがあるから時間をくれ、という彼女なりの意思表示である。
「ありがとうございます。手ぇ付ける前に、ちょっとコーヒーでも……」
源蔵もわざとらしい台詞を吐きながら室長個室を出た。
すると、少し間を置いて喜美江も同じ様に室長個室のドアから休憩室方向へと飛び出してくる。
「あれ? 室長も今から休憩ですか?」
更にそこへ、羽歌奈も合流してきた。彼女は別段、喜美江と示し合わせていた訳では無さそうで、単純に源蔵の顔を見て歩を寄せてきたに過ぎないものと思われる。
「あ、羽歌奈先輩! 丁度イイや。おふたり共、ちょっとお時間頂けます?」
喜美江が源蔵と羽歌奈を引っ張って、休憩室の最も奥まったベンチに場所を取った。
源蔵が自分の缶コーヒーに加えて、ふたりの為に紅茶やカフェラテを自販機で購入して件のベンチに引き返すと、喜美江がいつもすみませんと悪びれた様子も無く笑顔を返してきた。
勿論、ただ奢ってやるだけではない。これはいわば、情報料だ。
源蔵は喜美江の持つ女子社員間の噂話ネットワークに、大いに期待していた。
「ところでおふたり共、今フロアー内で彩華さんがどんな風に見られてるか、御存知です?」
そっと声を潜めて問いかけてきた喜美江。
源蔵は何となく察していたが、どうやら羽歌奈もその辺の情報は既に聞き及んでいたらしく、幾分表情を硬くして小さく頷き返した。
曰く、彩華がフロアー内の一部の男性社員に対して、酒の席で酔った勢いに任せて肉体関係をそれとなく迫ったり仄めかしたりしていた、というのである。
現在彩華は、同フロアー内の別部署の企画課と合同で或るプロジェクトに携わっている。
そのプロジェクト参加社員の間でこれまでに何度か酒宴が設けられたらしいのだが、その席で彩華が若手の男性社員数名に対し、ホテルに行こうと誘う様なモーションをかけた、というのである。
それらの男性社員の一部はカノジョ持ちだったり既婚者だったりしたというから、話が微妙にこじれ始めている。
フロアー内の男性社員は、彩華を遊び易いオンナだとして好色な目で見る様になり、逆に女子社員は、汚らわしいものを見る様な目で彩華を突き放しつつあるらしい。
噂の出どころはまだ分かっていないが、何より重要なのは、彩華がかつて枕業務に手を染めていた事実だ。
(久我山さんと付き合うてるっていうのも、一部のひとしか知らんからな……そらぁ、そないな噂が出回ったらそういう目で見られるか)
逆に、貴之との関係を知っている社員からすれば、カレシが居るのに平気で他のオトコに手を出す淫乱女という烙印が押されているかも知れない。寧ろそちらの方が致命的だろう。
「その話って、いつぐらいから出回り始めたんですかね?」
「えぇっと……正確には分かりませんけど、ここ二週間か三週間ぐらいだと思います」
頬に指先を添えて考え込む仕草を見せた喜美江に、源蔵は符合するものを感じた。
丁度、貴之が自分磨きの一環としてキックボクシングジムに通い始めた頃ではなかろうか。
そしてそのことに気付いたのは、源蔵だけではなかった。
「室長……それって、もしかして……」
羽歌奈も幾分緊張した面持ちで、源蔵に真っ直ぐな視線をぶつけてきた。
貴之から相談を受けた路地裏のバーには、羽歌奈も同席していたのである。少しでも関わってしまっている以上、恐らく彼女は、他人事ではないと思い始めているのであろう。
だがこれは、業務とは直接に関係の無いことでもある。
今の時点で源蔵が何らかの対策を講じるという訳にはいかない。
しかし逆をいえば、業務に何らかの支障が出るなどして次世代AI機器設計開発部内に問題が現出すれば、源蔵としても動きようがあった。
幸い、彩華が参加している件のプロジェクトは源蔵もアドバイザーとして名を連ねている。
まだ室長レベルにまでエスカレーションされていない細かな問題を、自分の目で確認すれば何か出てくるかも知れない。
(久我山さんには伏せとかんと拙いな。男女間の話は当人同士で解決して貰わんといかんけど……)
源蔵は頭の中で、幾つかのシナリオを同時に描いた。
もしも恋人間の話だけにとどまらないとすれば、事態は少しばかり重くなるかも知れない。
「今のお話は、僕が預かります。緑山さんも佐伯さんも、今日のところはお口にチャックで」
源蔵からの秘匿要求に、羽歌奈と喜美江は静かに頷き返した。