169.ハゲはエクスタシーを操る
翌日、源蔵はいつもの様に定刻開始時間より一時間程早めに出社し、室長としての業務準備を進めている。
同じマンションで隣室の羽歌奈は、それから更に30分程経過してから出社してくるのが常だが、この日はどういう訳か喜美江が源蔵とほぼ同じ時刻に出社してきた。
「あ、室長! おっはよ~ございま~す!」
喜美江は兎に角、明るい若手女子社員だ。
室長個室内でもマスコット的な存在であり、且つムードメーカーでもある。どんなに作業が厳しい状況に追い込まれても、彼女の朗らかな笑顔で室内の空気が何度救われたことか分からない。
源蔵としても喜美江の明るさにはいつも助けられており、得難い人材として重宝する様になっている。
ところがこの日の喜美江は普段とは少しばかり様子が異なり、出社してPCを立ち上げてから、何故か源蔵の室長専用デスクにすすすと歩を寄せてきた。
「……どないか、しはったんですか?」
怪訝な表情で問いかける源蔵に対し、喜美江は他には誰も居ない室長個室内で何故か周囲を警戒する様な視線を走らせてから、その可愛らし面をそっと寄せてきた。
「室長、大変ですよ。事件ですよ」
「……?」
物凄く勿体ぶった口調に、源蔵は思わず小首を傾げた。
喜美江が何かにつけて大袈裟なのは今に始まったことではないが、この日は特にそのオーバーなリアクションに磨きがかかっていた。
「昨日ね、女子会あったじゃないですか。そこでね、あたし、聞いちゃったんです」
オリーブブラウンのロングボブを揺らしながら再度、変に警戒する様な視線を左右に走らせる喜美江。次いで彼女は、そっと耳打ちするかの如く源蔵の耳元に囁きかけてきた。
「実はですね……羽歌奈先輩に、新しいカレシが出来たんですって!」
その瞬間、源蔵は乾いた笑いを漏らしてしまった。
実のところ、源蔵と羽歌奈が恋人同士の関係になっているのはまだ伏せられたままだった。つまり、喜美江は羽歌奈のカレシの正体を知らない筈なのである。
しかし昨晩の女子会で羽歌奈は、現在新しいカレシと付き合っている旨を喋ったらしい。
源蔵は素知らぬ風を装いつつ、内心で苦笑を滲ませていた。
「それでですねぇ……羽歌奈先輩、もうずぅっとノロけっ放しだったんですよぉ」
昨晩羽歌奈は酔っ払った勢いで、かなり色々喋ったらしい。
曰く、今のカレシは本当に懐が深くて、自分の愚痴にはいつも嫌な顔ひとつ見せず、最後までずぅっと付き合ってくれている。
曰く、今のカレシは財力が半端無く、どんなところにでも連れていってくれる。
曰く、今のカレシはストイック且つ相手ファーストで、どんな時でも羽歌奈を一番に考えてくれている。
曰く、今のカレシはエッチが最高に上手で、過去のオトコ達とは比べ物にならないぐらいに真のエクスタシーを与えてくれる。
ここで源蔵は、思わず小首を捻ってしまった。
最後のノロケ、つまりエッチが最高に上手いというのがどうにも引っかかってしまったのだ。
(いやいや、ちょっと待て……僕まだ佐伯さんとセックスなんて、してへんで)
源蔵は何となく、暗い予感が鎌首をもたげてくるのを感じた。
羽歌奈は、もしかすると二股をかけているのだろうか。もしそうであるならば、源蔵は身を引いた方が良いのではないか。
自分には羽歌奈程の美女は勿体無い。他にイケメンのカレシが居るなら、そちらに譲った方が羽歌奈の為になる筈だ。
一度そう考え始めると、源蔵の思考は一気にその方角へと転がってゆく。
(短い春やったな……でも、こればっかりはしゃあない。僕が禿げの不細工やねんから、もう受け入れるしかないわな)
正直なところをいえば、ツラいし悲しい。気分はもう、どん底である。
それでもこの室長個室内では、源蔵はトップに君臨する役職者なのだ。暗い表情はおくびにも出す訳にはいかない。
そうこうするうちに、羽歌奈が彩華、貴之といった面々と一緒に穏やかな笑みを浮かべて出社してきた。
源蔵は乾いた笑いを浮かべながら、己の心を殺して挨拶に応じた。
◆ ◇ ◆
そして、その日の夜。
源蔵がマンション自室でひとり大人しくライトノベルを読んでいると、羽歌奈がいつもの調子で部屋を訪ねてきた。
正直、今宵は余り彼女の顔を見たくなかったが、しかしここで無下に追い返すのも大人げない。源蔵は小さな溜息を漏らしながらも羽歌奈を自室内へと招き入れた。
「あれ……室長、何か、御機嫌斜め?」
羽歌奈がその美貌に不思議そうな色を湛えて小首を傾げてきた。
飽くまでも、とぼけ通すつもりか――源蔵は何だか自分が情けなくなってきた。
「昨日の女子会で結構色々、喋りはったみたいですね。緑山さんが、佐伯さんに新しいカレシが出来たみたいですーってエラいテンション高かったですよ」
「あ……ははは、ご、御免なさい。わたし、ちょっと我慢出来なくなって、結構ノロけちゃいました」
全く悪びれた様子も無く、頭を掻きながら顔を真っ赤にして笑う羽歌奈。
源蔵は小さく肩を竦めた。
白黒つけるなら、早い方が良い。それが羽歌奈の為でもある。彼女の貴重な時間を、自分の様な禿げの不細工の為に費やさせるのは気の毒だろう。
「それで、もうこの際はっきりいうときますけど、他に付き合ってるひとがいらっしゃるなら、すっぱりそちらに切り替えて貰った方がエエですよ。僕のことはホンマに、気にせんで結構ですから」
その瞬間、羽歌奈はその場で棒立ちになってきょとんとした顔を覗かせていた。
源蔵がいわんとしていることが、理解出来なかった模様。
「え……室長……何のこと、ですか……?」
「佐伯さん、他に相手いらっしゃるんですよね。最高のセックスが出来る相手がどうのこうのって、緑山さん凄く羨ましがってましたわ」
源蔵は苦笑を漏らしながら手元のライトノベルに視線を戻した。
ここまでいえば、如何に鈍感な相手でも理解出来るだろう。
ところが羽歌奈は、微妙に慌てた様子で源蔵の傍らに小走りで歩を寄せてきた。
「あ、あ……ち、違うんです。わたし、ちょっと大袈裟にいっちゃったかも……だって、ほら……室長がお口や手でわたしを凄く気持ち良くさせてくれてるの、ホントのことですし」
源蔵はソファーに腰かけたまま、天井を見上げた。
羽歌奈とは、厳密な意味ではカラダを重ねたことはない。が、彼女の性欲を放っておくのは流石に忍びなかった源蔵は、自身の手や舌先で羽歌奈の性欲処理を手伝っていた。
所謂ペッティングというやつだ。
源蔵は、心理的には未だ童貞である。その為どうにも引け目を感じてしまって、羽歌奈とのセックスには未だに踏み出せていない。
しかしそれでは幾ら何でも羽歌奈に申し訳無いから、源蔵は独学で身に着けた女性の性感帯への適度な刺激方法を駆使して、羽歌奈をエクスタシーに導いてやっていた。
但し、性行為には及んでいない。飽くまでも己の手と舌先だけを用いたペッティングにとどめており、挿入を伴わずして羽歌奈を満足させようと試みた。
どうやら彼女は、その時に感じた最高の性的興奮と絶頂を、女子会で喋ってしまったらしい。
「だってホントに……室長がお口と手でシてくれるの、最高に、気持ちイイんですもん……わたし、これだけは本気の本気です。過去のどのオトコなんかより、室長ってもうマジで、超最高なんです……」
「はは……まぁ色々研究した甲斐がありましたかな」
この点については、源蔵は確かに自信はあった。
彼は男性目線ではなく、女性目線でオンナのカラダのエクスタシーについて徹底的に調べ、その技術を頭の中に叩き込んでいた。
そして羽歌奈のカラダを生きた教材として、己の性的技術の実践対象として利用させて貰ってもいた。
結果として、羽歌奈はどうやら今までに感じたことのない快感を得たということらしい。
(何や……結局、そういうことかいな。僕の早とちりやったかな)
源蔵は己を嘲笑するばかりだった。
が、この時羽歌奈は、何故か物凄く申し訳なさそうな顔でもじもじと手を組み、源蔵の顔をちらちらと眺めていた。