166.ハゲは自分ファーストを求められる
金曜の夕方。
源蔵はいつもの様に、チャンピオンベンチでの市場不具合再現試験を終えてからログ解析に取り掛かろうとしていた。
時刻は定時を過ぎ、同じフロアの社員らは何人かずつでグループを組み、食事や飲み会などへと繰り出していこうとしている
「んじゃ、お疲れ様でした~。お先に失礼しまーす」
喜美江が元気良く手を振りながら室内の誰よりも早く、室長個室のドアから飛び出していった。
次いで彩華と貴之が、幾分控えめに頭を下げてお辞儀しながら退出してゆく。
そうして室内に残ったのは、源蔵と羽歌奈のふたりだけであった。
「佐伯さん、もう先帰って貰っても……」
と、そこまでいいかけて源蔵は残りの言葉を喉の奥に呑み込んだ。
羽歌奈は、源蔵を待ってくれているのだ。その色気満載の美貌は薄っすらと妖艶な笑みを湛えており、応接ソファーにゆったりと腰を下ろしてじっとこちらを見つめてくる。
仕事が終わったら一緒に出掛けましょう、と言外に匂わせている彼女に、源蔵は心底申し訳無いと冷や汗を垂らしながら片手で拝む仕草を見せた。
(さっさと終わらせよ……あんま待たせんのも悪いわ)
これまでの源蔵なら、どうせやることも無いだろうしということで深夜近くまで作業に没頭していたのだが、今は事情が異なる。
このまま羽歌奈を放っておくのは、幾ら何でもカレシ失格といわなければならない。
どうせ、然程に急ぎの仕事でもないのだから、そこまで無理して作業を進める必要も無い。
源蔵はものの十数分でキリの良いところまで解析を進めてから、即座にPCをシャットダウンした。
「あ……室長、そんな、急いで頂かなくても良かったですのに……」
「いやいや、んなことしたら佐伯さんと一緒に居られる時間が無駄に減るだけやないですか」
いいながら源蔵は、手早く帰り支度を進める。
羽歌奈は一体何が嬉しかったのかは分からないが、やけに上機嫌で室長デスクの傍らにすり寄ってきた。
「ホント……何でこんなにイイひとが、今までカノジョ無しだったんでしょうね……そっちの方が、わたし的には全然信じられないんですけど」
「不細工で自信皆無やからってのもありますし、僕がチャンスから逃げ回ってたってのもありますかね」
苦笑を滲ませながら、小さくかぶりを振った源蔵。
そんな彼の強面をじぃっと見つめながら、羽歌奈は自身の頬に人差し指を当てて小首を傾げる。
「ん~……盛大なすれ違いが重なりまくってた、っていうところなんでしょうか」
羽歌奈の分析は、案外いい得て妙かも知れない。
尤も、これまでに関わってきた女性陣に実はどうだったのかと今更訊いて廻る訳にもいかない。今の源蔵には羽歌奈が隣に居てくれるだけで、もう十分なのだから。
それもいつまで持つかは分からないのだが、少なくとも今この時だけは、羽歌奈の隣に身を置くことが許されている。
その特権を大いに享受し、彼女に別れを告げられた後には良い思い出にでもすれば良いだろう。
「さ、室長、行きましょうか!」
まだ社屋内だから、腕を組んで歩く訳にもいかない。ふたりは上司と部下という体を装いつつ、肩を並べて夕闇が押し迫りつつある繁華街へと繰り出していった。
「金曜の夜でこの時間やから、流石にそこら辺の店は混んでますね……あんまりひとが近寄らんとこでゆっくりしましょか」
源蔵はスマートフォンで手早く検索をかけ、そしてすぐに目ぼしい店舗を探し当てた。
それから十数分後、ふたりが腰を落ち着けたのは三ツ星ホテルの最上階にある超高級ダイニングレストランだった。
源蔵はこのレベルの店にはすっかり慣れているが、羽歌奈はどうやら初めてだったらしく、見た目にも分かる程に緊張していた。
「あー、そんな気ぃ遣わんでもエエですよ。僕がちゃんと対応しますから」
「あ……は、はい……ど、どうかお手柔らかに……」
何とも可愛らしい仕草ですっかり小さくなっている羽歌奈に、源蔵は微笑ましい気分で目を細めた。
オフィスではシゴデキなバリキャリウーマンの羽歌奈だが、ひとりあたり数万円は下らないコース料理を出す超高級レストランではすっかり別人の様に大人しくなり、妙にぎくしゃくしている。
アルコールが入れば少しはリラックスしてくれるだろうが、ちょっと気の毒になってきた。
「室長っていつも、こういうお店に来られるんですか?」
「そんなしょっちゅうは来ませんけど、ちょっと人混みに疲れたり、ちょい気合入れたい時なんかにはたまに来ますね」
年代物のワインを嗜みつつ、肉汁たっぷりのフィレ肉を頬張りながら源蔵は小さく肩を竦めた。
一方の羽歌奈も少しずつ雰囲気に慣れてきたのか、その笑顔に柔らかさが伴う様になってきていた。
「やっぱり室長って、女性慣れしてるんじゃないですか? こんな素敵なお店に、さらっと何気なくエスコートして下さるなんて……」
「まぁ、接待のつもりで友達の女性をこういうお店に連れてきたことはありますけど、飽くまでも、僕的にはおもてなしのつもりでしたからね」
女性の気を惹きたいとか、そんな希望は今まで抱いたことも無かった。源蔵はただ単に、労いの為に色々な女性を高級レストランやバーに招待してきただけである。
そこで恩を売って彼女らをどうこうしようなどという発想は、ただの一度も抱いたことが無かった。
否、仮にそんな想いを巡らせたところで、自分の様な不細工が相手にして貰える訳が無いと端から諦めていたというのが事実だ。
それ故、接待や労い以外の場面で女性をこういった店に連れてくるのは、美月を除いては今回が初めてかも知れない。
「室長ってホント……自分ファーストっていう言葉とは全然無縁な方ですよね」
余りにも相手ファースト過ぎる、と羽歌奈は苦笑を滲ませて源蔵の強面をじぃっと見つめてきた。
「僕が自分ファーストに振る舞ったら、もう二度と誰もつい来なくなりますよって」
「そんなこと、ないですってば」
羽歌奈はワインをぐいっと呷ってから、源蔵のごつごつとした大きな手に白い指先をそっと添えた。
「だったら、わたしと一緒の時だけは自分ファーストになって貰えるよう、わたし、頑張ります」
「そらまたハードルの高い選手宣誓ですねぇ」
源蔵は冗談めかして笑ったが、羽歌奈の熱を帯びた瞳は真剣そのものだった。
どうやら彼女は本気で、源蔵の鋼の塊の様な精神をとろとろに溶かす腹積もりらしい。