165.ハゲは祝福される
翌朝、羽歌奈はまるで何事も無かったかの様に、いつも通りの笑顔を湛えて出社してきた。
(物凄い二面性やな……)
室長個室内の自分の執務デスクで諸々の作業を進めながら、源蔵は内心で驚きを禁じ得ない。
昨晩羽歌奈が見せた顔は、まるで恋に恋する乙女の様な熱っぽい表情だった。
ところがひと晩明けて、オフィスという公の場にその姿を見せた時には昨晩の表情は夢か幻かと思わせる程の変貌ぶりであった。
否、このクールビューティーな立ち居振る舞いこそが本来の羽歌奈であり、源蔵に告白してきた時の様な恋に積極的で前向き過ぎる熱いオンナとしての姿は、何かの気の迷いで発生した別人思考なのかも知れない。
であれば、源蔵に付き合って欲しいと懇願してきた時の彼女は、もうこの世には居ないのではないか。
そんなことを考えながら、未決箱に入っている書類を黙々と処理してゆく源蔵。
ところが作業デスクに腰を落ち着ける際、羽歌奈はほんの一瞬だけ源蔵に笑みを向けてきた。その表情には背筋が震える程の艶があり、色気の塊の様な美しさが漂っていた。
(あ……やっぱり、昨日のは夢やなかったんや)
何となく不思議な居心地の良さを覚えつつ、源蔵は安堵の吐息を漏らした。
自分は、羽歌奈に受け入れられている。
そう思えただけで、何故か心の奥底から変な勇気が湧いてきた。
◆ ◇ ◆
この日の朝早く、源蔵は美月に羽歌奈のことを話した。
美月は画面越しに、やたらと興奮した様子を覗かせていた。
「やったじゃん! やったじゃん! お父さんとうとう、カノジョ出来たんだ! あー、良かったー。これでうちも肩の荷が下りたわー」
どっちが親なのかよく分からない台詞を口走っていた美月。
それにしても、源蔵がOKを出したことには心底意外だったし驚いたとも語った彼女。矢張り美月も、源蔵が女性からの想いを受け入れたことが信じられない様子だった。
「だってお父さん、結構がちがちにガード固めてたもんねぇ」
美月もまた、源蔵は女性からいい寄られるのではなく、自分から好意を寄せた時にだけパートナーとして接する腹を括っていたことを知っている。
それだけに、羽歌奈からの告白に源蔵が応じたことが驚きだったのだろう。
「けど、その羽歌奈さんってひと、よく分かってるよね。やっぱり好きなひとが出来たら、相手が何っていおうとただ待つだけじゃダメなんだって……そりゃ確かに、拒否られたら傷つくかもだけど、ちゃんと口に出していわないことには、通じるものも通じないだろうしさ」
今度は腕を組んで、したり顔でうんうんと頷き始めた美月。
矢張りこういう色恋沙汰に関しては、美月の方が経験値で上回っているのだろうか。源蔵は愛娘の辛口評価をぼんやり聞きながら、ふとそんなことを考えた。
「そないなこというとるけど、美月にはエエひと居らんのかいな?」
「まぁね~、居ないこともないんだけど……」
はにかんだ笑みを浮かべながら、頬をぽりぽりと掻く美月。その表情から、源蔵の知っている誰かが彼女の中に居る様な気がしてきた。
「でもうちとしちゃあ、やっぱり先にお父さんだよ。お父さんが片付いてくれなきゃ、うちも安心出来ないしさぁ」
「美月、完全にオカンやんか」
苦笑を漏らした源蔵だが、それにしても美月もいつの間にかこんなにも大人になったのかと、嬉しい様な寂しい様な複雑な思いが込み上げてきた。
「んで、美月的には今、誰を狙ってんのさ」
「ん~……まぁどうせバレちゃうしね……」
どうやら美月も、腹を括ったらしい。
源蔵は何故か緊張してきて、思わず居住まいを正してしまった。
「白富士のグルメインフォメーション課の課長に昇進なさった、藤浪隆輔さんでっす」
この時、源蔵は喉の奥で思わず唸ってしまった。
中々絶妙な人選かも知れない。
隆輔といえばかつて、操の元カレでどうしようもないヒモ男だった岸田健一の恋敵だった人物だ。
操はバリスタ講師の元カレとヨリを戻したという話を聞いていたから、隆輔は二度に亘って操との縁を結び損ねたということになる。
その隆輔が、美月に好感情を向けてくれているというのだろうか。
「実はね、もう何回か、軽くお茶したりした仲なんだよね」
照れ笑いを浮かべながら頭を掻いた美月。
源蔵としては、隆輔ならば人物としても間違い無いと太鼓判を押すことが出来る。彼は誠実な人柄だし、嘘をつかない真っ直ぐな性格でもある。
隆輔は美月が相当な額の財産を源蔵から受け継いだことも知っているだろうが、そんなことで人間の価値を決める様な男でもないことは源蔵も分かっていた。
(成程、藤浪さんか)
源蔵は羽歌奈からの告白を受けた自分自身のことよりも、美月が隆輔と良い仲になりそうだということの方が余程に嬉しかった。
「ま、そんな訳だからさ……お父さんもうちに負けない様にしっかり恋愛するんだよ?」
「せやけど、何したらエエんかよぅ分からんわ」
源蔵は腕を組んで小首を傾げた。
過去に偽装カノジョとして操と表面上で付き合うことになった際も、いわゆるおうちデートなら一度だけ経験したことはあるが、それ以外はさっぱりなのだ。
そんな源蔵に対し美月は、分かってないなぁと苦笑を浮かべながら派手に肩を竦めた。
「あのさ、お父さん……何でもかんでも、自分がリードしなきゃ、って思うのは傲慢だからね? 多分、その羽歌奈さんってひとの方が恋愛に関しちゃ上手なんだから、或る程度は任せて良いんじゃない?」
「……そんなもんかいな」
しかし美月の言葉にも一理ある。
源蔵は羽歌奈を恋愛指南役として勝手に指名している訳だから、最初の内は羽歌奈に色々任せてしまうのも、ひとつの手ではあろう。
「だからさ、あんまり深く考えないでイイんじゃない?」
美月の晴れやかな笑顔に、それもそうかと頷いた源蔵。
素人が下手に背伸びすると絶対、失敗する。であれば、まずは羽歌奈のいいなりになって色々教えて貰う方が自然なのかも知れない。
(佐伯さんには悪いけど、勉強させて貰おうか……)
源蔵もいよいよ覚悟を決めた。