163.ハゲは白状する
翌日、羽歌奈は元気に出社してきた。
彼女はいつもの様に穏やかな笑みで室長個室内の面々と挨拶を交わし、何事も無かったかの様に早速仕事へと着手する。
今まで通りに要領良く、今まで通りに手早く作業を進めてゆく。
その美貌には一点の迷いも曇りも無く、隣で一緒に手を動かしている喜美江が流石だと感心する程であったのだが、時折羽歌奈はどういう訳か、チャンピオンベンチ横の作業用PCデスクに張り付いている源蔵にちらちらと視線を送ってくる。
源蔵は羽歌奈からのアイコンタクトに気付いてはいたものの、特にこれといった反応を返すことは無かった。仕事に集中しているからというよりも、羽歌奈とは必要以上に関わってはならぬという自制心が強く働いていたからだ。
(まだ何か、僕にいうことでもあんのかいな……)
定時前頃になると、羽歌奈からのチラ見は数分に一度という頻度に跳ね上がっており、これはもう流石に無視出来なくなってきている。
源蔵は内心で溜息を漏らしながら、羽歌奈とは再度会話の場を設ける必要があると腹を括った。
そうして喜美江、彩華、貴之らが仕事を終えて続々と室長個室を去ってゆくと、夕陽が射し込む室内には源蔵と羽歌奈のふたりだけが残された。
「……ちょっと休憩にでも行きますか」
「あの……それなら、宿直室でお願いしたいんですけど……」
源蔵からの呼びかけに対し、羽歌奈は何とも大胆な返答を口にした。
役員用宿直室で、ふたりだけで折り入って話がしたい、というのである。
どうやら、不特定多数の耳目が集まる休憩室では都合が悪いということらしい。
(しゃあないな……ちょっとだけ付き合うか)
かくして源蔵は、羽歌奈を伴っていつも使っている役員用宿直室へと足を運んだ。
この役員用宿直室は、今では事実上、源蔵の専用宿直室と化している。その為、他の役員が顔を覗かせることも無い。
社内に於いて、これ以上完璧な密室もそうそう無いだろう。
「何か飲みますか?」
入室してすぐに冷蔵庫を開いた源蔵だったが、羽歌奈は小難しい表情で僅かに俯いたままだ。
聞こえていないのだろうか。
仕方なく源蔵が再度呼びかけようとすると、それよりも前に羽歌奈がさっと面を上げ、思い詰めた様な表情で源蔵の強面を見つめながら、か細い声を搾り出してきた。
「あの、室長……突然こんなことをいったらびっくりされるかも知れませんけど……わたしと……その……お……お……お付き合い……して……下さいません……か……?」
「何ですか、藪から棒に」
源蔵はペットボトル入りのアイスコーヒーを手にしたまま、その場で怪訝な表情を浮かべながら羽歌奈に振り向いた。
この元アイドルの美女は一体、何をいい出しているのだろうか。
源蔵の頭の中には、幾つもの疑問符がずらりと並んでいた。
そんな源蔵の疑念など知らぬとばかりに、羽歌奈は小走りに駆け寄ってきて、源蔵の空いている方の左手を取ってぎゅっと握り締めてきた。
「わたし……室長のことが……好きです」
「えぇっと、ちょっと待って下さいね佐伯さん……そもそも、そんなこというて、大丈夫なんですか?」
この時、源蔵の脳裏には知彬の姿が浮かんでいた。あの挑みかかる様な瞳は、絶対に羽歌奈を渡さないという恋い焦がれる男の決意の如き炎で燃えに燃えていた。
「その……知彬のこと、おっしゃってるんですよね?」
「はい、そうですよ。二股はあきませんって。僕かて変な修羅場に巻き込まれとうないんで」
源蔵が渋い表情を返すと、羽歌奈は手を握り締めたまま、背伸びする様な格好でじぃっとゴリラの如き強面を覗き込んできた。
「もう本当に、これだけは信じて下さいっていうしかないんですけど……わたし、本当の本当に、知彬とは何でもないんです」
「ほんなら、アレは何やったんです?」
アレとは、昨晩源蔵が突き付けた現実――開封されたコンドームの個包装の袋を指している。
羽歌奈もその指摘は心得ている様子で、少しばかり恥ずかしそうに頬を上気させながら、僅かに視線を逸らせた。
「えっと……実は、その……練習、してたんです……ひとりで……」
「練習?」
ますます分からない。
彼女は一体、何をやっていたのだろう。
「ですから……えっと……ほら、男のひとって大体、カノジョにコンドームを口で付けて貰うのが大好きだってネットに書いてあったから……」
思わず小首を捻った源蔵。
一体どこから、そんな情報を引っ張り出してきたのか。そもそも羽歌奈は、誰にコンドームを付けてやろうなどと思ってそんな練習をしていたのか。
「何でまた、そんなことを……」
「そのぅ、ですから……室長に、付けてあげたいなって、思って」
源蔵はカップに移したアイスコーヒーを口に含みかけていたが、まさかの応えに、危うく噴き出しそうになった。
「佐伯さん……また、エラいこと、いい出しますね……」
「イ……イイじゃないですか! こ、これが、わたしの、本心なんですから!」
尚も顔を真っ赤にしながら、少し怒った様な表情でその美貌を更に近付けてくる羽歌奈。
これに対し源蔵は、どう答えるべきか迷った。
麗羅からは、女性の想いを無下にするな、己の殻に閉じ籠るなと散々口酸っぱく説教を浴びている。
しかし、だからといって急に全てを受け入れろというのは無理がある。
そもそも、源蔵には女性から本気で、真正面から告白された経験などただの一度も無いのである。どう答えるのがベストなのか、自分でも分からない。
「その……ダメ、ですか?」
「いや、あかんとかそういう以前の話なんですけど」
源蔵はカップをキッチン台に置いてから、自身の左手を尚も握り締めている羽歌奈の白い両手の上に、己の大きな右掌をそっと被せた。
「僕ね、女性からちゃんとした形で告白されんのが、初めてなんですよ。せやから、どう答えんのがエエんかよぅ分からんのです」
「え……う、嘘ですよね? 室長が……えぇ~? ホ、ホントに、初めて、なんですか……?」
信じられないといった様子で目を丸くしている羽歌奈。
そんな彼女に対して源蔵は、渋い表情でホンマですと頷き返すしか無かった。