161.ハゲは家事代行力を見せつける
翌、日曜の朝。
源蔵がインターネットでLinuxの技術コミュニティ記事を漁っていると、まだ午前中の8時前だというのに、どういう訳かインターホンが鳴り響いた。
何事かと小首を傾げながら応答に出てみると、ドア前に知彬の姿があった。
(はて、何の用事やろ?)
頭の中に幾つもの疑問符を浮かべながらドアを押し開いた源蔵。
対する知彬は、何ともいい難い憮然とした表情のまま静かに頭を下げてきた。
「あの、ちょっとお願いしたいことが……」
曰く、羽歌奈を止めて欲しいというよく分からない頼みごとだった。
何事かと更に話を聞いてみると、羽歌奈がまだ熱も下がり切っていないというのに、家事に手を付けようとしているということらしい。
知彬は看病の為に寝泊まりしていたらしいのだが、羽歌奈は制止を一切聞き入れず、ベッドから起き上がってごそごそし始めているのだという。
「けど、羽歌奈の奴、あんたのいうことなら多分聞きそうだなって思ったんで……」
悔しそうに視線を逸らす知彬に、源蔵は内心で呆れつつも分かりましたと頷き返した。
まずは、事情を聞かなければならない。何故羽歌奈は、看病役の知彬を頼らず、病身でありながら自ら家事に手を付けようなどと考えたのか。
源蔵は知彬に案内される格好で隣室へと足を運んだ。
「え……室長、ど、どうして……」
マスクを着用し、パジャマの上からカーディガンを羽織った羽歌奈が、幾分ツラそうな面持ちで源蔵を出迎えた。この姿から察するに、彼女は本当に家事に手を付けようとしていた様だ。
「佐伯さん、まだ治ってないんですから、横になってて下さい」
「えっと……すみません。そうもいってられなくて……」
いいながら羽歌奈は、少しだけ困った様な色が滲む視線を知彬に流した。
「その……彼が、洗濯物が全然出来なくて……」
「ん? どういうことですか?」
聞けば知彬は、何の考えも無く羽歌奈の衣類や下着を全部まとめて洗濯機に放り込み、適当に廻してしまったらしい。結果、一部の衣服は色移りや型崩れが生じ、ブラジャーの留め金で傷が入ってしまっているものもあった様だ。
源蔵は眉間に皺を寄せつつ、知彬に振り向いた。家事スキルが未熟な筈はないと思っていたのだが。
「ひとり暮らしされてるんやなかったんですか?」
「いや……そうなんだけど……」
渋い表情で頭を掻く知彬。
ここで源蔵は、ピンと来た。どうやら知彬は、男のひとり暮らしとしての家事スキルしか身に着けていないのだろう。
逆をいえば、女性と同棲したことが無いだろうから、女物の衣服の扱い方には慣れていないのだ。
こればかりは経験がものをいう。源蔵はやれやれとかぶりを振りながら苦笑を浮かべた。
「佐伯さん、もうエエから横になってて下さい。後は僕がやっときますから」
「え、でも……」
羽歌奈は困惑と羞恥を綯い交ぜにした複雑そうな面持ち。
しかし源蔵は決して引かなかった。
「そらぁね、御自身の下着とかを他所の男に触られんのはイヤかも知れませんけど、今はそんなこと、いうてる場合やないでしょう。まだ熱も下がり切ってへんのに、そんなんで無理して余計に拗らせたら、どうないするんですか」
源蔵は兎に角ベッドに戻れと強くいい切り、知彬に羽歌奈の看病を命じてから家事に着手した。
幸い源蔵は、美月との父娘生活で培ってきた経験から、女物の衣服や下着の扱いには慣れている。ブラジャーはホックを止めて洗濯ネットに放り込み、衣服は素材と色に分けて別々に洗濯機で廻す段取りを整えた。
洗濯機横の棚を見ると、柔軟剤が幾つか在る。恐らく羽歌奈は、洗う物によって使い分けているのだろう。この辺の知識や常識も源蔵は十分に心得ていた。
(美月に色々教わっといて、良かったわ)
男のひとり暮らしでは絶対に身に付かなかったであろう知識を総動員して、源蔵は羽歌奈宅での家事へと着手した。
(あらら……ゴミの分別も出来てへんのか)
知彬は、素材に関わらず全てのゴミをひと括りにしてゴミ袋に放り込んでいた。が、このマンションは分別ルールが何かと細かい上に結構五月蠅い。
これではクレームが来るかも知れぬと考え、もう一度自分の目で選り分けることにした。
更に掃除へと着手した源蔵。
超高級タワマンでひとり暮らししていた頃は、あれだけの数の部屋を全て自力で綺麗に清掃し切っていた。それに比べれば、このマンションの室内規模は小さく、源蔵の手にかかれば然程の時間を要すこともない。
時折、知彬が源蔵の様子を見る為に羽歌奈のベッド脇から離れてこっそり覗き込んできていたが、源蔵は気にすることもなく手早く家事を片付けていった。
そうこうするうちに、洗濯機が止まった。
女物の衣服や下着の干し方にも、作法がある。源蔵は生地を痛めぬ様に、また型崩れを起こさぬ様に細心の注意を払いながら洗い終えた衣類・下着を干し進めてゆく。
(流石に取り込むぐらいのことは、いちいち事細かにいわんでも大丈夫やろう)
これで、ひと通りの家事は終わった。
後は羽歌奈にゆっくり養生して貰い、知彬が彼女の傍らでしっかり看病してくれれば良い。
最後に源蔵は、朝昼晩の三食の病人食の準備に取り掛かった。
ここまで徹底的に全てをやり終えておけば、羽歌奈も下手に無理して病身を酷使することもない筈だ。
(まぁ……ちょっと余計なことまでやり過ぎた気はするけど……)
羽歌奈と知彬のふたりきりで居られる筈の時間を、無駄に邪魔してしまったという罪悪感がある。
調理を終えたらさっさと洗い物を済ませ、知彬に病人食を出す際の注意点などを伝えたら、自分は早々に辞去しなければならぬと考えていた。
その時、羽歌奈がベッドから這い出してきてキッチンへと顔を覗かせた。
恐らくトイレにでも行こうとしていたのだろうが、この時の彼女は心底驚いた様子で目を丸くしていた。
「すっごい……室長、これ、全部おひとりで……?」
「佐伯さんが日頃やってることと、同じですよ」
源蔵は病人食を作り終えて、調理器具を洗いながら小さく肩を竦めたが、羽歌奈は何故か小さくかぶりを振った。
「いえ……全然、わたしが普段やってることなんかより、凄く……その……完璧です」
尚も何かをいおうとした羽歌奈。
しかしそれよりも早く源蔵は作業を終え、玄関口へと踵を返した。
「あんまり長居すると邪魔なんで、僕はもう戻ります。ほんなら、後はごゆっくり」
源蔵は半ば逃げる様にして共用廊下へと飛び出した。
その背中に羽歌奈が引き留める様な台詞を投げかけてきていたが、源蔵は聞かなかったことにした。