158.ハゲは面食らった
羽歌奈に引っ越しの為の特別休暇を取らせてから、およそ一週間が過ぎた。
その間、源蔵は都小路電機社屋内の役員用宿直室に泊まり続け、諸々の業務を捌いていた。それらがひと区切りついたところで、一度自宅マンションに戻ろうと考えた。
(流石にちょっと放ったらかし過ぎやな)
埃なども溜まっているだろうから、色々な箇所の掃除もしなければならない。
そんなことを考えながら週末の夜に自室へと引き返すと、隣室からひとの出入りによるものと思われる生活音やドアの開閉音などが聞こえてきた。
(あれ……新しい入居者、決まったんかな?)
源蔵が入居するのとほとんど入れ替わりで、隣室のカップルが退去したという話を管理人から聞いていた。
このマンションは基本的には2LDK或いは1LDKのカップル用マンションという位置づけになっており、ひとり暮らしの源蔵の入居は少し珍しいと驚かれたことを覚えている。
そして退去していった隣室のカップルは、噂によれば破局した為に一緒に住むことが出来なくなって、結果としてマンションを引き払う格好になったとの由。
(新しいお隣さんは、またカップルなんやろか)
全くどうでも良いことを考えながら、室内着へと着替え終えてバスルームの浴槽に湯を張ろうとした。すると突然、インターホンのチャイムが鳴った。
もしかすると、お隣さんが挨拶に来られたのかも知れない。
源蔵は何の気なしに、はいはい今出ますよとひとりでぶつぶついいながら玄関ドアを押し開いた。
で、そのまま凝り固まってしまった。
「あ……室長、こんにちは」
そこに居たのは、Tシャツにスパッツというラフな部屋着姿の羽歌奈だった。
いつもオフィスで見せているクールビューティーなバリキャリウーマンの、きっちりと整った綺麗ないでたちとは異なり、この日の羽歌奈は驚く程にカジュアルな格好だった。
だがそれ以上に源蔵が不審に思ったのは、何故彼女が今、ここに居るのかということである。
源蔵は過去に自身の料理を振る舞う為にと羽歌奈、喜美江、彩華、貴之らを招いたことがある。喜美江が源蔵の腕を見込んで、是非御馳走して欲しいとねだりまくったからだ。
それ故、羽歌奈が源蔵の自宅マンションを覚えていたのは別段、不思議ではない。
問題は何故今、羽歌奈が単独で玄関ドア前に佇んでいるのかという点である。しかもレジ袋をひとつ携えているだけで、それ以外には荷物らしい荷物も持っていない。まさかほとんど手ぶらに近い状態で、このマンション内を徘徊していたというのだろうか。
そんなあれやこれやを頭の中でぐるぐると考えている源蔵の前で、羽歌奈は幾分恥ずかしそうな仕草を見せながら、はにかんだ笑みを浮かべた。
「えっと……これ、引っ越し蕎麦です。良かったら、どうぞ……」
「引っ越し蕎麦……って、ことは、まさか」
いいながら源蔵は玄関口からぬぅっと顔を出して、隣室ドアの表札部に視線を走らせた。
そこには、佐伯という文字が堂々と踊っていた。
「え、マジですか佐伯さん……いや、確かに引っ越しして下さいいうたのは、僕ですけど……」
「はい、大マジのマジです。今日からお隣さんです。室長、宜しくお願いします」
羽歌奈はレジ袋に入った引っ越し蕎麦を強引に手渡してきて、それからぺこりと頭を下げた。
源蔵としては、完全に不意打ちを喰らった格好だった。
まさか、カップル向けマンションに羽歌奈が隣人として引っ越してくるなど、全く思っても見なかった。
「いや、そうですか……まぁ、何といいますか……こちらこそ、宜しくお願いします」
何とも要領を得ない源蔵だったが、一応頭は下げて礼に応じた。
それにしても一体何故羽歌奈は、わざわざ源蔵の隣室の住人になることなどを選択したのだろうか。羽歌奈が好みそうな女性向けのマンションなど、他に幾らでもありそうなものなのだが。
「えーっと……ほら、前に室長が御招待して下さった時に、素敵だなーって思ってたんです。で、折角引っ越すんなら、ここがイイかな、なんて……」
頬を上気させながら、もじもじと乙女ムーブをちらつかせている羽歌奈。
日頃、室長個室で彼女が見せている凛とした姿とはまるでかけ離れた、少女の様な仕草だった。
別段それが悪い訳ではないのだが、オフィスでの立ち居振る舞いとは余りに違い過ぎる為、源蔵としても面食らわざるを得ない。
「そうでしたか……まぁ僕も、ここ越してきてからまだそんなに日ぃ経ってないんで、分からんことだらけですけど……」
流石に、何かあったら頼りにしてくれ、などとはいえない。
カフェ『リロード』の二階に操を住まわせた時は、源蔵はオーナーという立場上、何かあれば自分を頼れということが出来た。
しかし今回は、ただの隣人同士である。
会社では上司と部下だが、プライベートともなればお互いに対等な立場となる訳だから、下手に上から目線でものをいう訳にもいかなかった。
そんな源蔵の秘めたる葛藤を知ってか知らずか、羽歌奈は尚も気恥ずかしそうな面持ちで頬を上気させたまま更にとんでもない台詞を放ってきた。
「あ、それでですね……もし良かったら、一度遊びに来て下さい。ほら、前に御馳走して頂いたじゃないですか……だから、その、引っ越し祝いパーティーを兼ねて」
「あぁ、まぁ、そうですね……また皆さんで、御邪魔させて貰いましょか」
取り敢えず、当たり障りの無い方向に話を持ってゆくしかない。
羽歌奈も源蔵のこの反応は想定済みだったのか、一瞬だけ残念そうな色を見せたものの、すぐに是非そうして下さいと明るい笑顔を浮かべる様になっていた。
(これ……美月に話したら、何ていわれるやろう……)
ひと通りの挨拶を終えて室内に戻った源蔵は、レジ袋の中から蕎麦一式をごそごそと取り出しながら何度も首を捻っていた。
そして実際に、訊いてみた。
美月はビデオ通話の画面越しに、
「え! お父さん、やったじゃん! もう付き合っちゃいなよ!」
などと非常に嬉しそうな笑顔を浮かべて嬌声を叩きつけてきた。
こんな反応が返ってくるんじゃないかと、何となく予想していた源蔵ではあったが、幾ら何でもそれは拙いだろうとかぶりを振った。
「上司と部下やしな……」
「んなこと、関係無いじゃん!」
尚も喜色にまみれたままの美月。
どうやら彼女の恋バナセンサーに、ものの見事に引っかかってしまったらしい。