157.ハゲは引っ越しを勧める
義幸という男の素性や行動を調べれば調べる程、源蔵は余りにお粗末で素人臭い手段の数々に、思わず眉を顰めてしまった。
(何でこんなひとが、都小路電機に入れたんやろな……)
役員専用の宿直室で、備え付け業務用PCのモニターに映し出される諸々のデータをじぃっと眺めていた源蔵だったが、もう一体何度、似た様な溜息を漏らしたか自分でも分からない。
あろうことか義幸は、社内ネットワークを介して羽歌奈の枕業務の噂をばら撒いていた。のみならず、彼はその痕跡を消し去ろうともせず、そのまま残していたのである。
或いは、これは一種の撒き餌であって、他の狙いが何かあるのではないかという疑いも無くは無い。
ところが源蔵が収集した情報内では、それらしい動きは欠片にも見られなかった。
そうなると、義幸は本当に無策の出鱈目な男ということになる。
ダイナミックソフトウェア時代にも、似た様な輩は居た。美彩の元カレで、懲戒処分を受けた良亮は源蔵に牙を剥いたものの、完璧な程の返り討ちに遭い、徹底的に叩きのめされた。
その同じ臭いが、義幸の行動の中にも漂っている。
(大体こういうひとらは、攻めることばっかり考えて、守りはホンマに疎かやもんな……)
内心で呆れながらも、源蔵は義幸がばら撒いたデマや悪口、そしてそれらの拡散に伴うネットワークログなどを情報セキュリティ部摘出のデータと突き合わせて、証拠固めへと入っていった。
源蔵個人が動いただけならば、義幸の上司や所属部署がのらりくらりと躱しにかかるかも知れない。
しかし源蔵は、都小路電機全体のネットワーク不正とコンプライアンス違反に目を光らせている情報セキュリティ部とも連携し、どんな言い訳も一切出来ない完璧な証拠を揃えるに至っている。
どれ程の権力を持つ者であろうと、流石にぐうの音も出ないだろう。
(後は、先方の上司やら職制連中がどこまで谷中さんを庇おうとするか、やな)
場合によっては、本当に迷惑防止条例違反での告発も考えなければならないだろうが、まずは向こうの出方を探ってからだ。
ところが、義幸の上司や職制達は意外な程あっさりと、白旗を上げた。
源蔵が先方部署の会議室に彼らを訪ねて、義幸の非道なる行動と証拠の数々を突きつけると、彼の上司は平身低頭でひたすら謝罪の言葉を並べ立てていた。
どうやら義幸を管理する側でも、日頃から苦々しく思うところがあったのかも知れない。
「この度は、うちの課員が大変な御迷惑をおかけしまして、誠に申し訳御座いませんでした」
義幸の所属課の課長はそういって何度も頭を下げた。
他の職制らも似た様な反応だった。
彼らは彼らで義幸の行為が都小路電機のブランドを傷つけかねないという事実を認識しているらしく、件の課長などは心底腹を立てている様子を伺わせた。
となると、源蔵としてもそれ以上に攻撃する訳にはいかない。
後は向こうが責任を持って、しっかり対処してくれればそれで良い。
「では、くれぐれも宜しくお願いします」
念を押した源蔵だが、その気遣いは無用だったかも知れない。
というのも、その翌日には義幸の都小路電機社員にあるまじき行為の数々が白日の下に晒され、徹底して糾弾されるという内容の通達が社内イントラネットに堂々と掲載されていたからだ。
懲戒処分を受けた義幸は、即日に自主退職という形で会社を去ることが決定した様だ。
(後は……佐伯さんを引っ越しさせた方がエエやろな)
義幸が羽歌奈に逆恨みして、何かの攻撃を仕掛けるかも知れない。そうなる前に、羽歌奈を新たな住居に退避させる必要があるだろう。
源蔵が義幸を会社から叩き出した以上は、彼女の安全を確保するところまできっちりと面倒を見てやらなければならない。
(丁度、市場の不具合もちょっと落ち着いてきとるしな。引っ越し休暇でも取って貰うか)
そんなことを考えながら、源蔵は室長個室内で黙々と作業に従事している羽歌奈の端正な横顔をちらりと盗み見た。
すると羽歌奈も何を思ったのか、ほんの一瞬だけ物凄く嬉しそうな笑みを返してきた。
その柔らかな表情から察するに、肩に圧し掛かっていた重圧から解放されたという気分なのだろう。
(例の噂も、そのうち消えるやろうけど……やっぱ、相当気に病んでたんやろな)
ひとまずは羽歌奈の精神を健全な状態に戻すことが出来た。
未だ彼女の中には幾つかの傷が残されているかも知れないが、それはいずれ時間が解決してくれるだろう。
◆ ◇ ◆
その日の業務を終え、貴之や彩華、喜美江といった面々が立て続けに室長個室を辞していったが、羽歌奈だけは一向に帰ろうとせず、チャンピオンベンチ脇で後片付けに入っている源蔵をじぃっと眺めている。
やがて彼女は、源蔵がひと通りの片付け作業を終えて帰り支度に着手したところで、無言のままそっと歩を寄せてきた。
「あの、室長……」
何となく恥ずかしそうに、もじもじしている羽歌奈。
「あれ……まだ何か、やり残しありましたっけ?」
「いえ、そうではなくて……その……室長」
そこで羽歌奈は背筋をぴんと伸ばし、深々と頭を下げてきた。
「この度は本当に、ありがとうございました」
「いえいえ、こんなんは上司として当然の義務ですから、そんな気ぃ遣わんで下さい」
いいながら源蔵は鞄を手にして立ち上がった。
しかしまだ、全てが終わった訳ではない。
源蔵は、すぐにでも今の住居を引き払った方が良いと言葉を繋げた。
「谷中さんが何らかのトラブルを持ち込んでくる可能性は大いにあります。佐伯さんのご自宅は、知られてるんですよね?」
「あ、はい……何度も泊まりに来たことがありますから……」
思い出すのも嫌だといわんばかりに美貌を歪めた羽歌奈だが、しかし今は彼女の黒い思い出についてどうこういっていられる場合ではない。
「何日かお休み取って、すぐに引っ越しに着手して下さい。その為の特別休暇は僕の方で申請しておきます」
「そう……ですね」
この時、羽歌奈は妙に意味深な色を含んだ視線を送り返してきた。
源蔵はそんな羽歌奈の表情には全く気付くことなく、なるべくひと気の無いところには寄り付かぬ様にと指示を出してから、室長個室を飛び出した。