156.ハゲはほくそ笑む
定時後、羽歌奈とふたりで社屋を出た源蔵はまず会社近くのイタリアンレストランで腹ごしらえし、酔いが回らない程度に食欲を満たしてから、その足で羽歌奈と初めて出会った路地裏のバーへと向かった。
その間、羽歌奈は終始淡々としていたものの、然程機嫌が悪そうにも見えなかった。
例の噂を全く気にしていないのか、或いはやせ我慢しているのか。
いずれにせよ、その秀麗な美貌の見事な程の鉄仮面ぶりには、源蔵も内心で舌を巻く思いだった。
そうして件のバーへと腰を落ち着け、すっかり顔馴染みとなった老齢のマスターにいつものカクテルを供して貰ったところで、源蔵はいよいよ一歩踏み込む腹を決めた。
しかし意外にも、先に口を開いたのは羽歌奈の方だった。
「室長……今日お誘い頂いたのは、例の、わたしの噂について、ですよね?」
「おっと、佐伯さんに先手を取られてしまうとは、僕もまだまだですね」
冗談めかして笑う源蔵に対し、羽歌奈は薄幸そうに静かな笑みを湛えるのみ。その美貌にはどこか、痛々しさすら感じる。
「わたしが枕業務で室長に気に入られたなんて噂を流してるのは、多分……元カレの、谷中くんです」
静かに告白した羽歌奈だが、その情報は既に源蔵の方でも入手済みだ。もっといえば、源蔵は義幸が犯人であるという物証も押さえてある。
だが今は、羽歌奈からの話を聞く方が先だろう。
彼女が今回の犯人に対し、どの様な感情を抱いているのか。そして自身が噂という形で謗られている現状をどう思っているのか。
羽歌奈自身の意思を尊重したい源蔵としては、何よりも彼女の言葉を直接聞いておきたかった。
「谷中くんと出会ったのは、実は大学生の頃なんです」
曰く、羽歌奈が芸能事務所に所属し、女子大生ながら地下アイドルとして活動していた頃に、彼女のファンだったという義幸と初めて知り合った。
義幸は羽歌奈の熱烈なファンだった一方で、羽歌奈自身は己の余りに落ち着き過ぎる性格がアイドルには不向きであると、日々悩み続けていたということらしい。
そうしておよそ二年程で地下アイドル活動を終え、一般人に戻った羽歌奈。
そこで初めて彼女は、義幸と少しだけ付き合うことになったらしい。義幸からの猛烈なアタックに根負けして付き合うことを承諾した、という流れだった様だ。
しかしそのふたりの恋人関係は、僅か一カ月程で破綻したという。
「彼……釣った魚には餌をやらないという典型的な亭主関白気質で、わたしはいつも振り回されるばっかりで……それが嫌で、すぐに別れてしまいました」
ところが大学卒業後、羽歌奈と義幸は揃って都小路電機に就職した。
義幸は一浪で大学に入り、一留後に卒業したから、年齢的には羽歌奈よりふたつ年上になるのだが、会社には同期として共に入社した。
そこで再び義幸が、もう一度やり直させて欲しいと迫ってきたのだという。
羽歌奈は入社直後に、枕業務という恐るべき悪習がまかり通っていることを知り、好きでもないオジサン幹部社員にカラダを許すよりはと考え、義幸からの申し出を受け入れることにしたらしい。
そうして余計な悩みに気を取られる必要が無くなった羽歌奈はバリバリと仕事をこなし、あれよあれよという間に実績を上げてエリートコースへの階段に足を踏み入れていった。
ところが義幸の方は全く駄目だった。技術も知識も三流で、何故都小路電機に入社出来たのかが不思議に思える程に凡庸な存在に成り下がっていた。
羽歌奈は枕業務などに手を染めずとも、その実力で若くして係長という役職に就くことが出来たが、義幸は未だに平社員のままだった。
ここまで羽歌奈が語った内容は、源蔵が掻き集めた情報とも全て符合し、どこにも差異は無い。
後は羽歌奈自身の気持ちの問題であろう。
「ここで初めて室長とお会いした時、もうひとり、わたしと一緒に居たひと、覚えてらっしゃいますか?」
「あ、もしかしてあのひとが、谷中さん?」
源蔵が幾分目を丸くして覗き込むと、羽歌奈は何ともいえぬ表情で頷き返した。
実はあの晩も、一度別れた義幸が再度よりを戻すチャンスが欲しいと迫ってきていたというのである。
尤も、流石に三度目ともなると羽歌奈も義幸の人物、性格というものがよく分かっている為、その申し入れを受けることは無かったらしいのだが。
「谷中くんは兎に角、自分が一番じゃなければ気が済まないタイプなんですけど、仕事では全然成果が出ないものですから、カノジョや後輩に対してだけはいつでも上から目線で接して、それ以外のひとには卑屈なぐらいに頭を下げてて……だから余計に、付き合っていた頃の彼はわたしにキツく当たり続けてました。それがもう本当に嫌で……そんな訳ですから、わたしが室長のもとで気分良く仕事しているのが、余計に腹立たしく思えたんでしょうね」
羽歌奈の笑みには、明るさは微塵にも感じられない。今にも泣き出しそうになるのを、必死に堪えている様子だった。
しかし源蔵はまだ、肝心なところを聞き出せていない。羽歌奈と義幸の過去については十分に分かったが、何よりも今、羽歌奈は何を望んでいるのか。どこまで許容するのか。
それを聞き出さなければならなかった。
「今回の件は、明らかにコンプライアンス違反です。場合によっては迷惑防止条例違反で被害届を出すことだって出来ます。僕としては部下の仕事環境を脅かす者には鉄槌を下す義務がありますし、是非そうしてやりたいところなんですが、佐伯さん御自身は僕が手を下すことに許容頂けますか?」
源蔵は敢えて感情を面に出さず、淡々と問いかけた。
すると羽歌奈は心底驚いた様子で、目を丸くしていた。
「え……そんな……室長が、わたしの為に……動いて、下さるんですか……?」
「いや、そんなん当然でしょう」
じんわりと涙が滲んでいる羽歌奈の愕然とした美貌に、源蔵は厳しい顔つきで面を返した。
「だって、わたし……もう、社内じゃ完全に悪者だし……そんな女を、まさか、室長が……」
「ははは……僕はそこまで過小評価されてましたか」
乾いた笑いを漏らしてから、源蔵は小さく肩を竦めた。
「僕は、自分の仲間がナメられんのがひと一倍イヤなタイプでしてね。佐伯さんさえ許して貰えるなら、谷中さんに制裁を加えます。ただやっぱり、佐伯さんから見たら元カレですからね。僕みたいなどこの馬の骨とも知れん奴にボコボコにされるのは、元カノとして黙って見てられんかもなっていう不安もある訳でして」
「……そんなこと、ないです」
羽歌奈は再び俯いて、手にしたグラスをじっと凝視した。
「もし、ホントに……室長が、動いて下さるなら……思う存分に叩きのめして欲しいです……」
その瞬間、源蔵は内心で拳を握り締めた。
羽歌奈の意思は、源蔵と同じ方向を向いている。
であれば、これでもう手加減する必要は無くなったという訳だ。
(ほんなら遠慮無く、やらせて貰いますよ)
源蔵は静かにほくそ笑んだ。
久々に、闘志が湧いた。