153.ハゲは事情を聞かされる
週が明けて、貴之も少しは気分が落ち着いたかと朝から顔色を伺っていた源蔵だったが、見た目的にはほとんど変化らしい変化は無く、朝はいつも通りに快活な笑顔で挨拶を交わしてくれた。
が、業務が開始すると何となく先週までとは色合いが異なることが分かってきた。
(あー……やっぱりまだ、引き摺ってはるかな)
羽歌奈や喜美江に対する時の貴之は、いつも通りの丁寧で穏やかな物腰を見せているが、隣席の彩華に対しては目に見えない壁の様なものが立ちはだかっている様に思えた。
彩華は午前中辺りはいつもの様に何かと貴之に声をかけていたのだが、昼休憩を終えた頃には彼女の表情にも奇妙な硬さが見え始める様になっていた。
(……流石に、気付いたか)
チャンピオンベンチで市場不具合の再現試験を実施する傍ら、源蔵は貴之と彩華の間に流れる緊張感をどうしたものかと思考を巡らせている。
しかし、下手に踏み込む訳にはいかない。仕事そのものはスムーズに廻っているから、口出しする契機が無いのである。
(それとも、このまま放っておくか……?)
確かにそれもひとつの手ではある。
男女間の機微に、上司がわざわざ干渉しなければならぬ義務は無い。
貴之は依然として、源蔵や羽歌奈、喜美江に対しては従来通りの真面目で穏やかな態度を貫いている。業務には全く支障は出ていないのだ。
(まぁ、もうちょい様子見るか)
ひとまず、その方針で腹を括った源蔵。
ところが喜美江の方はどうにも気が気ではないらしく、たまたまチャンピオンベンチで何かのログを取りに来た際に、源蔵の耳元でそっと囁きかけてきた。
「あのぅ、室長……何かあのふたり、ヤバくありません?」
「さぁ、どうでしょうね。仕事はちゃんとしてくれてるんで、僕からどうこういう訳にはいきませんし」
源蔵の言葉も尤もだとして、喜美江はそれ以上は何もいわず、ただ不承不承自席へと戻るばかりだった。
ところが意外だったのは、羽歌奈の反応だった。
彼女は業務時間中は仕事に対してのみ意識を向けているバリキャリウーマンかと思いきや、喜美江と同じ様に貴之と彩華の間に流れる微妙な空気に対して眉を顰めていたのである。
「何とか、あのふたりの仲を取り持つことって出来ないでしょうか……?」
「今の段階では、下手な手出しはやめといた方が良いですよ」
源蔵は小さく肩を竦めた。
まだ貴之からも彩華からも、直接相談を持ち掛けられてきた訳ではない。その段階で源蔵の方から口を出すのは下手をすればコンプライアンス違反にも抵触する。
可能であるとすれば精々、喜美江ぐらいであろう。
だがその喜美江も、どう対処すれば良いのか困惑している様子が伺える。であれば、この状況はもうしばらく甘んじて受け入れるしかないだろう。
そうして半ば暗黙の了解に近しい形で、源蔵、羽歌奈、喜美江の三人の間ではこの件に関する話題はご法度となりかけていたその時。
彩華がそっと席を立った。どうやら休憩室へ足を運ぶらしい。
ところがこの時彼女は、何故か意味深な色を含んだ視線を源蔵に向けてきた。言外にSOSを発信していると察した源蔵は、何食わぬ顔でベンチ脇の椅子から立ち上がり、彩華に続く形で休憩室へと歩を向けた。
「あ……お疲れ様です」
休憩室に足を踏み入れると、紅茶のミニサイズペットボトルを手にした彩華が、パイプ椅子に腰を下ろしたまま神妙な面持ちで頭を下げてきた
源蔵も素知らぬ風を装いながらブラックの缶コーヒーを購入し、彩華の隣へと腰を落ち着けた。
「……あの、室長……その、変なことをお聞きしますけど……」
しばらくして彩華が、幾分思い詰めた様子でその端正な顔立ちを傍らの強面に向けてきた。
「私……久我山君の気に障る様なこと、何かしちゃってます?」
曰く、貴之は彩華に対して怒りを発する様な態度は取っていないものの、明らかに先週までとは異なり、その言動が妙に余所余所しいというのである。
笑顔もほとんど見せなくなったし、会話は最低限の業務的な内容に搾られてしまっているのだとか。
源蔵はどう答えるべきか、ほとんど一瞬で頭の中にストーリーを組み上げた。
貴之の心情や彩華に対する彼の想いなどは、口に出来ない。それらは全て、源蔵や羽歌奈、喜美江といった面々が勝手に推測していることに過ぎないのだから。
いわば完全なる憶測だ。何ひとつ根拠は無い。
それ故、この場では飽くまでも事実とそれに基づく推測だけを述べるに留めるのが正しいだろう。
「多分ですけど、気ぃ遣ってはるんとちゃいます?」
「え……どういう……ことでしょう?」
よく分からないといった反応を示してきた彩華。
そこで源蔵は、彼女が賢人とふたりでラブホテル街から出てきた瞬間を、源蔵も貴之も目撃した事実をまず伝えた。
その瞬間、彩華の美貌が目に見えて真っ赤に染まった。
「嘘……そんなとこ……見られてたんですか……?」
「はい、偶然ですけど……で、まぁこれは僕の推測ですけど、久我山さんはカレシ持ちの女性と必要以上に親しくするのは如何なもんかと思うてはるんとちゃいますかね」
源蔵は、貴之が彩華に気があるかも知れぬという表現は使わず、単に彩華を気遣っているという解釈で貴之が彼女を避け始めたという方向に話を持って行った。
これならば貴之を傷つけることもなく、また彼の内面に不用意に土足で踏み込むこともない。
ただ事実を述べ、それに付随する推測を口にしただけだから、誰にも迷惑をかけることはないだろう。
ところが――。
「やだ……どうしよ……私、浅倉君とは全然、何も無いのに……」
その独白に、源蔵は小首を傾げた。何も無ければ、何故あんなところに居たのか。
すると彩華は、そんな源蔵の疑念を察したのか、幾分弁解めいた口調で迫ってきた。
「えっと……厳密には何も無い訳じゃなくて……その……浅倉君には確かに、付き合わないかっていわれました……でも、私は浅倉君とそんな関係になるつもりは無くて……」
そしてあの日も実は、ラブホテル街の向こう側にあるイタリアンカフェで、同期達との飲み会後の二次会を楽しんでいたのだという。
彩華が賢人と肩を並べてラブホテル街を出てきた様に見えたのは、その二次会の帰り道をたまたま賢人とふたりで雑談を交わしながら歩いてきたところだったに過ぎないのだという。
勿論、この弁明が事実かどうかは分からない。
だが少なくとも、源蔵も貴之も彩華が賢人と男女の仲にあると解釈したことは間違い無かった。
「ははぁ、そうでしたか……まぁ、西沢さんの事情は分かりましたけど、久我山さんはそうは思ってないんでしょうね」
「そ……そう、ですよ……ね……」
彩華は愕然とした表情で、呆然と床を見つめている。
源蔵としても、流石にそれ以上は何ともいいようが無かった。