148.ハゲは疑問を抱く
源蔵が主となって五日目を迎えた、次世代AI機器設計開発部統括管理室の広い室長個室。
そこに昼休みを終えて午後一に顔を出した新崎課長が、心底驚いた様子で目を丸くしていた。
「これはこれは……また随分と装いが変わりましたね……」
彼が驚くのも無理はない。
この室長個室のおよそ半分程の占有部分に、設計開発用の評価ベンチ然とした光景が現出している。
それまで部屋の中央に陣取っていた無駄に大きなソファーは既に撤去されており、室長個室っぽい雰囲気を漂わせるのは、来客対応用に準備された最低限の応接セットが執務デスクの隣にこじんまりと置かれている部分だけであろう。
新崎課長が来訪した時に室内で作業していたのは源蔵の他、羽歌奈と喜美江、そして新たに戦力として加えた久我山貴之という二年目の若手社員の計四名である。
いずれも上着を脱ぎ、袖を捲り上げて、それぞれの手に工具を握り締めている。
「あぁ新崎さん、調達からの資料ですかね?」
「えぇ、そうです。こちらに置いておきますね」
それまで幾分唖然としていた新崎課長だったが、源蔵に問いかけられて我に返った様子を見せた。それから彼は、ブラウスにうっすらとブラジャーの柄が浮かんでいる羽歌奈や喜美江に好色そうな視線を流した。
が、羽歌奈も喜美江も与えられた作業に没頭しているらしく、新崎課長からのいやらしい視線にはまるで気付いた様子も無かった。
「まだ何か、御用ですか?」
剃り上げた頭に汗を吸い取らせる為のバンダナを巻いていた源蔵が、ラックを組み立てる手を止めて問いかけた。すると新崎課長は、幾分引きつった笑みを覗かせて何でもないとかぶりを振ってから、そそくさと室を辞していった。
「皆さん、暑くないですか? もうちょい温度、下げましょか?」
「あ、いえ……わたしは大丈夫です。緑山さんは?」
源蔵に問われた羽歌奈が喜美江に話を振ると、喜美江も大丈夫だと胸を張った。
「ボクも、大丈夫です」
貴之が僅かにずれた眼鏡を押し上げながら、静かに笑った。この中肉中背の凡庸な外観の青年は、兎に角真面目で文句ひとついわずに源蔵のチャンピオンベンチ構築作業を手伝ってくれている。
他の若手社員らは何かと理由を付けて手伝い参加を敬遠しているというのに、貴之だけは目を輝かせて、本当に楽しそうな様子でベンチ構築作業に手を貸してくれていた。
そんな三人に、源蔵は大したものだと心の底から感心している。
いずれも、物覚えが早い上に要領も良い。最初のうちは何かと質問が多く飛び交っていたが、今では図面を渡しただけで黙々と作業に入ってくれる。
「何かイイですねー、こーゆーのって。技術者になれたーってカンジで」
あっけらかんと笑う喜美江は、手にしたお手製LANケーブルをスイッチハブへと繋いでゆく。作業開始当初は何も作ることが出来なかった彼女も、今ではひとりでLANケーブルを量産する職人の様になっていた。
コネクタ用かしめ工具やLANテスターの扱いも小一時間程度でマスターしたのだから、もともとそういう素養があったのかも知れない。
「室長……基盤の改造、大体終わりました」
羽歌奈が保護眼鏡を外しながら、作業用机から視線を流してきた。彼女には現在開発中モジュールから基盤を取り外し、ログ出力経路に線出しをする為の半田付けをやって貰っていた。
これまでの人生で半田ごてなど一度も触ったことが無かったという羽歌奈だったが、源蔵が手取り足取りの勢いで丁寧に教えてやると、思いの外、短時間で覚えてくれた。
そうして源蔵が羽歌奈の肩越しに覗き込むと、指示した通りの枚数の基盤に半田付けが終わっている。
まだまだムラが多く、ダマになっている箇所も少なくないが、ログ出力用の端子を繋ぐ分には全く問題が無い程度に仕上がっていた。
「OKです。ほんなら反対側に鰐口摘まんで、組み直して貰えますか」
「はい」
その指示に対し、羽歌奈は抑揚の無い声で小さく応えを返してきたが、その声音にはほとんど硬い感情は無さそうに思えた。
源蔵が室長に就任した当初は、羽歌奈は兎に角敵愾心だけを剥き出しにして素っ気無い態度を取り続けていたのだが、ここ二日程は随分と表情が柔らかくなっている様に思える。
いつまでも気を張り詰めたままでは、流石に疲れるとでも考え直したのだろうか。
喜美江はもっと早い段階から打ち解けた笑顔を見せていたが、この調子なら、羽歌奈もいずれ近いうちにリラックスした表情を覗かせてくれるかも知れない。
一方、貴之が組み立てていたラックもそろそろ完成が見えてきた。後は調達部と資材部から掻き集めた諸々のモジュールを組み込んでいき、本格的なチャンピオンベンチとして仕上げるのみである。
「こうしてみると、感無量ですねぇ」
喜美江がふぅとひと息入れながら、2メートル近い高さの評価ベンチ用ラックを見上げた。
羽歌奈も立ち上がって、どこか満足そうな笑みを浮かべている。
「いやいや、ホンマに助かりました。皆さんに手伝って貰って組み上げたこのベンチが、今後の市場不具合解析の切り札になりますからね」
「何だか……凄く久々に、仕事したって感じがします」
この時、羽歌奈がふっと表情を緩めて柔らかな笑みを滲ませていた。
今までも彼女は多くの開発作業を手掛けてきたのだろうが、何か物足りなさを感じていたのだろうか。
係長という肩書を得ている以上は、それなりの業務をこなしてきた筈なのだが――源蔵はひとり内心で小首を捻った。
「あの、ところで室長……」
と、ここで羽歌奈が幾分ぎこちない調子で神妙な面持ちを向けてきた。
「このチャンピオンベンチが完成したら……その……他の作業は、もう、無いんでしょうか?」
奇妙な問いかけだった。まるで、もっと仕事を寄越せとでもいわんばかりの口ぶりだった。
だが流石に、これ以上彼女らの手を煩わせる訳にもいかない。
羽歌奈にしろ喜美江にしろ、そして貴之にしろ、それぞれが与えられている仕事はある筈であろう。
「いや、まぁ、やることは山ほどありますけど、佐伯さんもお忙しいでしょうし……」
「あるんなら、その……もっと、お手伝いさせて頂けないですか?」
予想外の申し入れに、寧ろ源蔵の方が驚いた。
あれ程に彼を毛嫌いしていた筈の羽歌奈が、一体どういう風の吹き回しだろうか。
ところが、そんな羽歌奈に同調したかの如く、今度は喜美江も元気良く手を上げてきた。
「はいはいはいっ! あたしも、出来たらもっとお手伝いしたいです!」
「あ……ボクも、良いでしょうか?」
喜美江のみならず、貴之までもがそんなことをいい出してきた。
一体何が、この三人をそこまで掻き立てているのか。
源蔵は思わず、太い豪腕を組んで考え込んでしまった。