145.ハゲは一計を案じる
そろそろ室長としての初日の業務を終えようかという定時直前、室長個室に新崎課長が幾つかの資料の束を抱えて入室してきた。
源蔵が求めた、室内各課のメンバーのスキルやキャリア、業績を纏めたデータシートを持ってきてくれた様である。
「いやぁ、すみませんね、お忙しいところを」
「いえいえ、これぐらいお安い御用ですとも」
新崎課長は頭ひとつと半分以上は背の高い源蔵を仰ぎ見る様な格好で、にこにこと人懐っこそうな笑顔を覗かせた。
ところが彼は、源蔵にただデータシートを手渡すだけではなく、妙に意味深な笑みを湛えてそっと顔を寄せてきた。
「ところで楠灘さん……もう、枕業務の相手はお決めになられましたか?」
「はい? 何ですって?」
源蔵は思わず声を裏返して訊き直した。新崎課長が放った奇妙なフレーズが、余りにも突拍子無さ過ぎた様に思えた。
ところが新崎課長は、僅かに驚きの色を浮かべている。その表情は、意外なものを見たといわんばかりだ。
「あれ、御存知なかったんですか? いきなり室長待遇でお越しになられたから、てっきりその辺の事情も全部知った上でのことかと思っておりましたが……」
どうにも話が噛み合わない。
彼は一体何をいっているのか。
源蔵が改めて問いかけると、新崎課長は微妙に下卑た笑みを湛えて揉み手なんぞ始める有様だった。
「まぁ、読んで字の如くですよ。ほら、よくいうでしょ? 枕営業って……あれの社内版ですよ」
「……マジですか」
源蔵は思わず天井を見上げてしまった。
枕営業という言葉なら、よく知っている。女性が仕事を勝ち取る為に、取引先や権力を持つ相手に性的なサービスを施しすというアレだ。
そんなものは精々、芸能界とか政界ぐらいでしか通用しない話だと思っていたのだが、まさか天下の都小路電機内でも、その様な前時代的な文化が受け継がれていようとは。
令和のこの時代、もっといえば平成の後期にはそんなものは廃れていたとばかり思っていた源蔵。
だがこの都小路電機内では、未だにその様な男尊女卑の典型の如きしきたりが残っていたらしい。
(このひとら……会社に何しに来てんのや……)
もう呆れて言葉も出てこなかった。
ところが、そんな源蔵の絶句した姿を何か別の意味に勘違いしたのか、新崎課長は、
「もし宜しければ、私の方で手配させて頂きますよ」
などと変な方向にサービス精神を発揮させてきた。
源蔵はいい加減、頭が痛くなってきた。
「あ、いえ……結構です。その辺は自分で何とかしますので、どうぞお構いなく」
ここはもう、笑うしかない。と同時に、源蔵は新崎課長に警戒心を与えてはならぬと即座に判断した。
今の段階で下手に聖人ぶったり偽善的な台詞を口にすれば、社内で孤立する恐れがある。
この様な悪習は即刻撤廃させるに越したことは無いが、まだ社内での基盤が出来上がっていない現時点では、迂闊に敵を作るのは拙策でしかない。
「然様ですか……まぁもし、お好みの子が居たら、いつでもご連絡下さい」
それだけいい残して、新崎課長はそそくさと室長個室を辞していった。
(そういえば……佐伯さんとか他の女性役職者の皆さん、何や知らんけど、僕に変な目ぇ向けとったな……もしかして、僕が枕業務を期待してるとか思われてんのやろか)
あながち、間違いではないような気もする。
だが今すぐに否定して、彼女らの誤解を解くのは得策ではない。
兎に角ここは、余計な敵を作らないこと。ただその一点に意識を集中させるべきであろう。
(けど、まずは佐伯さん辺りを捕まえて、僕がどの程度女子社員に警戒されてるか、見ておく必要はあるやろな……)
源蔵は一計を案じた。そしてすぐに内線を取り、羽歌奈を室長個室へと呼びつけた。
すると五分もしないうちに、まるで芸能人と見紛う程の美貌が能面の如き無表情を浮かべて源蔵のもとへと駆け付けてきた。
否、実際彼女は過去に芸能界で活動していた時期があるらしい。どうやら女子大生の頃、アイドル活動か何かに注力していた時期があったという情報が、彼女の個人業務履歴に記されていたことを思い出した。
しかし今は、そんなことはどうでも良い。
源蔵としては新参者の室長が、女子社員の間でどこまで敵視され、胡乱な目で見られているのかを推し量る必要があった。
「突然呼び出してしもて、すみません。明日なんですけど、朝一からここで色々、手伝って貰えますか?」
「え……朝一から、ですか」
羽歌奈の美貌には明らかに警戒と侮蔑の色が浮かんでいる。
この室長個室は、いわば源蔵専用の完全なる密室だ。ここでどの様な行為があっても、まず外部に漏れることは無い。
恐らく彼女は、性的な意味での危機に嫌悪感を抱いたのだろう。
しかし源蔵は構わず、これは業務命令ですと短くいい放った。
こうなるともう、羽歌奈は抵抗出来ないのだろう。憔悴し切った様子で静かに、分かりましたと呟く様な小声で応じるばかりだった。
「ほんなら、明日は宜しくお願いします」
「はい……では、失礼します」
羽歌奈は汚物でも見るかの様な蔑んだ目線だけを残して辞していった。
(ははは……あんな目ぇで見られんの、いつ以来やろ)
過去に手酷くフラれた際に、同じ様な目で見られたことを思い出した源蔵だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
そして、迎えた翌日、朝。
源蔵が待つ室長個室には羽歌奈と、そして何故かもうひとり、若手の女子社員が一緒になって、足を運んできた。
緑山喜美江という一年目の技術社員だ。オリーブブラウンのロングボブを揺らしながら小犬の様に羽歌奈の後について廻る姿には、どこか愛嬌がある。加えて、彼女も中々の美人だった。
(ははぁ……さては新崎課長が変に気ぃ利かせたんやな)
内心で苦笑を禁じ得ない源蔵。
しかし今、目の前に佇んでいるのは敵愾心の塊の様な美貌の係長である。
まずは彼女を、何とかする必要があった。