144.ハゲは訝しむ
東京都港区内の某オフィス街に近しい繁華街、その路地裏。
源蔵は、ここ何日か通い始めたバーへと足を運んでいた。
明後日からは、都小路電機株式会社の次世代AI機器設計開発部統括管理室長としての業務が始まる。仕事が忙しくなれば、このバーにもそうそう毎日顔を出すことが出来なくなるだろう。
当初源蔵は、課長待遇で都小路電機に迎え入れられるという話で聞いていたのだが、いざ蓋を開けてみると更にその上位の役職である室長待遇だった。
どうやら都小路家次期当主の麗羅が相当色々と推してくれたらしく、役員からのお墨付きもあって、この新たなポジションを得る運びになった様だ。
(お嬢様からの置き土産やな……こらぁしっかり仕事せんとあかんな)
そんなことを考えながら、カウンターの隅の席へと向かい、ストゥールにその巨躯を落ち着かせた。
「今日は随分、御機嫌良さそうですね」
老齢のマスターが穏やかに微笑みながら、いつものカクテルを出してくれた。
源蔵はほくほく顔で、手にした紙袋から幾つかのパッケージを取り出した。今期最推しの特撮ドラマのテレビシリーズ第一クールを収めた、ブルーレイボックスだった。
「わざわざ早期予約特典を狙った甲斐がありましたわ。こんだけ色々付いてたら、僕でのうてもニヤついてしまいますよ」
などと笑いながら、おつまみのナッツを口の中に放り込む。
それからしばらくして、源蔵は妙な視線を浴びていることに気付いた。
ふたつ隣の席でひと組の男女がグラスを手にして何やら囁き合っていたのだが、そのうち女性の方がちらちらと源蔵の方を見遣っているのが伺える様になっていた。
しかし源蔵としてはまるで見知らぬ相手だ。何を思ってこちらを盗み見しているのかは知らないが、源蔵の方から敢えて声をかける必要性など微塵にも感じていなかった。
兎に角今は、ゲットしてきたお宝を目の保養とツマミにして、美味いカクテルを堪能する時間なのだ。
他所のカップルにかまけている場合ではなかった。
ところが――。
「あの……ちょっと、イイですか?」
「はい?」
不意に、先程の女性が席を立って源蔵の傍らに歩を寄せてきた。
相当な美人だ。
レッドブラウンに染めたロングレイヤーが薄暗い店内の中で艶やかに光り、その美しい顔立ちは芸能人を思わせる程、綺麗に整っていた。
その美女と同伴していた男性は、あからさまに不満げな表情を浮かべている。それもそうだろう。これ程の美女がそれまで自分の相手をしてくれていたのに、いきなり他のオトコに話しかけているのだ。
気を悪くしない方がおかしい。
(いやいや……ちょっと、変なトラブルに巻き込まんでよ?)
源蔵は内心で大いに警戒しながら、胡乱な表情で尚も声をかけてこようとする美女をじろりと睨んだ。
「それって、日曜朝にやってる特撮ドラマの早期特典付きブルーレイボックスですよね?」
「え? あぁ、これですか。はい、そうですけど」
するとその美女は、やっぱりそうなんだと感心すると同時に、物凄く羨ましそうな目つきで源蔵が手にしているパッケージをまじまじと眺めている。
源蔵は、何となく居たたまれない気分になってきた。
「なぁオイ羽歌奈……何の話してんだ?」
「……別にイイでしょ。あなたとの話も、もう済んだんだし」
羽歌奈と呼ばれた美女は冷たい口調で、それまで一緒だった男性に突き放す様なひと言を叩きつけた。
これは何だか、嫌な予感がする。
源蔵は早々に退散することにした。
「えっと、あの……またこのお店に来ます?」
「はぁ、まぁ、そうですね」
カードで手早くチェックを済ませた源蔵は、曖昧に頷いてから店のドアから飛び出していった。
◆ ◇ ◆
そしてその二日後、朝。
港区の某オフィス街に屹立する都小路電機本社ビルへと辿り着いた源蔵は、直属の上司となる次世代AI機器設計開発部の本部長や副部長といった重鎮連中と初日の挨拶を交わしてから、自身に与えられた室長個室へと足を運んだ。
今日からここが、源蔵の主戦場となる。
業務内容については先週のうちにあらかた頭に叩き込んでおいたが、部下や同僚となるひとびととの顔合わせはまさにこれからだった。
(さて、どんなひとらが居てはるんやろな)
基本的に、源蔵の立場では課長や係長、或いは主任クラスといった役職持ちだけを相手にする。一般の平社員とは廊下で挨拶する程度であり、直接に仕事上で接することは稀であるといって良いだろう。
その様な訳で、午前10時を廻ったところで次世代AI機器設計開発部統括管理室の傘下に入っている各部署の主だった面々が、入れ代わり立ち代わりの勢いで次々と挨拶に訪れてきた。
中でも特に接することが多いのは、統括管理課長の新崎寿彦という人物だ。
役職上は源蔵の方が上だが、年齢的には新崎課長の方がひと回り程も年かさだった。
「これからお世話になります」
「こちらこそ、どうぞ宜しくお願いします」
両者ともに当たり障りの無い挨拶を交わして、まずは表情から腹の探り合いといったところであったが、その後に現れた係長や主任クラスのひとびととの挨拶では、源蔵は思わず内心で小首を捻ってしまった。
(……あれ? このひと、こないだの……)
係長を務めるひとりのバリキャリウーマン然としたひとりの美女に、見覚えがあった。
一昨日の夜、件のバーで源蔵に絡んできたあの女性だった。
名を、佐伯羽歌奈というらしい。
羽歌奈の方も源蔵の正体に気付いたらしく、一瞬だけ驚きの色を滲ませていたが、しかしその美貌はすぐにクールな無表情へと変じていた。
もっといえば、その眼差しの中には落胆と敵意がちらついている様にも見えた。
(はて……僕何か、怒らせるようなことしたっけ?)
ひと通りの挨拶を終えても尚、内心で色々と訝しみながら首を捻り続けた源蔵。
初日から、何となく思い遣られる気分だった。