143.ブサメン、新たなステージへ
新型AI調理機器専用レシピ転送アプリの仕様設計にGOサインがかかってから、半年が経過した。
システム設計、ソフトウェア設計、プログラム設計と順調に各工程をこなしていったチームは、いよいよ本プロジェクトを製造工程に乗せる為の組織化へと踏み込もうとしている。
これを受けて、新たにひとつの設計課が発足し、それまでチームのトップを務めていた奈津美が正式に課長就任を果たすこととなった。
翔太と美彩がそれぞれ設計部門の係長、そして葵と璃奈が評価部門の係長を拝命し、そこへ他の各部署から二十数名程度の人員が移動してくることになる。
そして、それまで運営統括責任者として辣腕を振るい続けていた源蔵はというと――。
「櫛原さん……本当に、お疲れ様でした」
DS横浜サテライト内の大会議室で、源蔵は奈津美から花束を渡された。
同時に、新たに発足した設計課の全課員から盛大な拍手が沸き起こる。翔太は笑顔を浮かべていたが、葵や美彩、或いは璃奈といった面々はうっすらと涙を浮かべていた。
この日、源蔵はダイナミックソフトウェアの社員として最後の出社日を迎えていた。
彼は奈津美達がチームとしてひとり立ちした頃合いを見計らって、同社を去る腹を固めていたのである。
即ち、櫛原厳斗から楠灘源蔵に戻る日を、プロジェクト発足に合わせて設定した格好だった。
勿論ながら、この場に居る全員は最後まで源蔵を櫛原という男として送り出そうとしている。証人保護プログラムが適用されていた事実など、誰ひとりとして知らないままであった。
「本当に……辞めちゃうんですね」
「ははは……まぁ別に死ぬ訳やありませんから、またどこかでお会いすることもあるかも知れませんよ」
涙を拭う美彩に、源蔵は剃り上げた頭をぺたぺたと叩いてからりと笑った。
しかし、実際のところはもう二度と顔を合わせることはないだろう。源蔵は明日以降、櫛原厳斗の名を捨ててしまうのだから。
「櫛原さん……本当に、お世話になりました」
「次の会社でも、頑張って下さいね」
葵と璃奈も目を真っ赤にしながらそれぞれ別れの握手を求めてきた。
白富士を去る時は死者として誰にも見送られることはなかったから、この様な形で大勢のひとびとから送り出されるのは、事実上今回が初めてである。
正直、少しばかりこそばゆい気分でもあった。
「来月からは、天下の都小路電機で大活躍って訳ですね」
「大活躍出来るかどうかはちょっと分かりませんけど、まぁ、頑張ります」
声を励ます翔太に、源蔵ははにかんだ笑みを返した。
数週間後には、楠灘源蔵の名で都小路電機の次世代AI機器設計開発部門に在籍することが決定している。勿論そこには、都小路家の次期当主である麗羅の力が大いに働いていた訳だが。
「短い間では御座いましたが、本当にありがとうございました。皆さんのこれからの御活躍を、遠くからお祈り申し上げます」
そうして源蔵は、ダイナミックソフトウェアを去っていった。
彼が櫛原厳斗として入社してから、丁度一年後の話であった。
◆ ◇ ◆
自宅のワンルームマンションで引っ越しの準備を進めていた源蔵は、麗羅からの電話を受けた。
「あ、お嬢様、こんばんは……確か今日は、先方様との結納やなかったでした?」
「うん、そうよ……だから最後に、ゲンさんの声を聞いとこうかな、って思って」
実のところ麗羅は、現政権与党の未来の幹事長としての呼び声が高い、若手の有力国会議員との婚姻が進められていた。
最初の内は相当に渋っていたらしいのだが、都小路家の将来を考えた末、この婚姻を承諾したのだという。
「はぁ~……権力者になると、ろくに恋愛も出来ないのよねぇ……もぅホント、辛いわ……」
「ははは……こればっかりは僕の口からは何とも……」
源蔵はどう答えて良いか分からず、苦笑を浮かべて頭を掻くしか無かった。
一方、麗羅はすぐに声色を変えて源蔵にハッパをかけてきた。
「イイこと? わたしがいったことは絶対、忘れないでね」
女性の好意は、素直に受け入れろ――それが麗羅が源蔵に下した唯一にして至高の命令である。
彼女はひとりの男として、何が何でも絶対に幸せになれと厳命していた。
「また訳の分からなこといってグダグダしてたら、承知しないから」
「はは……まぁ、善処します」
このひとには敵わないなと苦笑すると同時に、源蔵は心からの感謝を示した。
◆ ◇ ◆
そして同日、深夜。
美月とのビデオ通話の中で、源蔵は操のことをくれぐれも頼むと言葉を重ねて頼み込んでいた。
「僕は楠灘源蔵に戻るけど、そっちにはまだまだ戻られへんしな」
「大丈夫、任せてよ。うちにとっても操さんは、本当のお姉さんみたいなものだからね」
Tシャツの袖を捲りながら、腕を撫す仕草でおどける美月。
と、ここで彼女はふと何かを思い出した様子で別の話題を振ってきた。
「あーそうだ。そういえばお父さん、資産はどうしよ? うちさ、ぶっちゃけ何十億も要らないんだけど」
現在、楠灘家の資産総額は120億にまで膨れ上がっている。
当初は美月と折半して60億ずつをそれぞれ持っておこうかと考えた源蔵だが、美月は余りに巨大過ぎる財産は手に余るとして拒否の構えを見せていた。
「もうさ、お父さんが100億ぐらい、持ってっちゃってよ。まぁ、20億でも大概だけど……」
何ともいえぬ表情で、電卓を叩く仕草を示した美月。
源蔵としても、美月が困るというのであれば、彼女が扱える程度の額に収めるしかないかと本気で考える様になっていた。
「ほんなら美月20、僕が100で一旦締めよか」
「うん、そうして。お父さんだったらきっと、上手く使えるんでしょ?」
ここで漸く美月は、気分良さげに笑った。
そして最後に、
「いよいよ、来月だね……うちもちゃんと成人したから、お酒、飲めるよ。楽しみにしてて」
「うん。ちゃんとお祝いしよな」
とのやり取りを交わして、この日の通話を締めくくった。
都小路電機への出社前日に源蔵は、都内で美月と顔を合わせる約束を取り付けていた。
証人保護プログラム適用以後、初めて彼女と直に顔を合わせる機会だった。
楠灘源蔵として返り咲く人生に華を添えるのは、矢張り愛娘以外にあり得ないと思っていたのである。
(さて、都小路電機……どんなとこやろな)
源蔵は麗羅のお墨付きということで、いきなり課長待遇で迎え入れられることになっている。
日本有数の巨大家電メーカーに場を移しての戦いは、もう間も無く始まろうとしていた。