140.ブサメン、叱られる
かつてHIV感染症といえば、エイズを発症した挙句に必ず死に至る不治の病とされていた。
しかし現在では治療薬が著しく進歩してHIVの増殖を十分に抑えることが可能となっており、死の病ではなく、制御可能な慢性疾患と考えられる様になっている。
操はHIVに感染したことはショックではあろうが、即その病で死を迎えるということはない。
美月も詩穂や冴愛といった仲間達と共に操を支えると気合を入れてくれている。
きっと彼女達なら間違い無く操を助けてくれるだろう。
だが源蔵自身は、どうか。
ただ遠くから、操のこれからの人生に幸多きことを願うことしか出来ない。それがもどかしい。
「……あら、ゲンさんどうしたの?」
目の前で麗羅が、ナイフとフォークを操る手を止めて不思議そうな面持ちで覗き込んできた。
美月から操のHIV感染を知らされてから数日後、源蔵は麗羅から乞われて高級フランス料理店へと足を運んでいた。
麗羅は新型AI調理機器専用レシピ転送アプリ開発の社内コンペで優勝を果たした源蔵に、個人的にお祝いしてあげたいとのことで今回、このレストランにわざわざ予約を取ってくれたのである。
ところが今の源蔵はHIVに感染した操のことがどうしても頭から離れず、ついつい上の空となってしまっていた。
流石にこれは拙いと反省し、苦笑を滲ませて小さく頭を下げた。
「すみません、麗羅お嬢様。ちょっと色々ありまして……」
「リロードの店主さんのこと?」
思わず源蔵は、ぎょっとしてしまった。何故麗羅が、そんなことを知っているのか。
否、都小路家の情報網を駆使すれば、その程度のことは簡単に分かってしまうのかも知れないが、それにしても麗羅が源蔵の抱える心配の種をいい当てたのには驚きを禁じ得ない。
「よう、分かりましたね」
「……実はわたしも、ちょっと前から気になってたの。ゲンさんお気に入りのカフェの店主さんが、ずーっと体調が悪いってことだったから」
嘘か事実かは、分からない。しかし麗羅の美貌に浮かぶ心配の色は、彼女の本心の様にも思えた。
この絶世の美女には本当に敵わない――源蔵は苦笑を滲ませて剃り上げた頭を掻いた。
尚、麗羅が源蔵をゲンさん呼びしているのは、楠灘さんと呼んで良いのか櫛原さんと呼んで良いのか時々困ることがあるから、それならばいっそふたつの名前に共通している部分を抜き出して、自分だけが呼ぶ愛称にしてしまえ、ということらしい。
都小路家の次期当主から愛称で呼ばれるというのは身に余る光栄なのだが、麗羅が是非その様に呼ばせて欲しいといって聞かない為、今ではすっかりゲンさん呼びが定着してしまっていた。
「それで、どうするの? 楠灘源蔵に戻って店主さんを助けに行く?」
「最初はそう思うたんですが、娘に、それだけは絶対にやめろと釘刺されました」
ここで源蔵は、これまでの経緯について簡単に説明し、そして美月から戻ってくるなと厳命されたことも併せて告げた。
当初は神妙な面持ちで源蔵の言葉に耳を傾けていた麗羅ではあったが、話し終えた段階で彼女は、物凄く残念そうな面持ちで大きな溜息を漏らしていた。
「もうやだ、このひと……何でゲンさんってそういつもいつも、自己評価が低過ぎる訳?」
全く以て予想だにしていなかった麗羅のひと言を受けて、源蔵は思わず眉間に皺を寄せてしまった。
己の自己評価の低さと操のHIV感染に、どの様な因果関係があるというのだろうか。
源蔵がその疑念を素直に告げると、麗羅は今度こそ呆れた様子で小さくかぶりを振った。
「ゲンさんさぁ……女性があなたに好意を持つのが全部嘘だとか気の所為だとかいうの、それ本当にやめた方が良いわよ? それってさ、過去にあなたを振ったクソ女どもと、それ以外の女性全てを同一視してるってことなんだからね。その発想って、物凄く失礼な話だってこと、分かってる?」
そして麗羅自身も、立派な被害者だと柔らかな唇を尖らせた。
「つまり、僕が最初から神崎さんの好意を無下にしとらんかったら、今回の様なことも起こらんかった……っちゅう訳でしょうか」
「100パーセント、そうだとはいわないわ。でもね、その切っ掛けを与えたのはゲンさんだからね。あなたがもっと周りの女性の気持ちを素直に受け入れることが出来てたら、もしかしたら回避出来てたかも知れないって話よ」
そういうものなのか――源蔵は、手を止めて考え込んだ。
本当に自分はそこまで値打ちのある男なのか。
麗羅がいう様に、ただ自己評価が低いだけの被害妄想の塊だというのか。
麗羅はやれやれと呆れた様にかぶりを振り、年代物の高級ワインを味わうこともなくグイっと一気に呷ってから、微妙に据わった目つきで源蔵を睨みつけてきた。
「起こってしまったことは、もう今更どうしようもないわ……だったら、大切なのはこれからよ? ゲンさん、本当に申し訳ないって思う気持ちがあるなら、女性からの好意はちゃんと受け止めること。それが、リロードの店主さんへの償いになるかどうかは別として、少なくともこれから先、あなたの周りに居る女性を不幸にしない為の最低限の誠意だからね」
「はぁ……善処します」
源蔵はすっかり恐縮して、ただただ小さくなるばかりである。
まさか、何歳も年下の美女にここまで叱られることになろうとは思いもしなかったが、しかしそれだけ彼女は源蔵のことを本気で心配してくれているともいえる。
そういう意味では、麗羅の心遣いは本当に有り難かった。
「ゲンさんのお陰で幸せになれた女性って、たくさん居るじゃない。でも逆にね、そのひと達もきっと、ゲンさんが幸せになることを、本気で願ってると思う……その想いだけはちゃんと汲んであげて欲しいな」
麗羅の口調は随分と柔らかくなっていた。
その瞳は僅かに潤んでおり、聖母の様な優しい色を湛えている。
「わたしも、同じだからね」
麗羅はゆっくりと立ち上がり、そのまま源蔵の背後へと廻る。彼女は後ろから抱き着く形で、源蔵を優しく包み込んだ。
「わたしもゲンさんに、たくさん御礼がしたい……それだけじゃなくて、ゲンさんともっと、一緒に居たい」
この大胆な行動に、源蔵は変な汗をかいてしまった。
麗羅のこの言葉は一体どこまで本気なのか――源蔵には今ひとつ分からなかった。