129.ブサメン、寝不足になる
翌朝――源蔵はほとんど一睡もせずに出社した。
通話回線越しではあったが、美月との邂逅は時間を忘れさせてしまう程の喜悦に満ちていた。
本当であれば通話音声だけで言葉を交わすつもりだったのだが、遂に我慢出来ず、ビデオ通話に切り替えてしまったのだ。
スマートフォンの画面に映し出された美月の泣き笑いの美貌に、源蔵もそれまで以上に目頭が熱くなってハンドタオルが手放せない事態となってしまったが、それでもお互いに笑顔が弾け、本当に数カ月ぶりの楽しいひと時を過ごすことが出来た。
美月は、現在に至るまでの彼女の身の回りのことを色々と話してくれた。
FBI極東担当から美月周辺におかしなことは起きていない報告は以前から聞いていたものの、直接本人の口から実情を聞き出せたという安堵感は、お役所的な報連相からは決して得られない充足を源蔵にもたらした。
どうやら美月は、順調にシェフとしての腕を磨き続けているらしい。
今はリロードでの臨時調理担当としてその技量を発揮している様だが、いずれは本当に自分の店を持つことが出来るだろう。
「お父さんがうちのお店に来てくれる頃には、もっともっと上手くなってるからね」
そういって微笑んだ美月の笑顔は、最高に美しかった。
血は繋がっていないものの、本当に心の底から自慢することが出来る、唯一無二の存在だった。
そうして何カ月ぶりかに愛娘との会話に心を弾ませる時間を得た訳だが、その中でひとつだけ、どうにも気になる点があった。
ここ二カ月程、操が全くリロードの店先に顔を出さなくなったというのである。
勿論、美月は店舗以外の場所では操と毎日の様に顔を合わせているのだが、操はどういう訳かリロードを冴愛や徹平、そして詩穂や美月といった面々に任せっきりで、ほとんど全く一階店舗に降りて来なくなったということらしい。
これは過日、リロードを訪れたという麗羅の言葉とも一致する。
一体、何があったというのだろう。
「例の……復縁したっていうバリスタ講師のカレシと何かあったんやろか」
「あ……そのことなんだけどね、お父さん……御免、あれ、うちの早とちりだったかも」
美月は心底申し訳無さそうな顔つきで頭を掻いた。
源蔵はしかし、それ以上の話を聞くつもりは無かった。
「神崎さんには神崎さんの人生があるから、僕が今更どうこういうつもりはないよ」
「本当にそれで良いの? あ、でも、うちにも責任はあるっちゃあ、あるのか……」
美月もバツの悪そうな表情で視線を落とした。
だが操の件については、もうこれ以上話すことはしないと決めた。自分の様な過去の人間が、禿げのブサメン如きが、いつまでも操の人生に関わって良い筈が無い。
操は既に、源蔵の偽装カノジョから解放されたのだ。そっとしておくのがベストだろう。
その後は別の話題に切り替えた源蔵。
美月に引き継がれた資産や株式の運用は、彼女がファンドマネージャーの東出と十分に相談して上手く進めていることも分かった。杉村総合商事株式会社の個人筆頭株主としての立場も、東出がしっかりサポートしてくれているとの由。
(そっか……美月自身は、ちゃんと生活出来てるんやな)
白富士に残してきたかつての仕事仲間達も、今や源蔵抜きで上手く業務を進めてくれている様だ。
であれば、今すぐに慌てて証人保護プログラムを解除する必要も無いだろう。
ひと通りの安心材料を得た源蔵は、まだもうしばらく櫛原厳斗としてダイナミックソフトウェアの社員を続ける腹を固めた。
「ね、まだ話せる? うち、もっとお父さんの声、聞きたい。あれから、お父さんがどんな風に頑張ったのか知りたい」
「あんまり細かいことは話せんけど、それでエエなら」
そんな訳で、美月とは明け方近くまで言葉を交わし続けた。
一応、陽が昇る前には通話を切ったものの、頭が興奮してしまって仮眠を取ることも叶わなかった。
だがこの寝不足、この疲れは心地良かった。
今も尚、源蔵の頭は多少の興奮状態が続いているから、今日一日ぐらいなら例え寝不足でも乗り切ることが出来るだろう。
「櫛原さん、おはようございます」
自席に辿り着くと、葵が幾分怪訝な表情で会釈を送ってきた。
「何だか、お疲れですね。目の周りも妙に腫れぼったい感じですし……」
「え? そうですか?」
口先では誤魔化しながらも、源蔵は内心で冷や汗を垂らした。
葵は変なところで洞察力が鋭いところがあるらしく、寝不足なのに興奮状態にある源蔵のアンバランスな状態を、半ば本能的に見抜いている様だ。
これは少し、気合を入れ直す必要があるだろう。
源蔵は両掌で自身の頬を軽く叩いた。
美月との再会は、ここでは一旦忘れるべきだ。今は櫛原厳斗であり、これから始まる社内コンペに全力を投入すべき大事な時期でもある。
無駄に浮かれて注意力が散漫になる様では、それこそ美月に笑われるだろう。
「おはようございます、櫛原さん……先程、社内コンペ参加者の名簿が届いていました」
休憩室方面から顔を覗かせた奈津美。
そのひと言に、源蔵は表情を改めた。ここからは本当に、曇りの無い繊細な注意力が要求される。
浮かれた頭を仕事モードに切り替える必要があった。
(どれどれ……)
立ち上げたノートPCの画面に、社内コンペ参加者リストを表示させた源蔵。
数は決して多くないが、いずれも社内のどこかで見たり聞いたりしたことのある名前が並んでいた。
(各部署のエース級ばっかりやな……そらそうか)
その中に、奈津美の名が刻まれている。
これだけでも十分に名誉なことだ、と以前の彼女ならば謙遜するかも知れない。
だが今は違った。
奈津美の表情には、どこか決意めいたものを感じる。源蔵としても、今一度己の中の覚悟を固め直すべきであろう。
(近々、キックオフミーティングで各参加チーム同士の顔合わせの機会があんのか)
そこがいわば、宣戦布告の場となる。
奈津美がひとりの技術者、ひとりの優秀な社員として本当にひとり立ち出来るかどうかは、このキックオフミーティングの立ち回り次第となるだろう。
出鼻を挫かれる訳にはいかない――源蔵は、隣席で資料に目を通している奈津美の端正な横顔にちらりと視線を流した。