128.ブサメン、父の顔に戻る
その夜、源蔵は帰宅すると同時にスマートフォンを手に取った。
「あ、もしもし……小深田さんですか」
通話の相手は小深田佑真――FBI極東支部に所属するエージェントで、源蔵の証人保護プログラムを担当する人物だ。
日中、源蔵に証人保護プログラム解除の意思確認についての連絡を寄越してきたのも、この小深田だった。
「突然の連絡で申し訳ありませんでした、楠灘さん。私としても、正式文書をきちんと用意した上でご連絡するのが筋だとは思ったのですが……」
小深田は回線の向こうで幾分申し訳無さそうな声を漏らしている。
源蔵は別段、小深田を責めている訳ではなかった。ただ、あまりにも事態の動くのが急過ぎた為に、少しばかり動揺しているだけに過ぎない。
その旨を苦笑を滲ませながら手短に伝えると、小深田も安堵の吐息を漏らしているのが回線越しに何となく伝わってきた。
「それにしても、どうしてまた保護が解除される様な話になったんですか?」
「ええ、それがですね……」
小深田曰く、源蔵の命の安全を脅かすテロリストの完全なる壊滅が確認された、ということらしい。このテロリストの殲滅にはCIAも動いていた様で、米国内でも正式に発表されたとの由。
このテロリスト共は米国以外では韓国と日本、そしてフランス辺りに僅かばかりの支部を設けていたというのだが、それらの支部も跡形も無く叩き潰し、全構成員を殺害若しくは逮捕し、名実ともに完全制圧が為されたという話だった。
それ故、源蔵の身に迫る危険は一切排除されたとFBI本部も判断した様で、その結果として、今回の証人保護プログラム解除の意思確認へと至ったというのが小深田の説明だった。
「ほんなら、僕はすぐにでも美月のもとへ……」
そこまでいいかけて、源蔵は口をつぐんだ。
本音をいえば、今すぐにでも美月に会いに行きたい。少しでも早く、自身の無事を知らせてやりたい。
だが今は、それは出来ない。
ここで楠灘源蔵に戻るということは、奈津美や葵を己の都合で見捨てることになる。
折角ここまで一緒に頑張ってきた仲間達を、今更裏切ることは出来ない。
少なくとも、今進めている仕事を手放す訳にはいかなかった。
「その、証人保護プログラム解除の意思確認っていうのは、期限はあるんでしょうか?」
「いえ、特にその様な決まりはありません。楠灘さんの御都合次第です」
つまり、櫛原厳斗から楠灘源蔵に戻るのは、いつでも良いという訳だ。
であれば、最早何も迷うことは無い。
源蔵はひとつ大きな吐息を漏らしてから、腹の底に軽く力を込めた。
「解除の意思はあります……ただそれは、今ではありません」
小深田に、現在進行中の社内コンペの件を軽く説明し、まだ自分には今の立場で為すべきことが残っていると告げた源蔵。
これに対し小深田は、拍子抜けする程にあっさりと源蔵の申し入れを受諾してくれた。
「承知致しました。では解除の時期についてはまた後日、相談致しましょう」
「ありがとうございます……先程、正式文書がどうのこうのとおっしゃってましたが、それが届いてからの方が良いでしょうね」
と、ここで源蔵は己の生存だけでも美月に伝えることは可能なのかと訊いた。
小深田は、その程度ならば問題無いと穏やかに笑った。
(いきなり僕が会いに行ったら、絶対変な混乱が起こるやろな……せやったら事前に、今回の一連の事情を先に説明して貰っといた方が良さそうやわ)
会うことは、まだ叶えるべきではない。
だが源蔵の生存の一報ぐらいは、早めに伝えておいてやっても良いだろう。
その方が美月としても、心構えを作る為の時間的な余裕が出来るというものだ。
「では、こちらの電話番号をお伝えしておきましょうか? 会うことはまだ時期尚早でも、お声ぐらいは聞かせて差し上げても宜しいんじゃないかと」
小深田の声には、どこか優しい響きが籠っている。この人物は心から、源蔵の家族への想いを汲み取ってくれているのだろう。
その気遣いには、本当に頭が下がる思いだった。
「……では、お願い出来ますか」
「ええ、喜んで」
ここで、通話は切れた。
まだ今は、櫛原厳斗としての身分を失う訳にはいかない。だが美月の声を聞くだけならば、何の咎も無いだろう。
果たして彼女は、源蔵の生存を知って怒るだろうか。
どうして今まで姿を見せなかったのかと、責め立ててくるだろうか。
「はは……ちょっと自意識過剰過ぎるか」
つい、苦笑が漏れてしまう。
もしかすると美月はとっくの昔に、良いオトコを捕まえて新たな幸せを手に入れているのかも知れない。
そんなところに今更自分が舞い戻ったところで、却って迷惑するだけではないのだろうか。
(ま……それならそれで、めでたい話やから別にエエか)
寧ろ、そうあって欲しいとも思う。
それもこれも、美月と言葉を交わせれば、全てがはっきりするだろう。
◆ ◇ ◆
その夜遅く。
そろそろベッドに潜り込もうかという頃合いになって、源蔵のスマートフォンから着信音が流れた。
ディスプレイに表示されている番号に、見覚えがある。
美月だった。
「……はい」
源蔵は全身が緊張に凝り固まりながらも、応答に出た。
「……お父さん?」
懐かしい声に、思わず目頭が熱くなりそうになった。
そしてスマートフォンの向こうから聞こえてくる声音も、どこか涙に濡れている響きがあった。
「お父さん、なんだよね?」
「うん、僕やで」
そこからしばらく、沈黙が続いた。
決して、重苦しい静けさではない。寧ろ、歓喜に近しい心地良さが宿る沈黙だった。