126.ブサメン、肝が冷える
土曜の朝、源蔵が朝食後のコーヒーをすすりながらネット記事を読み漁っていると、スマートフォンが着信音を奏で始めた。
麗羅からだった。
ダイナミックソフトウェアに復帰後、彼女とはラインや電話でのやり取りがしばらく続いていたのだが、ここ最近は都小路家の次期当主就任に向けた様々な学びの為に時間が取れなかったらしく、連絡の頻度も随分と落ちていた。
「おはよう、楠灘さん。元気だった?」
のっけから源蔵の本名で呼びかけてきた麗羅。
盗聴される恐れは無いとはいえ、流石に不用心過ぎではないかと源蔵は一瞬渋面を浮かべてしまった。
実は麗羅、時房翁から源蔵の過去について、ある程度の情報を聞き出していたらしい。
源蔵としても一応はFBI極東担当と相談の上、都小路時房とその孫娘に対してだけは過去の経緯を説明することで合意した。
何を措いても、相手は国内屈指の財力と政治力を持つ巨大財閥の当主と、次期当主だ。櫛原という偽りの立場で接し続けるのはいずれ不可能になるだろうと踏んだ上での判断だった。
「御無沙汰しております、お嬢様……あのぅ、楠灘呼びはくれぐれも、他所では控えて頂きたく……」
「だぁいじょうぶだってぇ。それぐらい、分かってるわよ」
回線越しに上機嫌で笑う麗羅だが、源蔵の不安は尽きることが無かった。
「あ、そうそう……こないだね、リロードってお店、ちょっと覗いてきたわよ」
その思わぬひと言に、源蔵は思わず両目を見開いてしまった。
過日麗羅が、白富士インテリジェンスに対する調査に着手する、などといい出した時にも驚きを禁じ得なかった源蔵だが、今度はかつて彼がオーナーを務めていたカフェにも注目し始めたということか。
「イイお店じゃない。さっすが楠灘さんが復活を手掛けただけのことはあるわね」
「あ、いや、お褒めに頂きまして恐縮です……」
源蔵は何ともいえぬ表情で剃り上げた頭を軽く叩いた。
美月も、そして操も、源蔵は命を落としたと信じている筈だ。そのふたりが今、どんな思いで今を生きているのかと思うと、流石に胸が苦しくなる思いだった。
特に美月には本当に申し訳ない気持ちばかりが募ってくる。彼女に50億を超える資産と超高級タワマンを遺したとはいえ、その人生を最後までサポートしてやることが出来なくなった。
実の母親からの攻撃に対してはFBIが密かに動いてくれているから心配することもないのだろうが、料理人としてひとり立ちしようとしている美月を支えてやれないのは、源蔵にとっても忸怩たる思いがある。
しかし麗羅には当然、悪気は無いのだろう。
彼女はただ単純に、源蔵の過去の足跡を覗いてみたいというちょっとした好奇心からリロードを訪れただけに過ぎないと思われる。
それが分かっているだけに、源蔵としても差し障りの無い対応に終始する他は無かった。
「わたしが顔を出した時はね、丁度週末限定のボードゲームカフェが開催されててね……で、色々遊んでたらあんまりにも面白かったから、ついつい長居しちゃった」
週末限定でスタッフに入っている筈の詩穂や、JKバリスタデビューを果たしてすっかり店の看板になりつつある冴愛が素晴らしい対応力を見せて、訪れた客を大いにもてなしていたと語った麗羅。
どうやらリロードは今でも、地元のひとびとに愛される憩いの場として機能しているらしい。
源蔵は内心で、ほっと溜息を漏らした。
自分が居なくとも、遺してきたものは今もしっかり受け継がれている。それが分かっただけでも、今は十分だろう。
ところが――。
「でも、あそこの美人マスターさん……えっと、神崎さん、だっけ? わたしが行った時は、お店に居なかったわね。美月さんってカワイイ子が厨房で頑張ってたのは見えたんだけど」
麗羅の訝しむ声に、源蔵はふと考え込んでしまった。
ヨリを戻したバリスタ講師のカレシと、どこかへ出かけていたのだろうか。しかし操は、己のプライベートよりもリロードの経営を優先するタイプだった様に記憶している。
この時、源蔵は何とは無しに違和感を覚えた。
(いや、でも……人間の考え方なんて、何かの切っ掛けで変わることもあるやろうし……)
操がリロード不在だったとしても、それは決してあり得ない話ではない。
きっと彼女には彼女なりの事情があったのだろう。
既に源蔵は、操にとっては過去の人間なのだ。今更自分があれこれ口を挟める立場ではない。
「あの、ところで……今日はどの様な御用件で?」
「あら……用が無かったら電話しちゃ駄目?」
話題を変えようと改めて問いかけた源蔵に対し、麗羅は少し意地悪な声を返してきた。
源蔵が言葉に詰まると、彼女は冗談よと再び笑い声を漏らした。
「えっとね……前にちらっと話したことがあったと思うんだけど、例のプロジェクトがいよいよ動き出すみたいなの。それでまぁ、楠灘さんにも一報だけ入れておいてあげようかなって」
曰く、都小路電機株式会社が企画を進めていたAI調理機器の開発が遂に始まろうとしている、ということらしい。
このAI調理機器は無線経由でのレシピ転送機能を搭載しており、世の主婦層にはその手軽さを売りにして訴えてゆくことになるのだという。
そのレシピ転送用アプリの開発を、幾つかのソフトウェア会社に委託するらしいのだが、それらの候補のうちのひとつにダイナミックソフトウェアが選ばれそうだ、と彼女は静かに囁いた。
「まだ極秘情報だから、他言無用でお願いね」
「えぇ、それは勿論……それに僕がその辺の意思決定に関わることなんて、まずあり得ませんから」
内心で冷や汗を漏らしつつ、無感動を装った源蔵。
都小路電機の通信デバイス部署も開発に手を挙げているらしく、どうやら企画コンペが行われるのは間違い無さそうだとの由。
「で、勿論楠灘さんも参戦してくるわよね?」
「いやいや……それは会社が決めることですから」
源蔵は乾いた笑いを返すしか無かった。
如何に彼が麗羅にとって恩人だなんだといわれても、流石に個人の意思でこれ程の大きなプロジェクトに口出し出来る訳がない。
今の源蔵は飽くまでも櫛原厳斗というDS横浜サテライト配属の一社員に過ぎないのだ。
(まぁ……折山さんの企画力があったら、喰い込んでいく余地はあるかも知れんけど)
だがそれも、上の決定が無ければ何も出来ない話である。
その後源蔵は麗羅と当たり障りの無い会話で適当にお茶を濁してから、何とも肝の冷える思いで通話回線を閉じた。
ちょっとこの日は、色々な情報が一気に飛び込んできてしまった為、頭の中を整理するだけで半日程度は潰れそうな気分だった。