112.ブサメン、刺激を受ける
何ともいえない沈黙が、部屋の中に重く垂れ込めている。
自身の正体を知っている時房翁に対し、源蔵はどう答えるべきか大いに迷っていた。
いつもの源蔵であれば、からりと笑って即座に拒否しただろう。
しかし今回は違った。
都小路家に入る――その言葉の裏には、都小路のトップに立つ気は無いかという打診が含まれている。
源蔵は別段、財産には魅力を感じていない。既に自分は亡くなった両親から譲り受けた資産で、好き放題生きてきた。これ以上、カネで何かをしたいという望みは抱いていない。
しかし都小路のトップに立つということは単純に財産云々だけではない魅力がある。
(この巨大な組織を、己の意思で動かす……)
白富士時代、源蔵は課長としてひとつの集団の頭として仕事を取り仕切り、その面白さに取り憑かれた。
多くの部下や同僚達と、目標に向かって邁進してゆく日々は楽しかった。
しかしダイナミックソフトウェアに所属する櫛原厳斗では、そんなことは出来ない。
櫛原という男は終生、頼りにならぬ凡庸な社員として貫かなければならない。社長や末永課長、或いは美彩といった一部の面々には源蔵の高度なスキルは知られてしまっているが、その程度では彼の立ち位置が一気に跳ね上がるということは無い。
(けど、楠灘源蔵として時房翁に認められたとなると、話は全然変わってくるな)
源蔵はごくりと喉を鳴らした。
大財閥の傘下に在る無数の会社組織を動かすチャンスが、目の前に転がっている。
怖さよりも、挑戦したいという野心の方が遥かに強く芽生え始めていた。
「わしは麗羅を大いに助けている櫛原君も買っているがね……しかしそれ以上に、楠灘君のこれまでの実績に惚れ込んでいるんだよ」
どうやら時房翁は、源蔵が北米での最期を遂げるまでのあらゆる実績を把握しているらしい。
であればカフェ『リロード』のオーナーシェフになった経緯や、杉村総合商事の個人筆頭株主の立場を得た事情、更には白富士で統括管理課を纏め上げていた頃の実績など全て知っているに違いない。
或いは、美月を毒親から守ったことまでも知っているのだろうか。
いずれにせよ目の前の老人は源蔵の数々の成功を知っているからこそ、こうして声をかけてきたのだろう。
「君の技術と知見、そして経験と実績は、今継承権レースに参戦しているわしの子供や孫らとは比べ物にならんよ。ラヴィアンローズがあれ程のV字回復を見せているのは、麗羅の頑張りもあるのだろうが、その大半は君の力のお陰だと認識している」
時房翁は応接テーブルから熱いお茶が注がれた大きな湯飲みを手に取り、穏やかに笑った。
「わしはな、血筋なんてものはどうでも良いと思っとるよ。都小路に必要なのは、傘下に居る大勢にひとびとを路頭に迷わせない力……ただそれだけしか見ておらん。しかし生憎ながら、清彦にしても雅恵さんにしても、それに麗羅や亜梨愛にも、それ程の力と度胸、覚悟は無いと見ておる。正直いって、今の継承権レースもただの茶番に終わるんじゃないかと危惧しておったんじゃ」
だがそこに、源蔵という才能の塊が彗星の如く現れた。
都小路家の将来を不安に感じていた時房翁にとって、この出会いは奇跡の僥倖の様に思えたのだという。
「決して小さくない総合商事の筆頭株主になり、その経営を改善させる知力の持ち主……間違い無く君は、都小路を背負って立つに相応しい男になるじゃろうて」
ここまで絶賛されると、流石にむず痒い気分だった。
時房翁がいう様に、本当に自分にはそこまでの胆力があるのか――自分自身に対する疑念はあるものの、しかし試してみたいという思いが在るのも事実だった。
「そこまで高い評価を頂けているのは、大変有り難い限りでは御座いますが……ただ、申し訳御座いません。今この場で即答という訳には……」
「あぁ、勿論、じっくり考えて貰って結構じゃよ。もっといえば、君が麗羅を勝たせて、その上でわしの話を考えてくれるならば、それが一番波風立たせずに済む方法じゃ。君の力で麗羅が継承権レースを制したとなれば、誰も文句はいわんじゃろう」
そこまで考えていたのか――源蔵は内心で舌を巻く思いだった。
だが、猶予を与えてくれたのは源蔵としても助かった。当分の間は雑念に囚われることなく、麗羅を助けてやりたいと思っていたからだ。
「今は兎に角、麗羅を勝たせてやることに全力を注ぎなさい。わしもその方が助かるでな」
その台詞を最後に、一連の申し入れは一旦お開きとなった。
この後は、源蔵のこれまでの人生について色々と訊かれ、それらにひとつひとつ丁寧に答えるという時間がしばらく続いた。
◆ ◇ ◆
時房翁との個別会談を終えた源蔵は、業務棟内のラヴィアンローズ業務室へと足早に引き返した。
今回打診された内容は、周囲には秘密にしておく必要がある。その為、時房翁との個別会談では、ラヴィアンローズの急激な業績アップについて色々と秘策を訊かれたという体にする腹積もりだった。
ところが、業務室に戻ってきた源蔵は妙な空気感が室内に漂っていることに気付いた。己が時房翁から個別に呼び出されたこととは関係の無い別事象によって、室内に居る面々の表情が硬くなっていると思われる。
「どないか、しはったんですか?」
自席に戻ったところで、侍女の眞子がお茶を出してくれた。その眞子も、何ともいえぬ複雑そうな面持ちを浮かべていた。
眞子は源蔵からの問いかけに対し、麗羅や是枝執事の顔色を伺う様な仕草を見せてから、その可愛らしい面をそっと寄せてきた。
「実は……ついさっきなんですけど、急に晴樹様が訪ねてこられたんです」
「……どちら様ですか?」
全く話が掴めず、源蔵は思わず訊き返した。
すると眞子は御免なさいと頭を掻きながら苦笑を漏らした。
「館林春樹様……麗羅お嬢様の幼馴染みで、元婚約者だった御方です」
ここで漸く源蔵は、この重い空気の正体を理解した。
麗羅を裏切り、亜梨愛のもとへと走った元婚約者が、どういう思惑なのかは分からぬものの、いきなり麗羅の前に再び姿を現したのだという。
そんなことがあれば、麗羅の表情が随分と沈んでいるのも頷けるというものである。
(そらぁ、複雑な気分やろな……)
源蔵は自席パソコンのモニター越しに、ちらりと麗羅の美貌を盗み見た。
折角ラヴィアンローズが継承権レースの中で清彦一家を逆転しようという位置にまで昇り詰めてきたというのに、ここで奇襲を仕掛けるかの如く、かつて最も愛したであろう男が帰ってきた。
麗羅の心に波風が立たない訳がない。
(お嬢様が動けん様になったら、僕があの一家と直接勝負するしかないか)
源蔵は、麗羅は戦える状態ではないと踏んだ。
恐らく彼女は晴樹とヨリを戻すかどうかで悩んでいるのだろう。
そんな精神状態で、組織を動かせるだろうか。
(無理やな)
ここから先は、本腰を入れる必要がある――源蔵は自らに気合を入れるべく、己の頬を軽く張った。
ところがどういう訳か、一瞬だけ麗羅が、何故か救いを求める様な視線を送ってきていた。
彼女が源蔵に何を期待しているのか、この時は源蔵自身、よく分かっていなかった。