蜜の部屋
「おかえりなさい」
いつものようにそう言ってから、あたしは言葉をひとつ、付け足した。
「あなた」
「照れるな」
あなたは頭をてれてれと掻きながら、玄関で靴を脱ぐ。
「じゃ、俺も……。ただいま、『おまえ』」
「『おまえ』はやだな」
あたしは顔でにっこり笑って、口で抗議した。
「ちゃんと『六美』って呼んでほしい」
「む……六美」
「なぁに? あなた」
甘い蜜のような空気がたちまち部屋にたちこめる。
まだあたしたち結婚してないのに、もうそんな気分だ。
新しい人生は既にスタートしていて、ディズニー映画のキャラクターみたいに踊るような動きで、勇気とパワーでどこまででも行けそうな気分。
「今日、帰り道にさ」
白いテーブルで向き合って、紅茶を飲みながらあなたが言う。
「前住んでたアパートも見てきたよ」
「あそこはちょっと住みにくかったよね」
あたしも紅茶を両手で口に運びながら、懐かしいボロアパートを頭に描いた。
「近所にうるさいひと、いっぱいいたもんね。治安悪くて……」
「ここのほうが広くていいよな。何と言っても静かだし」
「みんな元気そうだった?」
「何も変わらないよ。千恵がちょっと大きくなってたぐらい」
「千恵ちゃんか」
まだ小学校低学年だった彼女の姿しかあたしは描けなかった。
「元気に生きてるのね。あんな物騒なアパートで」
しばらく会話が途切れ、二人で紅茶を飲む音だけが部屋に響いた。
「あっ。そうそう」
思い出して、あたしは言った。
「あたし、帰り道でさ、立石くんに会ったよ」
「立石か」
あなたは悪友の顔を頭に描いて懐かしがる表情で、口にする。
「あいつも変わりなかった?」
「うん。あなたに『喪服早く返してくれ』って伝えてくれって」
「喪服なんてそうそう着る機会あるもんじゃないだろ」
あなたは面倒臭そうな笑いを浮かべて、言う。
「いつでもいいじゃん。……ところであの喪服、どこにやったっけ?」
「クリーニングに出してあるけど、取りに行くのはちょっと無理だよね」
「うーん……。遠すぎるよな」
「っていうかもう、無理だって」
「あっ。そうだ」
あなたは思い出したように言って、あたしに顔を近づける。
「ただいまのキス、忘れてた」
部屋に湿った快音が響く。ふふ、とあたしは笑い、アハ、とあなたが頭をまた掻く。
外の音が静かだ。何も音がしない。
それであたしは思い出した。
「ミツバチがさ、今朝、しつこく窓を叩いてうるさかったよ」
「ミツバチが?」
あなたは不思議そうに首を傾げる。
「そんなのいるんだ?」
「うん。なんかね、しつこくしつこく、コンコン、コンコンって、ノックするみたいにガラス窓を外から叩くの。小さな音だけど、うるさかった」
「この部屋の空気が蜜みたいに甘いからかな」
アハハ、と二人で笑う。
あなたの冗談だってわかってるけど、本当に部屋に甘い蜜が充満してるみたいで、ちょっと信じそうになった。
この部屋は広い。前のボロアパートの部屋と比べると、大陸みたいだ。家具は白いテーブルと椅子しかないけど、これからどんどん増えて行くんだ。あなたとあたし、生きて行くんだ。
3人一緒なら、何も怖くはない。