分岐点
わからないことがある。
アズール王子が生み出してしまった魔物は、ヘクトル王子とふたりだけの秘密になった。
なのに、なぜ二年経って、それが現れたのか……。
「単純な話だ。他人の魔力を使ってあれを作れるようになるのに、二年かかった」
僕とおなじことを疑問に思ったアイナが問うと、ヘクトル王子は何を隠すでもなく答えた。
食事のときの会話は間が多かったし、求婚も唐突だった。
女性との会話に慣れていないだけなのか?
魔物について語るヘクトル王子の言葉は、とても流暢だった。
「王城には魔力の強い者が多い。
山を越えて操作するイメージを強く持ちすぎたせいか、屋外でしか作れないという弱点もあったが……今日解決したな」
たしかに、そうだ。
黒いドラゴンは、部屋の真ん中に突然現れたんだ。
「全て、あなたのおかげだ」
あまり表情を変えないヘクトル王子だけれど、少し機嫌がよく見えた。
アイナは唇の端を下に曲げて、怒り顔のまま。
「どうして、討伐隊を作ったんですか? 自分の作った魔物を倒させるなんて、矛盾しています」
「討伐隊を作るために魔物を作った」
まったく、この人の考えていることはさっぱりわからない。
「自分の領土には兵団を作ったが、王都までは手が出せない。
王に動いてもらうには敵が必要だった」
「なぜ、そんなことを……」
「そうか。肝心なことを話していなかった」
最初にそれを話してほしかったと、僕は思う。
もう相当に、眠いのだ。
「この国は弱い。魔法の技術は他国に売れるほどのものだが……それだけだ。
他国が本気で攻めにきたら、抵抗する力がない。
代々の国王は、安全な内陸にいるから見えていなかった。
海の向こうに、どれだけの脅威があるか。
日々、海の向こうの国々の進化を見ていると……私は怖いんだ。
将来、王としてこの国を守れるのかと」
そう言って、ヘクトル王子は何杯めかの珈琲を飲み干した。
十二歳からひとりで、ここを守ってきた。
そう考えると、同情してしまいそうになるけれど……。
「でも、魔物のせいで亡くなった人もいます」
「そうだな」
アイナの言葉を、否定はしない。でも。
「もっと多くの血が流れるよりはましだ。
いまだけでなく、未来のことを考えるのも、上に立つ者の務めだ。
父も、祖父も……怠慢だったのだ」
ヘクトル王子の言っていることはまっとうだ。
この人は、悪人ではないんだ。
だけど、うーん……アイナはどう思うのだろう。
アイナの気持ちがわからない。わからないってことは、きっとアイナ自身もわからないのだろう。
生きていると、選択肢がいろいろある。
あのとき、あっちの道を行けばよかったなとか。
このことを、言えばよかったなとか。
まあ、猫だから、行ける道も言える言葉……というか、鳴き声も限られるのだけど。
王都を出た、雨の日の夜。
隊長が何かを言いかけてやめたことを思い出した。
あのとき、言おうとして言わなかったこと。
それをアイナが聞いていたら。
そしていま、ヘクトル王子が言おうとしていることを、言わなかったとしたら。
アイナの行動は、きっと変わっていたんだろうね。
「ロシュには、気の毒なことをしたが」
さっきの話では、隊長はもともと、ヘクトル王子のもとで働いていたという。
商人の息子だったけれど、お金の勘定よりも剣のほうが得意だったとか。
「何があったんですか」
アイナの問いに、ヘクトル王子は答えないほうがよかったのだ。
「そうか、聞いていないのか。ロシュには妻と子供がいた」
それは、初耳だ。
「討伐隊を立ち上げて、落ち着いた頃にロシュは家族を王都に呼んだ……あれは、事故……」
「事故……?」
ヘクトル王子は、少し言葉につまった。
「いや、それは言い訳だな。街道に撒いておいた魔物が馬を驚かせて、馬車が横転した。
子供は無事だったが……夫人は亡くなっ……」
「もう結構です」
すべて言い終える前に、アイナはぴしゃりと遮った。
ずっと張り詰めていたものが、ゆっくりねじれて、ギリギリのところで留まっていた。
それが、ちぎれてしまうのに、充分な情報だった。
「もう、あなたと話す必要はない」
アイナは立ち上がったけれど、少しふらついていた。
ヘクトル王子は、アイナの顔を見た。
「そうだろうな」
「失礼します」
部屋を出ようとするアイナに、ヘクトル王子は問いかける。
「今から、敵同士なのか」
「ずっと前から、敵でした」
アイナは振り返らずに、扉に手をかけた。
「だったら、行かせるわけにはいかない」
「どうしてです? 味方でもここに留めて、魔力を使うんでしょう」
「そんなつもりで、求婚したのではない」
見張りはいらないと言ってあったので、廊下には兵の姿がなかった。
外は、どっちだ?
ヘクトル王子の部屋を出て、足早に進むアイナの後ろで、声が聞こえた。
「女を捕らえろ!」
魔法を使わないだけ、紳士なのか。
鬼ごっこかい?
僕は得意だけれど、アイナはどうだろう……。
いつもの庭から、ヘクトル王子の部屋まではだいぶ遠かった。
どういうふうに廊下を歩いてきたのか、さっぱり覚えていない。
アイナも同じだったようで、大きな扉を押して出た先は、入ってきたのとは別の場所だった。
大きな上着は歩きづらそうだ。
半ば駆け足で取りついた扉を開けた途端、ふたり組の兵士に見つかってしまう。
「誰だ!」
そう叫んだので、この兵士はアイナのことを知らされていないのかもしれない。
でも、足止めされるわけにはいかなかった。
外は雨が降っている。
雨に濡れながら、兵士が向かってくるほうに、アイナも歩を進めた。
ミディと一緒に雨の夜を走った、あの感覚。
アイナは上手に、雨の中に溶けた。
「消えたぞ」
「魔法か!」
ふたりの兵士が焦っているのを見ると、魔法は成功したようだ。
とはいえ、急がなくちゃならない。
さっきヘクトル王子に魔力を使われたせいで、アイナは本調子ではないのだ。
屋敷の外に出るにはどこへ向かえばいいのか……。
アイナは走りながらあたりを見回すけれど、木々が生い茂って遠くまで見えない。
いっそ、木に登って上から見たらいいのでは?
……なんて考えていたら、アイナは塀をよじ登り始めた。
真下に、街が見える。
この屋敷は高台に建っている。
飛び降りれば、そのまま街に着くだろう。
けれど、さすがの僕もちゅうちょしてしまう高さだ。
ミディと、二階から飛んだのとはわけが違う。
「何をしている、塀の上だ。そう、そちら側」
後方で、ヘクトル王子の声がした。
その声に従って、兵士が草を踏む音。ヘクトル王子には、アイナが見えている。
ヘクトル王子は、自分では動かずに少し遠くからアイナを見ていた。
兵士は、槍を手に近づいてくる。
「まっすぐだ」
雨で視界がにじんで、ヘクトル王子の表情は見えなかった。
そして、雨以外何も見えなくなる。
アイナは、雨に隠れたまま、飛び降りたのだ。




