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声の神議り   作者: 一色もと葉
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六:声を創りたい研究者

(一)

 

 ピーンと、音を消すこともできるのに、サワヒラ医師はメールの到着音をオンにしています。だからと言ってその音にすぐに反応出来るわけではありません。なぜならある研究に没頭しているからです。

 サワヒラススムは医学部を卒業して今年でちょうど十五年になります。ある大学の形成外科に入局したのですが、その後、音声外科へと進んで、今、イギリスのとある大学に研究のために留学しているのです。どこからともなく忍び寄る秋風が少しずつサマータイムを狭めてきていますが、今朝もまだ日が昇り切らないうちにベッドから起き上がり、朝食をビスケット二切れと紅茶で済ますと、自転車にまたがって、研究室にまっすぐやって来たのです。

 サワヒラ医師の研究目的は喉頭を作ろうというものです。もちろん、魔法ではないのですぐに出来上がるものではありません。だからと言ってあきらめていたら進歩はありません。いつか出来上がるんだ、いや、必ず完成させてみせるという意気込みが大切なのだと今は言い聞かせているのです。けれども喉頭を作りたいんですと、日本に居る時に皆の前で言うと、皆は困ったような憐れむような顔をしたのです。そして、誰かが、その喉頭というのは声が出るのかい?と聞いてきて、あたり前ですと答えると、確かに失笑のような冷たい言葉が返ってきたのです。しかし、確たる反論も出来なかったので、意気込みだけで押し切るしかなかったのです。

 喉頭は言葉を発するために必要な器官です。しかし、もともと喉頭は言葉を発するために発達したのではありません。陸上に挙がって、鰓呼吸から肺呼吸に代わった生物が、口という一方通行の通路から、水と空気を分ける必要に応じて出来上がったものなのです。すなわち、口から食べものが入ってきた時には、喉頭が全体として上にあがり、喉頭についている蓋が閉じて、肺に食べ物を行かなくします。喉頭にある声帯はほとんどが開いているのですが、声を出す時と食べ物がきた時には閉まるのです。ヒトは話しながら食事をしますが、ごくんと飲み込む時だけは話せないのはそのためですし、無理に話そうとすると咳き込んでしまいます。その後、筋肉や喉頭を作っている枠組みである軟骨が声を出す部分つまり声帯とともに発達してきて、色々なパーツの軟骨を色々なパーツの筋肉が作用しながら声を出す為に働くようになるのです。軟骨で出来ている喉頭を作ることはそれほど難しいことではないのかもしれません。それは再生医学が発達した昨今では軟骨だけの組織を作ろうと思えば可能になってきているからです。喉頭という枠組みだけを作っても声は出ません。その中心には声帯が必要ですし、声帯には開閉機能を持たせないといけませんし、その機能を得るには、筋肉を働かさなければならないですし、その筋肉を動かすためには神経による刺激が必要だからです。

 サワヒラ医師の研究を失笑したのはそのように理屈は簡単なのですが、それを実際に作り上げることが困難だと皆の常識は考えるからです。

 サワヒラ医師もそのことは知っています。でもそれだったら、テレビもコンピューターもスマートフォンもこの世に存在しないことになります。

 でもそれは機械だろう。失敗してもハイ失敗しましたで済むからなと、今度もまた苦笑が聞こえてきます。それでも、しり込みしていたら前には進みませんし、サワヒラ医師は現実の景色にとどまっているよりも、未知の世界へどうしても足を踏み込んでみたいという興味で一杯なのです。

 かと言って研究には必ず費用がかかります。ある程度見込みのある研究には国も予算を組み込んでくれますが、そうではない研究にハイどうぞと税金をつぎ込んではくれません。思い付きにすべて研究費があてられたら、この国は破産するからです。

 サワヒラ医師の研究もだから日本では受け入れてもらえなかったのです。それにサワヒラ医師も初めから喉頭を作る研究をしていたわけではありません。 

母音発語が中心の日本語の特徴から、超エコーという妊婦健診の時に胎児の様子を診る超音波検査機の進歩型の機械を使って、それぞれの発声について出来るだけ、声帯の動きをつかさどる筋肉の動きを観察していったのです。さらに、ボランティアを募って声帯筋の神経電動を測定し、ファイバースコープを用いて声帯の動きにリンクさせていったのです。その地道な作業はそれほど急速には進みません。ボランティアにも限りがあります。けれどもその難題を月日が解決してくれた時には、ある単純な法則があることが分かったのです。

 サワヒラ医師はデータの解析とそれに基づく法則を論文にして公表するとともに喉頭学の国際学会でも発表したのです。丁度それはイギリスの北部の都市だったので、長旅とつたない英語ではあったのですが、熱弁をふるったつもりです。意気込みは別にして、その内容はある研究者の目に留まり、共同研究の申し出があり、イギリスに留学することが出来たのです。ある意味それはとても幸運だったのですが、ある先輩は、必然の先に偶然があると言ってくれたので、今までの苦笑がみな吹き飛んで行ってしまうような気持になれたのです。

 留学するということより、研究が続けられるという喜びの方が強かったので、何も考えないで現地に着いたのですが、もちろん、英語が初めのころは話せなかったのです。中学高校大学と英語の授業は受けていたし、医師になってからも英語の教科書や論文をよく読んでいたのですが、だからと言って、イギリスで生まれ育った人たちと同じように話せるかというと全くできなかったのです。特にとても早口で話されると、まるで、音楽でも聞いているような不思議な気持ちになるだけです。でも学会発表したのではないのですかと、よく聞かれるのですが、その時に研究指導をしてくれた講師の知り合いにカナダ人の英会話教室の先生がいて、付け焼刃で三か月猛特訓してもらったのです。発表原稿は全て丸暗記だったので、学会までにその内容の暗記を最高点に持っていけるようにして、あとは想像できる範囲の質問に模範解答を作ってもらっていたのです。

 学会発表は完ぺきだったのですが、質疑応答はしどろもどろになったのです。予想されるような質問がなかったことと、発表が完ぺきだったので、英語が通じると思われたのか、機関銃のような早口で質問を浴びせられたからです。結局ものの十数秒で英語の実力を見透かされて、サワヒラ医師自身も研究者達ともっと討論したかったのですが、早々と壇上から降りることになったのです。

 今でも英語が流暢に話せたり、聞き洩らすことなくすべての意味を理解できるようになったりしたわけではありません。そのことでずいぶん精神的に追い込まれたこともあったのです。おそらく日常生活だけならそれでも良かったのかもしれませんが、試験管を振っているだけではないのです。人間相手の発声の研究ですので、コミュニケ―ションがうまく取れないと研究が進みません。そのことが大きなストレスとなって行ったのです。

 胃を押さえながら、裕福な留学生活でもなかったのに、日本食屋で高いおにぎりを頬ばった時は、それでも日本でのよりきつかった研究生活の日々の苦労を思い出して、ほっとしたことだけは覚えています。

「ススムの英語力は各段によくなったよ」

「そんなことはないさ。でもお世辞でもうれしいよ」

 サワヒラ医師に研究資金を提供し、共同研究を持ちかけたのは、ロバート・ウェッジウッドという人工知能すなわちAIの研究をしている青年です。医師ではありませんが、音声にも造詣が深く、それらの融合工学を彼は専門としています。サワヒラ医師より十歳も年下なのですが、東洋人は見た目が若いし、ロバートはいつも気さくに話しかけてくるので、パブでお酒を飲んでいると同級生なのかといつも聞かれます。とても前向きで、研究者としても優秀なのですが、もともと今までの生まれ育った環境がそうさせているのでしょうが、人付き合いがよく、色々な人たちと交流があるのか、大学からの研究供与だけではなく、どこからともなく資金を調達してきているようです。

 ロバートには何か目標があるのでしょうし、そのためにサワヒラ医師が必要なのでしょう。そのことはわかるのです。しかし、その具体的なことまではまだ話してはくれません。もちろん、だからといってサワヒラ医師を悪用しているようにも思えませんし、慣れない生活を気遣ってくれたり、却ってプライベートのことまでも率先して話してくれたりしてくれます。しかし、ふとサワヒラ医師が行なおうとしていることと隔たりがあるように思える時があるのです。

「喉頭の研究は進んでいるのかい?」

 ロバートは可能な限りサワヒラ医師の研究室に自ら顔を出してくれます。

「なかなかうまくいかない。それぞれのパーツを作ることは何とかできそうだけど、それを臓器として機能させるのは難しいから」

 ロバートはサワヒラ医師が喉頭作成のために再生研究所に出入りしていることにはあまり良い顔をしません。明らか様にダメだとは決して言わないのですが、顔色からわかります。その理由は定かではありません。それにそう甘くないことをロバートは知っているのでしょう。なぜなら、人間のあらゆるパーツを再生医学で創り上げようと、それは各国が競い合っているからです。それでも一度、サワヒラ医師が、複合臓器を幹細胞で作るために、再生幹細胞を培養し、複数の細胞が複雑に重なり合っている臓器に作り上げる再生子宮装置の開発を行いたいと提案した時には、ロバートは今までにないほどの冷淡な表情で、イギリス政府は一ペンスもその研究にお金は出せないよと、つぶやいたのです。   

 サワヒラ医師は自分だけが特別なことを発見したから研究を続けられているのだと留学当時は思ったのですが、さすがにこの時は、そうだな、もし俺が天才なら共同研究だとしても日本政府がかなりの資金を援助して逆にロバートを招聘したかもしれないし、だいたい日本に残って研究を続けるようにと、諭されたに違いないと思ったのです。

「喉頭自身を作り上げることよりも、機能をもっと徹底的に調べたらどうだろう」

 ロバートの提案は至極まっとうなものです。先人たちがそれでも声帯について今までなんの研究もしてこなかったわけではありません。しかし、昔は何十日もかかった船旅でも今では飛行機に乗れば十数時間で日本からイギリスに到着します。人間の身体を調べる方法も、レントゲンから始まり、CTやMRIへと発達します。静止画だった解剖も、解像度が飛躍的に良くなった超エコーを用いれば機能解剖という新しい学問を成立させます。つまり、科学全体の発展は医学を底上げしていったのです。

 そんなことを改めて言われなくてもと、皆は言いますが、だからと言ってサワヒラ医師の日本での研究をすべての人が成し遂げ、その法則を見いだせたかというとわかりません。それに、サワヒラ医師の研究ですべての音と声帯の動きと筋肉の動きがわかったわけではありません。しかしその研究法は独創的ですし、法則を発表しただけでそれをどのように臨床に応用して言ったらよいのかとか、その法則は本当に正しいのだろうかという検証にはまだまだ時間がかかるようなのです。ロバートはAIを用いればより迅速に解析できるのではないかと思っているようですし、そのことで何かが得られると考えているのでしょう。さらに、声帯だけでなく、舌や軟口蓋などの口腔内圧の変化をよく用いる欧米の言語や発声法でも応用できないかと期待しているようだと何となく伝わってきます。

 サワヒラ医師の喉頭をすべて作り上げたいという情熱は消えていません。しかし、ロバートがサワヒラ医師に研究の一端を任せてくれているように、サワヒラ医師も誰かに任せることも大切ではないかと思い直しているのも事実です。

 二兎を追う者は一兎をも得ずと、日本のことわざがあります。英語でどう言うのかわかりませんが、それよりもロバートは、ローマは一日してならずと、言ってくるに違いありません。それでも、サワヒラ医師はやはり喉頭再生の研究も捨てられないでいるのです。その苛立ちは日に日に強くなっていくのです。それでも、研究室で声帯機能のデータをとっていると新しい知見が得られることもあります。そんな時は喉頭再生のことなど吹っ飛んでしまう自分もいます。人間とは勝手なものです。

 グー、ゴロゴロ、と今度はメールの着信音ではないようです。スイッチを付けた覚えはありませんが、身体の奥底から勝手に発せられたようです。もはや、暗闇にコンピューターのデスプレイだけが輝いています。そこから発せられる音はやはり不自然です。同じような音を出そうと思ってもなかなか物まねができません。もちろん奥底から出てくる音も正確には物まねが出来ません。ただ、決して心地よくはないはずなのに、恥ずかしさだけで却って心地よい時もあるのです。そしてなによりも、身体が自然に動きます。だから、昼ご飯を抜いたことを忘れたサワヒラ医師は慌てて夕食のために食堂に向かったのです。


(二)


 ピーンと、今日もまたメールの着信音が鳴ります。実はここ数日研究に煮詰まっていて、イライラしていたのです。本来なら、迷惑な雑音だと音を消しても良いはずなのですが、サワヒラ医師はあいかわらずそのままにしています。

 いつもなら甲高い機械音だと思うだけでその抑揚のない平坦な音は、鼓膜を簡単に通り過ぎていくのですが、今日に限ってどことなく音尻が挙がっていくような、何か意志を持った音のように浸み込んでくるように聞こえてきたので、珍しく相手が誰なのか確認しようとマウスに自然と手が伸びていたのです。そして誰なのかを確認すると、意志ではなく癒しの文字としてすーっと響いて拡がっていったのです。

「元気?」

 とても簡単な日本語のメールです。相手はわかっています。だから、すぐにネット通話に切り替えます。

「暇なのかい?」

 いきなり失礼な言い方です。けれども嫌な気は少しもしません。

「そんなことはないさ、でも研究がなかなかうまくいかないんだ」

「ずいぶん弱気だな。でもだから研究なんだろう。誰もやっていないことにチャレンジ出来るなんて、うらやましいよ」

 鋭い所をついてきます。

「お前だってそうだろう」

「臨床はそうはいかないさ。否、基礎研究がそうじゃないって言っているわけじゃないんだけど、よかれと思って手術をして、それが良い結果であったとしても人体実験は出来ないからな」

 久しぶりのやり取りは心地の良いものです。

「術前によく患者さんには説明して同意書をとっているんだろう」

「そうだけどね。アイデアが手術中にひらめくときもあるから」

 今話しているのはヤマブ医師です。サワヒラ医師とは幼馴染です。卒業大学は異なるのですが、奇しくも同じ年に同じ大学の医学部形成外科に入局したのです。しばらくの間はお互い形成外科医として切磋琢磨の毎日だったのですが、その後サワヒラ医師は音声外科を、ヤマブ医師は手外科を専門にすることになったのです。

「でもどうしたんだい?」

「そっちで学会があるんだ」

「そっちって?」

「だから、イギリスでだよ」

 ヤマブ医師はある場所を言います。

「本当か?」

「ああ、演題を応募したら通ったんだ」

「忙しくないのか?」

「忙しいさ」

 研究ではないのですが彼が日々の診察治療でどれだけ頑張っているのかをサワヒラ医師は知っています。だから、彼を尊敬しているし、鼓舞されるのです。きっと彼に聞くとサワヒラ医師と同じことを言うのでしょうが、それだからこそ、分野こそ違えお互い忙しい合間を縫って今でも連絡を取り合っているのです。そんな彼がわざわざ海外で自分のこれまで行ってきた手術の成績を発表しようとしているのです。それは彼が自分自身に自信を持ち始めたからだとサワヒラ医師は思うのですが、わざわざこの国を選んでくれたことに何かしらの思いを感じます。

「でも、英語で発表だから、少し後悔してるんだ」

「オーラルなのか」

 オーラルとは壇上に立ち、スライドを使って大勢の前で口演発表することです。

「ポスターさ」

「じゃあまだましじゃないか?」

 ポスターとは、あらかじめ作成した内容をポスターにまとめて学会会場に貼り付けその前にやってきた少人数の人達のために、数分間発表内容を話すというものです。

「それでもね」

 サワヒラ医師は壇上に上がって話したのです。学会発表の会場には百人は優に入ることが出来ます。オーラルなので照明をすこし落としていますが、それでも会場から多くの視線を感じます。その時は十分くらいの発表時間だったのですが、口演中はとてつもなく長く感じられたのをいまでも覚えています。

「それで?」

「いじわるだな」

 ヤマブ医師は何かアドバイスはないかと聞きたかったに違いありません。けれども、ヤマブ医師の発表は臨床研究です。つまり、患者さんに対して実際行った手術について話すのです。だから、きっと、少人数であっても、とても深く鋭い質問が浴びせられるに違いありません。しかし、そのことについてサワヒラ医師が何かを言える立場ではありません。そのことはきっとヤマブ医師は十分わかっているはずです。

「数分の発表なんだから、英語でも発表原稿は丸暗記できるだろう。内容は手術の事なんだから、それがとても画期的で意義あるものであれば、少々英語でつまずいても構わないと思うよ。それにポスターの前なんだし、内容は見ればわかるから。もし、質問があっても、わからなければわからないと言えばいいんだ。質問時間には制限があるはずだけど、出来るだけ丁寧に答えようとすることが大切じゃないかなと思うし、気になるんだったらあとでメールするからって、アドレスを聞けばいいんだよ。だから、その英語のフレーズだけは覚えておくと便利かもしれないな」

 サワヒラ医師は研究成果を今では月一回のミーティングで報告しています。もちろんすべて英語です。はじめは聞きとりにくかったり、説明しにくかったりしたのですが、丁寧に一生懸命話している姿を研究者は誰一人バカにはしなかったのです。それよりも、研究自体を何とか理解しようとその興味の方が大きいのかもしれません。

「おれに学会会場にきてくれないかって、言うんじゃないだろうな」

 サワヒラ医師は、本当は行ってあげようかって言ってあげたかったのですが、サワヒラ医師にも仕事があります。それにその場に行くのはやはり場違いな気がしたのです。

「わかっているよ。でも、形成外科医だから」

 懐かしい響きです。今や外科医として患者さんに接していないサワヒラ医師にとって少し胸の痛くなる言葉です。

「いや、実は、学会発表の後に一週間ほど病院見学できるようになったんだ。はじめはとんぼ返りだとあきらめていたし、やっぱり患者さんのことが気になっていたんだけど、代わりのひともいるからって、腹をくくることにしたんだ」

 ヤマブ医師はたぶん自分の代わりなどいないだろうと思っているはずです。

「それで、ついでにその後も休みをもらって。だから、久しぶりに会わないかって思ったんだ。お前と会える時間も二~三日はある。それにせっかくここまで来たんだ」

「よく病院がゆるしてくれたな」

 サワヒラ医師はびっくりします。ヤマブ医師は二週間以上も病院を休むことになるからです。もし、この話をロバートにしたら、別に驚かないでしょうが、日本の医師としての感覚からすればなかなか考えられないことなのです。

「まあ、学会発表も、この件も大学からの後押しがあったんだよ。知っているかどうかわからないけど、俺もそれなりに病院には貢献しているし、こう見えても論文も書いているから」

 もちろんヤマブ医師のことは専門が離れてからも気にしていたのです。

「だめか?」

「考えておくよ」

「そうか。連絡待っているよ」

 大きな荷物を背負いこんだ旅人が、疲労困憊で迷い込んでしまった森の中で、どこまでも透き通る湧水を偶然口にすることが出来たのに、心の奥底まで染み入って清涼感だけをもたらしてくれることが出来たのに、そのすべてを吐き出しってしまっただけではなく、苦みだけが舌先をチリチリさせるそんな後味の悪さを、通話を終えたサワヒラ医師は感じていたのです。

 ヤマブ医師とはメールが出来ます。電話も出来ます。会って話も出来ます。飲みに行くことさえできます。しかし、それは限られた時間だからなのかもしれません。でも昔はそんなことはなかったはずです。

 

 サワヒラ医師の父はある有名なミュージカル俳優だったのです。もちろん息子だからと言って同じ職業を継げるわけではありません。それでも自分なりに頑張ったのですが、なれなかったというのが現実です。声は天性のものだからです。だからサワヒラ医師はバイオリンで音楽に関わろうと思ったのですが、それも才能の壁があります。そんな時に息抜きと言ったら格好良すぎるのかもしれないのですが、夢中になって怒られなかったのが勉強だったのです。音楽では次々に壁が出来ていたのに、学問では全く感じなかったのです。それは今思えば父と比較されることはないという安らぎだったのかもしれません。

 そんな父は音楽大学を卒業後イギリスに留学していたのです。自分の進路を模索中の声楽科在学中にたまたま一人でイギリスへ旅したことがあったからです。その時に観たミュージカルに感化されて父は演劇界に入ろうと思ったし、将来はミュ―ジカルスターを夢見たのです。もし、ロックコンサートを観に行っていたらバンドを組んでいたかもしれないなと笑って話してくれるのですが、でも曲を作る才能はないからと、なぜか運命は定められた人には寄り道させないのだと思わせるようなところがあったようです。

 父が何かを見つけたように、息子であるサワヒラ医師にもイギリスへの旅行を勧めます。特に英語が得意でもイギリスに対して何がしかの思いが強いわけでもなかったので、サワヒラ医師は乗り気ではなかったのですが、丁度家に遊びに来ていたヤマブ医師が、俺の貧乏な家では考えられないよと、ぽつりと言った言葉が父の耳に届いたので、じゃあ二人で行って来ればと、それなりに演劇界ではもはや地位を確立していて、周りから見れば芸能人として裕福な家だったので、父は二人分の旅費と小遣いまでも、援助することになんらためらいもなかったのかもしれません。

「お前、英語が話せるのか?」

「いいや。でも何とか二人ならなるんじゃないか?」

 若さはまったく臆することをもたらさなかったのかもしれません。今と違ってスマホがない時代です。旅行者英会話ブックと地図と方位磁石を頼りに、海外に出かけたのは、ほんの20年ほど前なのに、今思えば大昔のような時代錯誤を感じざるを得なかったはずです。それでも父は心配なのかホテルではなく現地の友人の家に宿泊できるように手配をしてくれたのです。そのことを聞いてもはや二人は小学校の遠足と同じ気分になっていったのかもしれません。

 直行便ではもちろんなかったのですが、その長旅も心地よい疲れと思えるほど二人はまだ若く元気だったのです。それでも長時間の飛行機の経験がなかった二人には心細さがなかったわけではありません。だから、お互いのことをよく知っているはずなのに機内では色々なことをあきもせず話し合っていたのです。それはある意味新鮮だったし、お互いがもっと近づく機会になったのです。

 いつしか話し疲れて寝てしまっていたのですが、アナウンスとともに機内朝食が運ばれると、もう少しで空港に到着するんだと逆の緊張感が働いて、それからは、目はらんらんとしているのにお互い全く話せないでいたのです。

 世界各国からやって来た人達で空港は混雑しています。入国手続きに二時間以上もかかって、やっと着いたと、プラカードを持って迎えに来てくれていた父の知り合いに会えた時は二人とも心の底からホッとしたのです。

 車に乗り込み空港から市内に行くと、やはり日本とは異なり、写真でしか見たことがなかったヨーロッパの街並みがまるで動く絵葉書のように車窓からでもきれいに映し出されていきます。ふたりともおそらく息つく暇もないほどの高揚感で包まれていに違いなかったのですが、まだ、始まったばかりの旅での二人を見て、迎いに来てくれていた父の知り合いは、優しく二人にこの街について話してくれます。もし、その気遣いがなかったら、やっと解放されたというか、好奇心が沸々と音を立てているのが聞こえるくらい興奮していて、大声で意味不明な言葉を叫んでいたかもしれません。

 そんな二人の旅は始まったばかりなのです。しかし、この旅が二人の間に得も言えぬわだかまりをつくるきっかけになるとは、この時はまだ二人とも全く思っていなかったのです。


(三)


 サワヒラ医師のデスクの上には、留学する前に父とお参りに行った里山にある神社の写真が置かれています。その写真の前で手を合わすと清らかな気分になるからと、父が持たせてくれたのです。その里山で父は生まれ育ったのですが、教育のためにと、その後街中に居を移します。父はまた里山を訪れたいと思っていたようなのですが、次第に声楽の勉強が忙しくなり、その後もミュージカルのスターに登り詰めて行くにつれてなかなか訪れられなかったのです。それでも透明な静けさの中で拡がる素顔の里山の美しさに心を奪われた気持ちを、今後、どれだけミュージカルを演じようが持ち続けていたいと、それは父のぶれない信念となっていたようです。

 サワヒラ医師が生まれた頃には少し余裕ができたのか、父は何度かサワヒラ医師を伴って里山に、そして神社を訪れたようなのですが、はっきりと記憶が残っているのはそれほど多くはありません。その初めての記憶は小学校の五年生の時で、サワヒラ医師が学校でいじめに遭って、泣きながら帰って来た時です。

 日頃忙しくほとんどサワヒラ医師と学校のことなどを語り合うことがなかった父なのですが、この時は、サワヒラ医師のただならぬ様子を感じ取ったのか、早々に仕事の段取りを済ませると、丸一日をサワヒラ医師と過ごしくれたのです。もちろん遊園地に行ったのではありません。母が作ってくれたお弁当を持って里山周辺へハイキングに出かけたのです。父はそれなりに自分の職業に対して生活でも神経質でしたが、だからと言ってサワヒラ医師と遊んだりすることを拒むことはなかったのです。むしろ、積極的ではないにせよ遠巻きに家族を包んでくれる優しさを持っていたのです。

 父はそういう目的で来ているはずなのにサワヒラ医師にそのことを尋ねようとなかなかしてきません。それどころか里山の自然に身体をゆだねながら、大きく深呼吸をしています。普段、気流を自ら発しながら声帯を揺らして声を出しているのを、今度は里山からの気流で声帯を揺らして声を出している様です。

「ねえ、お父さんの声を聴いて皆はどう思っているの?」

 サワヒラ医師はつっかえていたものを吐き出したいと思ったのか、参拝する前に父に話しかけます。

「さあ、どうだろうな」

 父は不思議そうにサワヒラ医師を見つめています。

「笑わないよね」

「ミュージカルだから、おかしなところがあれば笑われる時もあるよ」

「でも、歌声を聞いては笑わないよね」

「そうだな」

「お客さんは感動してくれる?」

「わからない。でもね、父さんは歌いながら色々な役を演じているんだけど、そのことを楽しむためにお客さんは来てくれていると信じたいね」

「そうだよね。お父さんのミュージカルは最高だって。なかなかチケットが手に入らないって聞いたよ」

「そうかい。それは嬉しいな」

「なのにあいつら」

 サワヒラ医師は少し声が高くなって震えています。

「父さんの物まねをする芸人がいて、今テレビによく出ているみたいなんだけど、それを僕の目の前で面白がってやってきたんだ」

 それまで穏やかだった父は、そうかと、少し頬を引き締めています。

「嫌だったんだ」

「きっとわざと面白おかしくやっているんだと思うんだけど、お父さんをバカにしてるって思ったんで、やめろっと言ったら、もっと大げさにやってきて、それでかっとなってなぐろうしたら、皆に羽交い締めにされて、それで逆に投げられて。悔しくて悔しくて、それでも向かって行ったんだけど・・・」

 サワヒラ医師はこの頃はまだ子供です。父に向って言っているはずなのにそれだけでもう瞳は涙で一杯だったのです。

「すまなかったな」

 父はサワヒラ医師の涙を優しく拭ってくれます。そして、落ちついたころ合いで神社に向かいます。二人で頭を下げてから鳥居をくぐり、手口を清め、社の前に立つと、父はサワヒラ医師に優しい言葉で謝ります。

「父さんが悪いわけじゃないよ」

「じゃあ、物まねをしているクラスの子が悪いのかい?」

「そうじゃない」

「じゃあ、その物まね芸人が悪いのかい?」

 サワヒラ医師はすぐに答えられません。それは誰も悪くはないと思っていたからです。だからかえって素直になれます。

「父さんはまねされていることを知っていたの?」

「ああ」

「嫌じゃなかった?」

「そうだね。少しは。でもね、父さんがやっているミュージカルって海外から入ってきたものだからまだまだ日本では広まっていないからね。だから、父さんのまねをしてくれることでミュージカルに興味を持ってくれるようになったらすごくうれしいよ」

 父は緩めた頬を戻しながら話しを続けます。

「でもね、お父さんの声はそう簡単にまねできないと思っているんだ。その芸人さんもそのことはわかっていると思うよ。だからわざと大げさにしておもしろおかしくしているのかもしれないね。それに、ひよっとしたら何度も劇場に足を運んでくれて、父さんに何かを感じてくれたとしたら、嬉しい気持ちもあるからね」

 父はそう言うと神社に向かってしばらく手をあわせていたのです。何を神様に願っていたのか、それとも神様に話していたのかサワヒラ医師にはわかりません。

サワヒラ医師は父と一緒に手を合わせたあとに父を見上げます。父は何かを決意したように顔をこわばらせていたのですが、サワヒラ医師と目が合うと、急に穏やかな顔になったのです。だからかどうかわからないのですが、サワヒラ医師は父にこう言ったのです。

「父さんのミュージカルを観に行きたい!」


 それからなん度父とこの神社を訪れたたのかは定かではありませんが、中高一貫の私立の学校に進学したサワヒラ医師は、医者を目指したいとこの神社にに参拝した時に父に告げたのです。神様の前で話すと父はとても喜んでくれて、その後に、初めて自分のミュージカルに招待してくれたのです。大人向きだったので、物語のすべてを理解することは出来なかったのですが、途切れることがない一定のリズムと限りなく透き通った父の歌声は、最初子守唄のように安らぎを与えてくれたのです。しかし、鼓膜ではなく直接心根に刻み込もうとする音色は、息子としての窮屈な遺伝子たちを振動させ、それでも何とか導き入れてくれる空間を必死で作ろうとしてきます。

 サワヒラ医師はその時父の偉大さを改めて感じたのです。そして、その父の声帯を受け継ぐことが出来なかった自分を後悔し、そうしなかったことに安堵したのです。

 それからはおこづかいを貯めて父には黙ってミュージカルをこっそり見に行くようになったのです。はじめのころはよくわからなかった内容も、その原作をよく読んでいくと、様々な感情がその文章から浮き上がってきて、大人への成長とともに、その意味を理解するようになります。そしてミュージカルを観に行く回数を重ねていくにしたがって、父の歌声が歌詞の内容以上に色々な感情を表わしていることがわかってきたのです。

 声とは不思議です。そういう思いは少しずつサワヒラ医師に蓄積されていきます。だからサワヒラ医師は音声外科に進もうと思ったのかもしれません。そうすることが少なくとも父への恩返しだとも思ったのかもしれません。実際、形成外科の初期研修を受け、音声外科へ進もうと決意し、その臨床を終えて大学院に進学し、研究について模索していた時に父のことを強く意識します。だから父に父の声を記憶させてほしいと頼みます。音声としてはCDなど多くの資料が録音され残っているのですが、声帯の動きやそれに合わせた喉頭や筋肉の動きはサワヒラ医師でしか検査できなかったのです。

 父は無理をしてでも息子の役に立とうと協力してくれます。今思えばそのことで父の喉頭に要らぬ刺激が加わっていたのかもしれませんが、きっとそのことで謝まろうとしても、父はそんなやわな声帯ではないと、プロとはそういうものではないんだ、いずれおまえにもわかる日が来ると、一蹴したに違いありません。そして父は医師となった息子との時間をとても喜んでくれていたのです。

 父への検査がきっかけで始まったサワヒラ医師の研究であったのですが、父の元から離れて二年ほど経ち、大学の研究室に閉じこもっていた時に、父から喉頭ガンという病状を告げられます。父ならいつでも協力してくれると思っていたので父の検査を中断していたのですが、なぜ定期的に父の検査を続けなかったんだだろうと後悔します。そして、人一倍声の調子に敏感な父がどうして相談してくれなかったんだろうと、その不幸を怨むしかなかったのです。

 もはや家族を養わなければならない足枷のない父はミュ―ジカルの担い手として人生を全うする道も選択できたはずです。父にはどんなことがあっても長生きしてもらいたいのですが、もしそういう選択をしたならどんなサポートも惜しまないと覚悟はできていたのです。しかし、父のガンが放射線治療をおこなっても再発した時は、声を失ってまでも生き続けることを父は自ら選択したのです。その決断は決して迷いのあるものには思えなかったのですが、父の決意にどんな意味があったのか、すぐには伝えてはくれなかったのです。

 そんな父がサワヒラ医師にもう一度検査を頼んできます。放射線治療を終えて明らかに硬くなった声帯がそれでも懸命に震えています。

「もう検査できないよ」

 サワヒラ医師の目は涙で一杯です。ファイバースコープを握る手も震えます。

「何言っているんですか、先生!」

 父こそ涙声なのです。しかし、毅然としたその声帯はサワヒラ医師に何かを伝えようと必死で動こうとしています。

 動きにくくなった声帯とその声帯を何とか動かそうとする筋肉は余計に反応します。その動きはそれまでのサワヒラ医師の声帯への動きに新しい概念を注入していきます。声帯を動かす単純な法則、目の前に立ちはだかる扉はとてつもなく大きくとてつもなく厚くとてつもなく重いと思っていたのに、ちょっとした隙間から一粒の光がこぼれ落ちてきたような輝きを覚えたのです。

 父の手術は無事終わり、その後併用した薬物療法で一時体調を崩したのですが、転移はなく、再発については経過を観なければならないのですが、ほぼその可能性も低いと太鼓判を執刀医から告げられたのです。

「お父さんのようなお仕事の方は、色々なご事情や仕事の面から、治療が手遅れになることが多いのですが、決断が早かったので、治療がスムーズに行えたのかもしれません」

 サワヒラ医師はありがとうございますと頭を下げながら、それでももはや無くなった声帯はもとには戻らないのだと、強く思ったのです。それはサワヒラ医師の十字架として背負い続けなければならないことになるのですが、それでも父はあのステージで大声で観客の前で劇場の隅々までその感情を自由に操りながら歌っていたミュージカルスターよりもより大きくなってサワヒラ医師を包んでくれているように思えたのです。

 父は日本を去るサワヒラ医師を里山に誘います。日本の原風景を心に刻んでほしいと願っています。海外には海外の感情があるように、日本には日本の感情があり、その感情が声になります。そのことを父はサワヒラ医師に伝えようとします。

「ススム。父さんは弱い人間だ。死ぬことがとても怖かったんだ。だから、あれだけ愛して、あれだけ色々な人から育ててもらったのに、父さんは手術を選択したんだよ。父さんは弱虫で恩知らずで自己中心的な男なんだ。もう話せない父さんを誰も責めないだろう。そういう姑息ささえも持っていたんだ。でもね。死なないということは生きているということなんだ。生きているということは生きている自分がわかるということなんだ。そして歌えなくなったことがどれほどつらいことか、これから死ぬまで悩みながらそれでも付き合って行かなければならないことを意味するんだよ。父さんは生きている。生まれ育ったこの国で日々の生活を営んでいる。もし、ガンが再発しなければ、ガンにかかったことなどすっかり忘れてしまうに違いない。けれど歌えなくなったということだけは忘れることなどできないんだ。父さんは普通に戻りたい。そのことはとても単純で大切なことだけど、とても難しことなんだ。ススムは立派な医者になったんだ。でもそのことだけは忘れてほしくないんだよ」

 里山の神社は今日も静かです。神様からの声は聞こえません。


(四)


 サワヒラ医師は今日も同じ研究課題に取り組んでいます。もう一か月以上も経っていますが、其れらしき結果は出なかったのです。実験の結果について研究グループが集まって討議するのですが、それぞれの研究者が最前線で研究を行っているので、糸口すらわからないことも多いのです。

 そういう時は気晴らしにパブに行ったり、車で少し遠出したりすることもあるのですが、一人ではなく何人かと出かけるので、却って億劫になることがあり、最近ではこの街を目的を持たずにただ歩き回るようにしています。

 大学があるこの街はそれほど大きくはないのですが、日本と異なります。木造の建物はほとんどありません。かと言ってコンクリートが剥きだしの建物が雑然としている日本の都会の中心部とはことなり、中世に建てられた趣が異質な香りを擦り込んでくるので、居心地が悪いどころかほっこりした気分になります。だからかどうかわかりませんが、似ても似つかないはずなのになぜか里山の風景をサワヒラ医師は思い出すのです。

 ぶらぶらと街中を思案しながら、晴れた日には大学内の芝生の上に寝転がってゆったりと広がる乾いた青空を眺めます。そして、こんなに世界は広いし、ふっと息を掛ければ押し拡がるような軽さを感じるのに、俺はなんてちっぽけなことで悩んでいるんだろうと思う反面、そのちっぽけなことにすらどうして気づくことができないだろうと思うのです。

 サワヒラ医師はゆっくりと目を閉じます。すると父ではなく、ある女性の面影が映りだすのです。そして、その出会いはヤマブ医師と夏休みにこの国を訪れた時に始まります。

 お金はなくタクシーなどには乗れなかったのですが、バスや地下鉄などの交通網が発達していたので、二人は気ままにこの国の中心部を移動することが出来たのです。きっと二度と訪れることはないからと、ヤマブ医師はサワヒラ医師を連れ回します。ヨーロッパなので確かにそうかもしれません。しかし、サワヒラ医師はそれまで家族で何度か海外のリゾート地には行っていたので、そうでもないのです。ただし、そのことをヤマブ医師に言うことはしません。そして、慌ただしく観光地を回るヤマブ医師の強引さに少しうんざりすることもあるのですが、疲れ果てて急に公園で大の字になって眠りこけるヤマブ医師を見ていると、サワヒラ医師はとても楽しい気分になったのです。

 幼い頃からヤマブ医師の周りには常に人が集まっていたのです。クラスの中心にいて、皆となぜか分け隔てなく付き合えるのです。サワヒラ医師が芸能人の息子だということで少し鼻高々になることがあっても、素知らぬ顔で接してくれたのです。きっと、そんなヤマブ医師の普通が好きだったのかもしれませんし、憧れていたのかもしれません。大きな意味でも小さな意味でも、普通はとても難しいことなのに、なぜか簡単にしているように見えたのです。

「なあ、明日はどこに行く?」

「悪い」

 サワヒラ医師はそれだけ言うと一枚のチケットをヤマブ医師に渡します。

「夜からだろう」

「ああ、でも、その前に行きたいところがあるんだ」

 サワヒラ医師はこの旅の目的の一つに、父が過ごした街をひとりでたどってみることにしていたのです。それは父がこの街で何かをつかんだという軌跡を知りたかったからです。きっと、時代も違うし、同じ場所に立ってみたとしても、目的が違うのだからと父は笑い飛ばすに違いないし、そんな時間があったら自分のために何かを探しなさい、そのためにわざわざ機会を作ってあげたのだからと、やんわりと諭してくれたに違いありません。それでも、行ってみたかったのは、父と同じ場所を共有してみたかったという、強い意志だったのです。サワヒラ医師は舞台に立つことはできません。レコーディングスタジオに入ることはできません。ボイストレーニングを受けに行くことはできません。そして、公演を成功させるために皆で集まる稽古場に足を踏み入れることもできません。父は父であるはずなのですが、その大部分が見えないのです。サワヒラ医師は昔から父の軌跡を何一つ見ることはなかったのです。それなのに、父が次第に有名になって行くにつれ、父の息子としての扱いを受けます。家は大きくなりお客さんが一杯来ます。テレビで見るような芸能人やスポーツ選手も来ます。しかし、その理由はわかりません。成長につれて学校でもそれとなく父のことが知られていきます。しかし、誰もがそのことに寄り添おうとしてくれることはありませんし、かえって離れて行こうしたり、離れさせようとしたりすることもあるのです。そして何よりも音楽の時間が地獄です。それなりに楽譜は何となく読めたのですが、もちろん父の様には歌えません。

 普通。それは、父から後になって言われるずいぶん前からサワヒラ医師が意識していた言葉です。だから本当はイギリスでなくてもよかったのですが、時間が経つにつれて、特別な父も普通があったのだと、普通の時に見ていた風景があったのだとその想いが大きく膨らんできてどうしようもなくなってきたのです。失礼かもしれませんが、ヤマブ医師にはそのことはわからない。そしてわかってくれとも思わない。でも一人になって普通の景色を観終わったら、またヤマブ医師と旅したい。そんな振り子にすこし頬を緩めている自分に驚いているのです。

「じゃあ、俺もぶらぶらするよ」

 ヤマブ医師もまんざら一人になることを嫌がっているわけではありません。不安な気持ちよりも数段好奇心が優っているからです。サワヒラ医師はそんなヤマブ医師をうらやましく思うのです。

「劇場前で待ち合わせな」

「ああ」

 サワヒラ医師はヤマブ医師とミュージカルを観に行こうとしていたのです。ヤマブ医師はミュージカルより、ロックのコンサートに行きたいと、あまり気乗りしない様子だったのですが、それは行ったことがないからだとサワヒラ医師が言うと、そうだよな、お父さんはミュージカルスターだよな、だから俺もここに来れたんだよなと、今さら、というように少し茶目っ気に驚きながらそのチケットをしげしげと眺めていたのです。

「高いんだろうな」

「それよりなかなか手に入らない」

「明日は月曜日だぜ」

「みんなミュージカルが好きなんだ」

 ヤマブ医師はふーんという顔をしています。今と違って、日本ではまだ周知されていなかったからです。

 サワヒラ医師は事前に調べていた父の軌跡をめぐります。写真も残されていたのでこっそりここに持ってきていたのです。下宿、音楽院などを回りながら、写真と見比べて、時代こそ違えども、同じ場所に父はいたんだと、その感慨だけで胸がいっぱいになります。そして、ほぼ変わらないヨーロッパ特有の重厚な建物に囲まれると、父と重なって同じ空気を吸っているような錯覚に陥るのです。

 父はここで何を考えて、これからどのようにしようと思ったんだろう?と、将来のことを悩んでいたサワヒラ医師はふと立ち止まります。医学全般を勉強し、国家試験に通って医師になる。その漠然とした想いと、声にまつわる仕事がしたいということがどうしてもまだ交わらないでいたのです。そして、本当にそれでいいのか、自分が医師としてやりたいことは他にないのかと悩んでいたのです。ヤマブ医師や友達に聞いたことはあります。けれど、皆まだ先のことだと、本心は語ってくれません。というよりも、それは自分で決めることだと、そうするべきだと皆が思っているからかもしれません。

「父さんも自分で決めたんだよね」と、自然と言葉が出てきます。

 サワヒラ医師はそれでも今日を大事にしようと思います。はるばるイギリスまでやって来て最初は戸惑うこともあったのですが、次第に慣れてくると、同じような平面に立っている自分がいることに気が付きます。周りの人々の言葉はよくわかりませんが、それでも同じ時間を共有していることがわかります。きっと同じように生きそして死んでいくのです。だからどこに居ても同じだからと、父は自分の出来ることをしてみようと単純に思っただけなのかもしれません。サワヒラ医師の未来は誰にもわかりません。でも、未来を作ることはできます。そのために今はじっくり考えようと思います。父がここにきて、急にギアを上げたように、きっとそういう時は必ずやってくるのだと信じようと、そしてその道標を見逃さないようにしようと思ったのです。

 公演の開始は午後七時からです。ヤマブ医師からその前に軽く食事をとろうと言われたので、サワヒラ医師は約束の時間の前にやってきて、まだそれほど人だかりが目立たない劇場前で待ちます。地下鉄の駅からすぐだからと、お世話になっている夫妻がそれでも丁寧に教えてくれたので、間違えるはずはないと思いながらもヤマブ医師を待っていたのです。

 劇場前に次第に人が集まってきます。しかし、ヤマブ医師はやってきません。今ならスマホで連絡をとれば済むことですが、学生の二人にこの時代連絡をとる方法などなかったのです。今夜のミュージカルは父が感銘を受けた作品です。ここに来るまでに父から教えられていたのです。そして、もし、医者になるなら必ず役に立つからとその原作までも手渡されていたのです。そのことはヤマブ医師にもちろん話していますし、原作本も手渡しています。だから一緒に観たい、いや観てほしいんだと、サワヒラ医師の思いは十分に伝わっているはずです。

 あと、十分、あと五分と思いながらも、なぜかヤマブ医師はなかなか現れなかったのです。もしかしたら事件に巻き込まれたのかもと、妙な胸騒ぎがするのですが、劇場前に集まった若者が、まるで今からロックコンサートが始まるかの如く興奮していて、その熱気にサワヒラ医師の情熱も引き寄せられていたのです。チケットは持っています。席も決まっています。だから、サワヒラ医師は劇場に入ります。それほど大きくはありませんが、一階席と二階席に分かれています。サワヒラ医師は地下から一階席に向かいます。どちらの席が良いのかはわかりません。

 劇場内は満席です。重厚な歴史建造物である反面空調はあまり効いておらず二階席からの観客の呼気が降り落ちてきて階下ではムンムンします。

 劇場案内人が劇の始まりを宣言します。観客は歓声を上げそして静まります。そしてそのことを待っていたかのようにミュ―ジカルにしてはとても重いセリフがゆっくりとこの劇場を支配していきます。

 サワヒラ医師は空席である隣の席を最初はそれでもチラリチラリと気にしていたのですが、劇場が揺れ動くような音楽が鳴りはじめると、もはや舞台に釘付けになっていたのです。次から次へと、展開されていく場面とそれを装飾する役者たちの見事な歌声が、視覚を伴っているはずなのに、まるで輸血されているかのように暖かな鼓動とともに身体全体を巡って行きます。サワヒラ医師は、日本で見たミュージカルとは異なる異分子が、自己の細胞と闘いながらいつしか融合されていくような錯覚を覚えたのです。

 主人公は自己の苦悩を謳います。そして、その苦悩から生まれた運命と愛を謳います。それは父の原点なのだと、サワヒラ医師はそう思ったのです。そして、父はサワヒラ医師にもその原点を見極めるんだと、その歌声はそうぶつかってきます。

 ミュージカルは二部構成になっています。二時間ほどの上演時間であるのに二十分ほどの休息に入ります。サワヒラ医師にとってあっという間の時間だったのです。だから、休息時間など要らないのにと、何故映画のように一気に最後までと、思ったのですが、映画ではないのです。場面場面は演者らがリアルタイムで創り上げていかなければなりません。演劇自体が生きているのです。

 サワヒラ医師はしばらく放心状態だったのですが、ふと横の席を見ます。やはりヤマブ医師は来ていなかったのです。もちろん、開演後は座席に着けないことがあります。だから、二幕からの観劇となります。けれども、見慣れていたら別ですが、途中からでは一幕目の余韻がわかりません。きっとヤマブ医師の性格ならなおさらです。それでも、一言ぐらいあってもいいのではないかと思うのです。せっかくチケットを手に入れ、父の思いも話し、英語ではわかりづらいだろうから原作本も与えたのにと、思うからです。

 やはり何かあったのだろうか?

 サワヒラ医師は劇場の入り口に向かいます。通路は一か所なのですれ違うことはありません。トイレも覗きます。個室に入れば別ですが、そのことを確認できません。しかし、そんなことはないだろうと思うだけです。

 入り口にはいません。外で煙草を吸っている人がいます。チケットを持っていれば再入場できるとのことです。だから、サワヒラ医師は外へ出ます。電話ボックスを探して、お世話になっているご夫妻の所に電話します。

「彼は帰ってきていますか?」 

 手短に事情を説明します。奥さんが出られて、いいえと、予想された返事です。奥さんは心配されていて、警察に?という言葉が、最後に出てきます。どうしょうとサワヒラ医師は思います。もはや、ミュージカルどころではなくなっていたのです。

「いえ、私は今から戻ります。その後で考えましょう」

 サワヒラ医師はそのまま、もはや陽が落ちて少し肌寒い、それでも、漆黒に囲まれてもなお飲食店のあちらこちらから溢れる会話の灯りを頼りに歩調を早めます。不思議なことにミュージカルのことなどどこかに吹っ飛んだようで、一度も振り返らず、前だけを見ていたのです。ヤマブ医師は大丈夫だろうか、これからどうすればよいのだろうかとそればかり考えていたのです。

 サワヒラ医師の呼気が、夫妻への叫びとなる前に、ソファーに横たわるヤマブ医師の姿が目に入ります。

電話を切ったすぐ後に帰ってきたのと、夫妻の申しわけなさそうな声と、酒に酔ってすやすやと眠り込んでいるヤマブ医師が時々意味のなさそうな英語で何かつぶやいている声とが、あまりにも対照的で、決して美しくはないし聞きづらいのに、サワヒラ医師は、心から温まるような感動というか、穏やかな拍手を、この演者達にこの時は送るしかなかったのです。


(五)


 サワヒラ医師はヤマブ医師に結局会うことにしたのですが、久しぶりだしわざわざ日本から来て休みまでとってくれたのに、なぜか素直になれない自分がいたのです。やはり心根に何かわだかまりがあるのかもしれません。

「フランスへ行かないか?」

「フランス?」

「ここに居ると息がつまるんだよ」

 サワヒラ医師は研究の停滞を素直に話します。ヤマブ医師が怪訝な顔を少しでもすれば、そうだよなやめようと言って、どこかでランチを共にしただけ別れたのでしょうが、ヤマブ医師はそのすべてを見通しているような、それでいて、おくびにも出さない心持ですべてをゆだねてくれたのです。しかし、それは反面寂しい面もあったのです。なぜなら、ヤマブ医師から普通が良い意味でも悪い意味でも削り取られていたからです。

「ユーロースターで2時間半。あっという間さ」

 実はサワヒラ医師はヤマブ医師からミュージカルを観に行こうと提案されていたのです。もちろんあの時のことをずっと気にしていたに違いないのです。しかし、そんな昔の事と一蹴します。そうだよなと、意外にあっさり引きさがってくれます。そしてお父さん大変だったなと、普段着で言葉を掛けてくれます。サワヒラ医師は別に不快ではなかったのですが、なぜかその質問を何となくはぐらかしてしまいます。

 ヤマブ医師はあの日、街中をぶらぶらしていたようなのです。めぼしい観光地はサワヒラ医師ともはや訪れていたし、だからと言って夕方まで簡単に時間をつぶすほど詳しいわけではないしと、結局、行き当たりばったりで街中を散策することにしたのです。博物館はそれなりに楽しめたのですが、それでも二、三時間が限度だったし、公園で寝そべっていても、これじゃあ日本と変わらないと考え込んでしまって、最初の意気込みもどこかに消えてしまった様で、いざ一人になると何をしたらよいのかわからなくなっていたのです。だからではないのですが、ふとある絵を思い出します。そしてある絵を描いた人物を思い出します。ヤマブ医師はとりわけ絵に興味を持っていたわけではなかったのですが、あの絵だけはと美術館に入ったのです。美術館ですから数多の絵画が飾らています。しかし、それらに目もくれずに一直線にその作者の所に向かいます。そして、目の前に立つとしばらく体が動かなかったのです。

 あの絵画がこんなに無造作に飾られている。目の前に立つと単純にそう思ったのです。もちろん触ることはできません。今にも飛び出しそうな絵の具の一筆一筆が作者の体臭を伴って極限まで迫ってくるような迷路に入り込んでしまうだけです。もう少しもう少しと近づこうとすると、そうはさせないという覇気で追い返されます。追い返しながらもまるで生きているかのように姿を変え、妖術で惑わしてきます。だから、何が何でもと足の指に力を入れるのです。そして近づくとまた弾き飛ばされるのです。

 ヤマブ医師は知らない間にそのことを繰り返していたようです。しかしそうすることでその絵画の心音が聞こえてくるのです。身体の隅々にまで拡がって行くのです。

「すいません」

 絵画からではありません。それも日本語です。ヤマブ医師はその声で覚醒し、この異空間を独占していたことを知るのです。

「すいません」

 ヤマブ医師の反芻言葉の向こうには、優しさが見えます。その笑顔は、まるで大きな風船の一針のように、視界を拡げてくれます。そして、ヤマブ医師は、また思わず立ち止まっていたのです。近づくことも遠ざかることもできない緊張が何故か「日本人ですか?」と、声帯を震わせていたのです。

 ヤマブ医師はある女性と出会ったのです。カナザワシホ。彼女の名前です。そして、カナザワさんとのこの出会いがサワヒラ医師との間に微妙な溝を作ったのです。

 カナザワさんは、大学の交換留学制度を使って、語学留学に来ていたのです。偶然にも同じ年齢だったことと、その日は休日だったらしく、同じようにこれと言った目的もなくこの美術館にやって来たようなのですが、ある絵画の前で何度も前後に動いている東洋人を見て不思議に思ったのと、それほど食い入るように鑑賞している絵に興味があって、思い切って、それでも遠慮気味に日本語で話しかけてみたのです。

「「すいません」が、出会いの言葉だなんて誰も思わないよ」

 カナザワさんは、少し照れたようにそれでもはっきりとした声で、そうですよねと、丁寧に頷いたのです。何か言い訳めいた言葉でもっと馴れ馴れしく近づいてきてくれた方が話しやすいのにとヤマブ医師は思ったのですが、そうされなかったことが却って新鮮に感じたのも事実です。

 少し英語ストレスに陥っていたこともあって、お互いが自己紹介を簡単に済ますと、それでは夕方まで付き合ってもらえます?と、私、多少は英語が話せますからと、誘われたのです。サワヒラ医師との約束のことがあったのですが、少し茶目っ気に舌を出す仕草がとてもかわいかったので、ヤマブ医師はそのことを切りだすことが出来なかったです。

 ヤマブ医師はカナザワさんと色々な話をします。その一言一句は二人だけのものです。この時にお互いにどのような感情が芽生えていたのかわかりませんが、二人にとってとても自然で楽しい時間だったことは確かです。

 ヤマブ医師は結局あの日サワヒラ医師のことを言い出せずに、誘われるままパブに向かいます。彼女には門限があったので、ギリギまで過ごしたいと、もはやこの時にはミュージカルのことなどすっかり忘れてしまうほど彼女との会話にすっぽりとはまってしまっていたのです。

「心配したんだぜ」

 翌朝、何もなかったかのようなぼさぼさ頭で現れたヤマブ医師に向かって、サワヒラ医師は少し荒げた口調で言います。

「悪い。でも一人の方が集中しやすいと思ったんだ」

 きっと、素直にもっと丁寧に謝れば良かったのですが、多少の引け目があったのか、つい、余計なことを言ってしまいます。

「日本だったらそうしたよ」

 サワヒラ医師もそんなヤマブ医師の気持ちを少しは察してあげても良かったのですが、そんな余裕よりも感情がつい先に出てしまいます。

 ヤマブ医師は返す言葉がありません。それに、サワヒラ医師からこの時、誰の金で来られたと思うんだ、と聞かされたのです。もちろんサワヒラ医師はそんなことを言った覚えは全くなかったし、感情の起伏がたまたまそう言わせただけなのですが、相変わらず何も言い返さないでいるヤマブ医師との間で少なからずわだかまりを残したことは確かです。

 それからのイギリス滞在は二人にとって多少ギクシャクするものだったのです。それでもお互いは昔からの友達です。ヤマブ医師はサワヒラ医師のことをサワヒラ医師はヤマブ医師の性格をそれぞれ知っていますし、お互いこれまで喧嘩をしたことがないわけではなかったのです。だから、これ以上の感情の絡み合いは表面上なかったのですが、帰国することになった際に、二人の思い出は、サワヒラ医師にとって父への、ヤマブ医師にとってカナザワさんへの、心残りだけだったのです。

 ヤマブ医師とはそれからは頻繁に直接会って飲みに行くことは少なくなったのです。それに会ったとしても以前のように朝まで語り合うことは無くなります。電話でも簡単に近況を話すだけであって、それも少なくなってしまっていたのです。もちろんそれは学年が上がって行くことによって医学部での実習や勉強が忙しくなってきたことにもよるのですが、帰国してきたカナザワさんと付き合うことになったヤマブ医師が、ある意味サワヒラ医師を遠ざけているのではないかと、嫉妬とは言いたくはないのですが、嫌な邪念に苛まれていたからかもしれません。

 そんな二人がある大学の形成外科の入局会で会ったのです。お互い久しぶりだったのでびっくりしたのですが、ヤマブ医師が、どうして形成外科に入局してきたの?と、ぽつりとつぶやいていたことだけははっきりと覚えています。

 なぜ耳鼻科に入局しなかったかというと、その大学では口蓋裂という、口腔内が割れていて、発声に影響を及ぼすという生まれながらの異常を持った子供の治療をしていたからです。声は声帯だけで作られるのだと思っていたサワヒラ医師にとって、学生時代に聞いた口蓋裂の講義は衝撃的で、だから形成外科という主に体表外科を治療する科に飛び込んだのです。命にかかわらないことであっても、心も体も普通の生活に戻れることがどれほど大変なことか、皆さんよく考えてくださいと、特に強調して話していたその講師の先生のことが、いつまでも心に残って離れて行かなかったからかもしれません。

 何故ヤマブ医師が形成外科に、それもサワヒラ医師と同じ大学の医局を選んだのかわかりません。そのことを聞いてもヤマブ医師は何となくというだけだったのです。そして、二人の形成外科での研修は始まります。音声外科にはヤマブ医師は興味がないのではないかと思っていたのですが、ヤマブ医師は最初から大学ならでは口蓋裂や音声についての臨床カンファレンスや勉強会にはサワヒラ医師とともに積極的に参加していたのです。サワヒラ医師はその熱意に負けてられるかと奮起したのも事実ですし、ヤマブ医師が先輩医師から手術指導を受けたと聞くと嫉妬したのも事実なのです。ひよっとしたら俺には才能がないんじゃないか?と、ヤマブ医師を見ているとそう思うことがしばしばだったのです。口蓋裂の患者さんの経験から音声言語外科へ、そして声帯外科へと進もうとしていたサワヒラ医師にとっては、ヤマブ医師は才能の壁に思えてきます。それは父とは比べようもない衝撃だったのですが、今度こそ負けるわけにはと、相変わらずの普通をつら抜くヤマブ医師を見ていると、仕事帰りにひとり居酒屋で遅い夕食を取りながら落ち込むことが多くなってきていたのです。  

 そんなある日のこと珍しくヤマブ医師から食事に誘われます。

「おれ、秋から関連病院に出ることになったから」

 当時、初期研修を終え、形成外科の専門に進んできた医師は少なくとも一年は大学でみっちりと研修を受けることになっていたのですが、ヤマブ医師はその前に早々と大学から去ることになったのです。それも口蓋裂グループの一員としてある症例について検討するように上司から指導されていた矢先だったのにです。

「どうして?」

「医局長から言われたんだ」

「言われた?お前はそれでいいのか?」

「良いも悪いもないよ」

「口蓋裂は?」

「大学でなくても症例はあるし、コンピューターがあれば何とか症例の検討は続けられるからな。それに、本当はそれほど興味があるわけではないんだ」

「でも、一生懸命だったよな」

「かっこつけてるんじゃないぜ。でも、俺たちまだひよっ子だろう。だのに先生って患者さんは言ってくれるんだ。一生懸命やるのは当然だし、そうしないと申し訳ないっていうか、恐いんだよ」

 サワヒラ医師はまたヤマブ医師の普通さにひれ伏するしかありません。自分のしたいことだけをするというのにはまだまだひよっこであるということを忘れてしまっていたのです。子供の時、だからお坊ちゃんだよと、皆から言われたことを思い出します。

 サワヒラ医師は一瞬自己嫌悪に落ち込みます。でも、本当にヤマブ医師はそう思っているのでしょうか?サワヒラ医師はふとヤマブ医師の顔を見つめます。ヤマブ医師は一瞬顔を背けたように思えたのですが、気のせいだとわざと思わせるように少しほっとした表情を見せます。だからでないのですが、ヤマブ医師は何かを隠しているような、いや、言いたいような気がしたのです。大学を去ることは本意ではないように思えるのです。最近は、より身近にいることがほぼ無くなったとしても、だてに昔から時間を過ごしてきたのではありません。だから何かが伝わってくるのです。それでもヤマブ医師は黙っています。サワヒラ医師も黙っています。そして気が付くと二人はあのイギリス旅行の話をしていたのです。そして途中で帰ってしまったミュージカルを思い出します。

 あれから何年経ったのでしょう。フランスの街がほんのりと黄昏色に揺れています。美術館や歴史的建造物や、カフェでの食事などを、比較的スムーズに回れたのは、奇跡ではなく、スマホのおかげだと、昔を懐かしみます。まるで学生の時に戻った様ですが、街の中心部にある巨大デパート前の出店で買ったアプリコットのアイスクリームを口にしながらもお互いあの時よりは純粋さが薄れています。

「やっぱりあの時の事忘れていなかったんだ」

 欧陽がすっかり西に傾いた頃、ある建物の前で立ち止まったサワヒラ医師にヤマブ医師がそう尋ねます。

「いや、昔の事さ」

 サワヒラ医師はまた同じことを言います。

「ここに来たかったんだ。最近形成外科に入局したことも、音声外科医として働いていたことも忘れていたから」

「ここはお前の原点なのか?」

 ヤマブ医師はなぜかそう尋ねていたのです。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それにもしそうだったらここは二人の原点さ」

 ヤマブ医師からは何も聞こえてきません。

「だからどうしてもこの目で見てみたかったんだ。ほら、この建物はなんて美しいんだ。そう思わないか?」

「ああ、そうだな。誰かが創ったものだけど、もはや、生き物になっている。きっと、修理されながらも未来永劫この形は変わらないはずだ」

 ヤマブ医師から力強い声が聞こえます。

「そうかもしれないし、そうあってほしいな」

 二人はしばらく普段の生活に埋没している通行人を尻目にただ黙ってこの建物に見入っていたのです。

「ところで、どうして、手外科をすることになったんだい?」

「どうしてそんなことを聞くんだい」

「いや、まだ、未練があるのかなあって・・・」

 サワヒラ医師は時々ヤマブ医師から声にまつわる患者さんの相談を受けていたのです。

「セ ラ ヴィ」 

 ヤマブ医師はわざとフランス語で話します。

 サワヒラ医師はフランス語が分かりません。その代り、「さあ、なんでだろうね」と、この街を見渡せる小高い丘からそよ風のような声が聞こえてきたのです。


(六)


 ヤマブ医師が日本へ戻って、気の抜けた感が否めなかったのですが、彼は今頃彼を待っていた数多の患者さんのために、けだるさがとれ切れてない身体でもはや働いているのだと思うと、そんな感傷に浸っている場合ではないと、ギアを数段上げ、今日も、自分の研究が終わった後に、自転車にまたがり、寒風にその身を切られながら、再生研へと向かっていたのです。

「ススム、ちょっと僕のところにきてくれないかい?」 

珍しくロバートからスマホに電話がかかってきます。

「今から、再生研でやりたい研究があるんだけど」

「だから、電話したんだよ。待ってるから」

 今夜に限って妙に重く感じる自転車を反転させ、ローバートの研究室に向かいます。古ぼけた、いや時代を感じさせる荘厳なレンガ造りの研究棟の内部は意外に近代的で、LEDの照明が人影をくっきり映し出すほどの贅沢さがサワヒラ医師を迎えます。

「再生研にもう行かないでくれませんか?」 

 ロバートはサワヒラ医師が入って行くなり唐突に、しかし、丁寧な言葉でそう告げてきます。

「どうしたんだい?急に」

 サワヒラ医師はロバートが再生研での研究に賛成していないことを何となく知っています。だからと言ってあからさまな非協力的態度に出ることはなかったのでズルズルと甘えていたのかもしれません。今夜はっきりと言ってきたのには何か理由があるのかもしれません。

「本来の研究に集中してほしいんです」

 サワヒラ医師は現在声帯の動きを分析しているのですが、本当は喉頭の再生も行いたいのです。だから、本来の研究と言われても戸惑う気持ちもあるのです。

「ススムには黙っていたけれど、僕の研究についての意見を聞かせてほしいのです」

 研究資金の提供と管理をそう言えばすべてロバートに任せっきりで、ロバートの研究について詳しく教えてもらったことはなかったし、あえて聞かなかったことも事実だったのです。だから改まってそう言われると、OKと足を汲みながらコーヒー片手に椅子に深く座るということではなく、両足を揃え背筋を伸ばす作り笑顔の大人が立たされている姿に自然となってしまうのです。

「僕がAIの研究をしているのは知っていますよね」

「AIがAIを使って学習させるプログラムを開発しているんだろう」

「まあ、簡単に言うとそうです。でももしそうなったらどうなると思います?」

「人間の何倍ものスピードで技術革新が進むんだろう」

「まさしくその通り。でもそれには二つの意味があります」

「二つ?」

「そう、一つは人間が考え出したアイデアを人間の想像を超えるような速さで実現させていくことです」

「じゃあ、もう一つは」

「人間がこれまで考えた事柄を提示することで、これまで人間が考えつかなかったことを創りだすことです」

「人間が考えつかなかったこと?」

「これも、つかなかったこととつけなかったことにわかれますが?」

「SFというより哲学だね」

 サワヒラ医師はロバートの言わんとしていることがおぼろげにはわかります。しかし、それと再生研へ出入りするなということとどういう直接的な関係があるのかはわからなかったのです。

「もう少し詳して教えてくれないかな?」

「具体的に?」

 ロバートの表情が一瞬きりっとします。

「そうだよな。研究者はたとえ専門外の人でも自分の研究内容を軽々しくは教えないか」

 サワヒラ医師はロバートにそう言った後に苦笑してしまいます。それにもし、仮にロバートが話してくれたとしても、サワヒラ医師がはっきりとは理解できるはずがないのです。

「実は今、AIを使って声の再生を行っているんです」

「声の再生」

「そうです。ススムは耳鼻科の勉強もしましたよね」

「ああ」

「だったらわかると思うんですけど、音は一つの音でも2つの音でもオーケストラの音でも一つの波形になることは知っていますよね。だからこれをスピーカーで振動させるだけで音になるんですよ。複雑な音が重なり合った波形は一つでも、内耳の蝸牛がこの音の波形を鼓膜を通して伝え聞き、高い音と低い音を聞き分ける細胞で認識し、それを脳へ伝えているのでそれぞれ異なった音として認識しているんですよね。だから音の波形さえわかれば、その音を再現したら同じ音が出せるんです」

 サワヒラ医師はローバートの言っていることはわかります。確か、スピーカーの原理と音の波形については高校の物理の授業でも習ったような気がします。

「理論は簡単なのですが、例えば何オクターブも出す歌手の音を再現しようと思えば膨大な資料の分析が必要になります」

「でもAIがあれば簡単なんだ」

「簡単ではありませんが、可能だと思います」

「でもそれと喉頭の再生とどう関係するんだい?」

「喉頭は再生されませんが歌手が再生されます」

「歌手が?」

「そうです。歌詞とメロディーがあれば、歌手がいなくても、その歌手の波形を分析して、その歌手が歌っているような音を創りだせるのです。例えば声が出なくなった年老いた歌手であっても、声の音源さえ残っていれば、若い時と同じような声が出るんです」

「映画の音入れみたいなもんだね」

 サワヒラ医師は少したとえが軽かったかと反省したのですが、ロバートは全く意に介していないようだったのです。

「まさしくそうです。レコードも作れますし、コンサートも開けます」

「それがロバートの目指しているもの?そうじゃないよね?」

「もちろんです。なぜなら、決められた会話は出来るのですが、自ら声は出せないのです」

「そうだよね、与えられないと出ない声だからね」

「その通りです」

「じゃあ、ロバートが僕の研究データで目指しているものは何だい?」

「自動言語発声機」

 ロバートは簡単に言います。

「どういうこと?」

「声を保存していれば、いや、声の音の波形を保存していれば音が再生されると言いましたよね。だったら、その波形を生み出す声帯の動きや筋肉の動きがわかればいいのです」

「そううまくいくかな?だって、喉頭や声帯の動きだけで言葉がきちんと発せられて会話が出来るわけじゃないのは知っているよね。舌や唇の動きも重要だろう?」

「そうです。しかし、それらについてはある程度データがそろっています。だからススムの研究がそれらを補ってくれて、連動させてくれたらそう難しくはないと思っているんです」

「かなり複雑だと思うんだけど。でも、つまり声帯がなくてもそれを動かす筋肉の動きを音の波形にマッチさせていくことで、どういう声を出しているかを判断して、それを機械で創りだすというのかい?」

「声と言っても声の高低を含む声の質を本来の生まれ持った自然な声として創りだせるのです」

「でも、どうやって?」

 ロバートはニヤリとします。そしてそれ以上の具体的な話はしてくれなかったのです。でもサワヒラ医師は想像します。センサーをつけ、声帯に関する筋肉の動きを測定し、それをデータとして自動送信する。その音は波形となり、音として復元される。きっと、そのセンサーはまだ、簡単にクビに巻いて持ち運べないほど巨大な鉄のマフラーだし、その通信施設は、パラボラアンテナの様に巨大だし、それを波形として捉えて分析するコンピューターは巨大ビルのワンフロア―を確実に占領するに違いないと考えられるのです。しかし、きっと、未来では、腕時計型のスマートフォンと同じように、蝶ネクタイと胸元のブローチになるのかもしれません。

「だから、喉頭を再生する必要はないって言っているのかい?」

「はいそうです」

「でもそんな機械が本当に出来るのかい?」

「それでは、喉頭だけを再生して本当に声が出せるようになるのですか?」

 ロバートの言う意味は分かります。声帯を作成し、どれだけ枠組みを作ろうともそれを動かす筋肉の作用が必要なのです。サワヒラ医師は喉頭という枠組みをいかに動かすかの研究を行ってきたのですが、ロバートは枠組みをもはやあきらめてそれをデータとしてAIに処理させ、AIに喉頭の代わりをさせようとしているのです。

「ロバート!さっきAIは人間が考えつかないことを考えるって言ったよね。じゃあ、喉頭の再生についても思いもつかないことを考えてくれるんじゃないのかい?」

「そうかもしれないですね。でも、まだ、そこまではAIは進歩していないんです。もう少ししたら新しい概念のコンピューターが生まれます。その時に飛躍的にAIは進化するんじゃないかと言われています」

「新しい概念?それはいつ?」

「いつ?それは・・・」

「それじゃあ、まだロバートの研究もほんの入り口なんだな」

「そんなことはない。AIはススムの研究をもはや学習し始めている」

 ロバートは珍しく眉間を押さえながら少しイラついているように思えたのです。だからサワヒラ医師はあえて尋ねます。

「何か他にロバートが考えていることがあるのかい?」

「実は・・・」

 歯切れの悪い態度です。それとも研究者として言いたくないのかわかりません。だからサワヒラ医師はゆっくりと待ちます。ロバートは少し待っていてくれと言い残すと部屋を出て行ったのです。そして、琥珀色に染められたグラスを二つと、少し贅沢に黄金色に散りばめられている漆黒の小さな箱を持って戻ってきたのです。

「王室ご用達だよ」

 なんか資料を持ってきてくれたのかと思っていたのですが、ロバートはブランデーとチョコレートをもってきたのです。殺風景な研究室に豪勢な箱が不釣り合いに思えるので、あえてそう言ったのかもしれません。確かに舌の上を転がっていくブランデーの刺激をさらにまろやかにするほどの気品が口いっぱいに拡がって行く様が、食べ慣れているわけではないのですが、素直に感じます。 そして、ロバートもしばらくサワヒラ医師と始めて会った時のエピソードを懐かしむようにそして何かを思い出したのかとても穏やかな表情を見せたのです。

「自動言語翻訳機」

 ロバートはそんな二人の思い出に唐突に言葉を投げ込んできます。

「自動言語翻訳機?それはもう実現しているんじゃないの?」

「まあ、ある程度はね。でもまだ完ぺきではない。それに会話にはタイムラグがあります」

 確かにそうかもしれません。機械が音を拾いそれを認識してから翻訳してしまうために時間がかかるのです。

「翻訳の精度はいずれAIが高めてくれるでしょうが、タイムラグはなかなか縮まりません」

「それで・・・」

「ススムの研究はある法則で声帯を動かす筋肉の動きを予測してくれます。もしその法則を用いて舌や唇の動きを連動させることが出来たら、あらかじめ大量に言葉のデータをAIに送り込んでおけます」

「ああ」

「言葉は音声だけでは聞こえにくかったり、早口でその声を正確に捉えにくかったりすることがありますが、そうすると正確な翻訳が出来なかったり、余計に時間がかかったりします。だからもし喉にほんの小さなセンサーを付けて、発声時の刺激を電波でAIに送り込むことが出来たら、そのタイムラグは縮まり、翻訳の正確さは数段向上するんじゃないかと考えているんです」

「自動言語発声機の応用なんだ。でも、却って複雑すぎるような気がするけど」

「本当はそういう装置ではなくて直接脳をAIにコントロールさせようとも考えたのです。その方が簡単なのかもしれないので・・・。でもそれはやはりとても危険なことなので・・・」

 ロバートは初めてサワヒラ医師から視線を外します。言葉が自由に話せるようになったとしても、一歩間違えれば、それはもはやヒトの声ではなくなることを恐れてロバートはぎりぎりで踏みとどまったのかもしれません。

「そんな時にススムの研究に出会ったんだ。私にとって目から鱗だっだし、とてつもなく輝いて見えたんだ。だからススムには再生ではなく機能についての研究にもっと専念してほしいんだ」

 脳細胞を血液自体が潤すわけではありません。むしろ電気のような刺激が意識を創り、そしてしっかりと根を拡げます。しかし、アルコールで適度に温められた血液から何かしらの言葉を掛けられて、二人の脳細胞は楽しそうにその身をプルプルと震わせ始めています。

 ロバートは話し言葉をやっとリラックスさせます

「じゃあ、はじめからずっと、再生研には行ってほしくなかったのかい?」

「ああ」

「どうして、今?」

「ススムとこうしてカジュアルに話せるようになったからやっと言えるようになったんだ」

 思いやり?サワヒラ医師はロバートから意外な言葉を感じます。それはサワヒラ医師の日本人だけだという偏見だったのかもしれませんが、とても嬉しい響きだったのです。

「でも今更どうして自動翻訳機を作ろうと思ったんだい?僕はここで生まれ育ったわけではないから、まだまだ不自然な英語かもしれないけど、こうやって何とか話せるようになっているだろう」

「そうだよね。ススムはかなり努力をされたはずだし、日本でもすでにある程度の知識があったはずだ。でもね、先進国の中で、日本ほど英語教育に熱心だけど英語が話せない国もないから・・・。失礼だけど医者なのに英語を流暢に話す人は少ないよね」

 サワヒラ医師は反論することが出来ません。その代りブランデーを少し飲み込みます。その刺激はすこしだけ喉に痛みを与えます。

「言葉は大切です。もし、世界の人が自由に行き来し、世界の人が自由に会話できたらどんなに素晴らしいことになるだろうと、思うんだ。相手のことがわからないからイライラしたり、愛せなかったりするんじゃないのかって思うことがあるから」

「僕もそう思うよ。でもそれは政治であって医学ではないような気がするんだ」

「医学は身体だけではなく心も癒さないといけないのではないかな?」

 その通りです。けれども、その通りではないような気もします。

「もし、私がそのような機械を発明してスマホのように誰でもが持ち歩くことが出来るような値段で提供することが出来るようになったとしても、世界を自由に行き来することを阻止する人はきっと出てくると思うんだ。でも、それを実現したら人々はもっと国境を自由に超えていこうと思うんじゃないかって信じようとしているんだ」

 サワヒラ医師には答えることはできません。いや答える資格はありません。ふたりとも未知なる世界を切り開くために研究を続けているのですが、ロバートは世界の人々のことを考えています。そして、サワヒラ医師は父の事を考えています。世界から個人を、個人から世界をと、結局は人々が苦悩から解放され普段の生活に戻れることが科学には必要なのです。

 サワヒラ医師もロバートも今静かに時間軸の中で立ち止まっています。研究のために一分一秒をどれほど大切にしてきた二人ですが、こうしている時間が決して無駄ではないことを知っています。そして部屋の四隅から浸み込んでくる冷気を跳ね返す熱意すら感じています。お互いもう少し何かを言わなければと声帯を振るわせようと刺激を送っているのですが、空回りしているのか、却って喉が乾きます。だからか二人はほぼ同時に小箱から残りのチョコレートを取り出し頬張ると、ブランデーをゆっくりと流し込みます。声帯を避けたその液体は喉を通って行くときにはきっと同じ音の波形を出しているはずなのに、サワヒラ医師とロバートの間では違う声として聞こえているに違いありません。


(七)


 真夜中、再生研の廊下をコツコツと乾いた音が響きます。その奥まった突当りには扉があって、その向こうには声帯を模ったクルスタルが置かれています。しかし、まだ誰も見たことはありません。噂ではそのクリスタルを用いれば七つの声と七つの言語を話せると噂されています。

 サワヒラ医師はその扉に手を掛けます。もちろん開きません。しっかりとした銀の錠前が暗闇の中でそれでも黒光りしています。本来なら鍵を探すべきなのでしょうが、サワヒラ医師にはありません。だから、代わりに杖を用いたのです。流暢なある言葉が声帯を揺らします。そうしたら不思議なことにその扉は開いたのです。

 世界中の光の粒子が集まってきて一気に放たれたような輝きがサワヒラ医師を遮ります。それでも手探りで突き進むサワヒラ医師がやっと手にしたものはものすごく柔らかくものすごく心地よいまるで乳房のようなものだったのです。

 サワヒラ医師はハッとして目が覚めます。夢なのだとわかっていながら、あわててスマホを握ります。夜中の三時だったのですが、時差があるのですぐに母から返事が返ってきます。夢を見たんだと打つと、母の傍らで父が笑っている写真を送ってくれたのです。その場所はサワヒラ医師の部屋の様で、父の後ろに古ぼけてくしゃくしゃになったままのある動物に似た大きなぬいぐるみが映っています。子供のころ父が買ってきてくれたお土産です。いつ捨てようかいつ捨てようかと何度も思ったのですが、いつも自分を励ましてくれているようでそうできなかったのです。だからちゃんと両親を守ってくれているかい、って話しかけてみたのです。しかしダラーっとしていて、ぐうぐうと寝息をたてているとしか思えなかったのです。

 サワヒラ医師は再生研へ出入りすることを止めなかったのです。もちろんロバートとの約束があります。それでも研究の進捗状況だけは知りたくてカンファレンスだけでも参加させてもらうことにしたのです。本来なら研究自体に関わっていない人は部外者です。カンファレンスに参加できません。しかし、サワヒラ医師の喉頭再生の熱意とその事情を知っていた研究チーフが特別に参加させてくれたのです。もちろん、臨床家としてのアドバイスも必要だったからかもしれません。

 再生研での時間を自分の研究時間に充てるべきなのに、なぜか時間の空回りが続いています。人工喉頭の完成にはサワヒラ医師の研究が不可欠なのですが、あれほど忙しかったのに湧いていたアイデアがこのところ出てこなくなったのです。

 サワヒラ医師の目の前には里山の神社の写真があります。最近なぜかボーっと眺めながら昔のことを思い出すのです。

 サワヒラ医師はヤマブ医師が去ったあと大学で口蓋裂の治療を本格化します。同じ時期に入局した仲間は一人減り二人減りと大学を去り関連病院へと出向していく中、サワヒラ医師だけは大学に残り続けたのです。それは、反対に言えば一般的な形成外科を学ぶ機会が減ることを意味します。学会で同期に会うと、色々な手術の執刀経験を聞かされます。本来なら外科医として焦りが生じるはずなのですが、音声外科を目指していたサワヒラ医師にはそれほど気にならなかったのです。

 それでもある日上司に呼ばれます。異例なことかもしれませんが、将来の希望について聞かれます。サワヒラ医師は迷わず音声外科を最終的には極めたいと希望します。その上司はわかったと大きく頷いたのですが、告げられた派遣病院は全く口蓋裂の手術を行わない病院だったのです。少し不満気な表情を見せると、きっと役立つからと、二年間だからと、そう言われます。

 口蓋裂の治療を主に行っていたサワヒラ医師は自分が浦島太郎のようになっているのに気が付きます。だから、論文を読み、研修会に参加し、患者さんに真摯に向き合おうと努力したのです。

 二年という期間はあっという間に過ぎます。音声外科から完全に離れないようにと論文などには目を通すように心がけてはいたのですが、大学の時と同じように出来なかったのも事実です。しかし、体表外科を扱う形成外科の整容的手術によって本来の笑顔を取り戻した患者さんの気持ちや、そのためにはミリ単位で手術を行わなくてはならない精密さとそのテクニックの習得の重要性を学んだのです。それでも「これからどうしたいですか?」と大学から電話がかかって来た時には「音声外科に進みたいです」と、全く躊躇なく伝えることが出来たのは、外科医として自信がついてきていたからかもしれません。だから無駄ではなかったし、本来無駄などというものはないのだと、やっと父から自立したような気持にもなったのです。

 あと数か月で大学に戻ることになっていたある日のことです。一人の女性が現れます。

「あーっと」

「カナザワです。お久しぶりです」

「どうされたのですか?」

「実は私の声のことで・・・」

 一通りの診察が終わった後に、今まで一度もそう言うことをしたことはなかったのですが、カナザワさんにお時間をいただけますかと尋ねていたのです。彼女も外来だけでは言いにくい話があったようで、携帯の電話番号をこっそりと教えてくれたのです。定時に仕事を終え、待ち合わせの喫茶店へ行きます。なぜか高ぶる気持ちが抑えきれないでいる自分がいることに驚いています。

 あの夏の旅行から帰ってきてしばらくしてから彼女も帰国したらしく、少し気まずい思いもあったのですが、ヤマブ医師はなんとかそれを解消しようとしたのか、何も知らない彼女を連れて何度か食事に行ったことがあったのです。色が白く少し細見なのですが、サワヒラ医師が時を忘れたということがわかるような聡明さと好奇心で二人をとても穏やかにしてくれたのです。 

 しばらくして、三人どころかヤマブ医師とも会わなくなってきたので、付き合うことになったんだと、魅力的だと思ってしまった自分を恥じたのですが、その後ある用件でヤマブ医師に電話をした時に、彼女との付き合いを聞くと、そんな関係じゃあないからって、やけに不愛想な返事をされたことを憶えているのです。それからカナザワさんには合わなくなったのです。

 カナザワさんとヤマブ医師は、本当は付き合っていたのです。もちろん、まだ学生です、お友達からというのは自然な流れです。それでもその期間が長くなるとさすがに耐え切れない思いも出てきます。学生ですが、だから反対に友達がつらくもなります。それでもヤマブ医師は真摯な態度で接していたようなのですが、ある日、食事に行った帰りに、思い切って、好きだから付き合ってほしいと言ってそうです。ダメなら、きっぱりと諦めるからと。カナザワさんは友達ではだめなのと本当は言いたかったようなのですが、もはやカナザワさんの気持ちも抑えることが出来ないほど高ぶっていたのです。

 カナザワさんは先天性に片方の乳房がなくて生まれてきたのです。もちろん子供の時はわかりません。だから、私は人を好きになることをあきらめたのと、泣き崩れたようなのです。でも、ヤマブ医師のことが好きなのと言うと、僕はそんなことは気にしないからと、優しく抱きしめてくれたそうです。

 二人はきちんと付き合い始めます。そして当然そういう関係になります。ヤマブ医師は特別何も言いませんし、なにも表情に出しません。しかし、そのことが却ってカナザワさんには苦痛になったのです。男性だけではなく、女性に対しても、何がしかの引け目を感じていたからです。好きになった男性には余計に感じてしまいます。そしてその思いが強くなればなるほど苦痛は増して行ったのです。

 カナザワさんはその葛藤に耐え切れなくなってついに乳房を作りたいとヤマブ医師に言ったそうです。ヤマブ医師はまだ医師ではありません。それに本当に気にしていなかったので、反対します。彼女にとっては小さい頃からの悩みだったし、好きになったヤマブ医師と結婚し、子供が出来たらと、将来のことを考えると引くことも出来なかったのです。今考えればつまらないことだったのかもしれないのですが、二人はそれから会えば必ず最後にそのことで言い争いになった様です。

「私はその時に言ってはいけないことを言ったの」

 少し節目がちなカナザワさんは、それでもきちんと言うべきだとゆっくりと声を出します。

「あなたは私以外の女性と付き合ったことがないから。きっとサワヒラ君だったらわかってくれるわって」

 カナザワさんの両方の瞳から涙があふれています。時間差で頬を伝い落ちていくのは偶然なのでしょうが、二人に謝っているようにも思います。

 カナザワさんはヤマブ医師にサヨナラを告げます。本当は本意ではなかったはずなのにヤマブ医師はそれからある女性と付き合います。

「その女性は私の友達だったの。そのことを知って私はとてもショックだったの。でも、しばらくして彼が彼女とは別れたからもう一度やり直さないかって言ってきたの。きっと彼も私も若かったんだと思うわ。それに彼は私に言われた通りにしただけだったのに、私は彼のしたことがどうしても許せなかったの。だからもう会わないし、二度と電話をかけてこないでって、彼のすべてを消し去ってしまったの」

 カナザワさんはその時ヤマブ医師の苦しみなんて少しも感じることができなかったと悲しげでだったのです。もちろん、サワヒラ医師はそのことを責めることはできません。ただ、何故そんな馬鹿なことをしたんだろう。いやどうして俺に相談してくれなかったんだろうと憤りを覚えたのですが、もしかしたらカナザワさんがサワヒラ医師に関して言ったあの言葉をヤマブ医師は忘れられなかったのかもしれません。

「私は彼と別れあと、豊胸手術を受けたの。でもその時の麻酔でショックになって喉が腫れて、喉の神経麻痺になったんです。声が擦れているでしょう。喉の神経が麻痺して声帯がうまく動かなくなったみたいなの。せっかく胸が戻ったのにまた新しいことが起こって」

 カナザワさんはおそらく反回神経麻痺という神経の伝達がうまくいかなくなって声帯の筋肉が動きづらい病態なのだろうとサワヒラ医師は理解します。

「私の声は手術をすれば戻るかもしれないって、ある日教えてくれた人がいたの。誰だと思う?」

「さあ」

「私の友達よ。彼女は彼が私と付き合っていたって最初は知らなかったの。だから付き合ったのに。それがある日彼からすべてを告白され懺悔されたらしいの。俺は十字架を背負っていくからって」

 彼女はそんな身勝手は許さなかっただろうと、サワヒラ医師が言うと、友達が意外なことを言ったというのです。

「どうしてあなたが彼と付き合えるの。身体のことがあるのに。だから私の方から奪ってやろうって思ったのよ」

 全てがうまくいかなかったのだと簡単にいうことなど出来ません。せっかくの縁だったのにうまく紡げなかったのです。

 カナザワさんと友達との関係がそれでもとぎれなかったように、ヤマブ医師と友達との関係も途切れなかったのです。だから医師になったヤマブ医師を通して友達に連絡があったのです。

「サワヒラ先生に相談しろ」って。

 カナザワさんを治療する方法をサワヒラ医師は知っています。喉頭の枠組み手術の方法について詳しく説明してあげます。全身麻酔ですかという不安げな表情に局所麻酔で行えますと答えてあげます。

 カナザワさんはサワヒラ先生が手術していただけるのですかと尋ねてこられます。しかし、サワヒラ医師は、まだその手術をきちんとこなせる実力が備わっている音声外科医ではありません。しかし、もうしばらくすると大学に帰ります。だからその時にある先生に手術を頼んでみますと言ったのです。

 カナザワさんはそれからサワヒラ医師の前に姿を見せなくなったのです。その理由はわかりません。


 母から送られてきた、二人で楽しそうに手話で会話している父の元気そうな動画を見ていると、日本のことが懐かしく思えてきます。考え事で煮詰まると気分転換だとサワヒラ医師はスマホに取り込まれている数々の写真をスクロールします。最近この行為をすることが多くなっているのですが、決まって里山の風景にいきつきます。そして最後にはあの神社が祀られている鳥居の前でサワヒラ医師の指は立ち止まってしまうのです。

「神様、私はどうすればいいのですか?日本に居る時にあの先生からは喉頭は作れない、声帯自身にメスを入れてはいけないと、教えられました。けれど、声帯がない。喉頭がない人はどうすれば良いのでしょう。ロバートは私に、だから人工喉頭を作ろうと持ちかけてくれます。確かに声は作れるでしょう。けれど、それは本当の声なのでしょうか。私は小さい時にからかわれた物まね芸人のことを思い出します。父とは似ても似つかないと思っていたのですが、ところどころ特徴をきちんと掴んでいます。その時の声だけを聴くと父だと錯覚するかもしれません。その芸人さんは最近あまりテレビに出ていないのか、懐かしい映像が辛うじて画像アプリを使ってみることが出来ます。あれだけ嫌がっていたのに、もう一度物まねをしてほしいと何度も再生画像に話しかけてしまいます。でも、すべてを聞くと父ではないことはわかります。父は歌手ではありません。ミュ―ジカル俳優です。身体を使いそして演技をしながら歌を歌います。歌手の人に感情がないとは言いません。けれど、CDは生の音だけではありません。そして一度出来上がると、その声は変わりません。だから、ロバートは歌手を再生できると言ったのかもしれません。父は、劇場は生きているとよく言っていたのです。お客さん、共演者、舞台、温度、すべてが一日たりとも同じではないと言っていたのです。だから五感を研ぎ澄ませ、それに合わせて声を変えて行かないとうまくいかないと言っていたのです。再生された喉頭も作りものです。けれど、身体の奥底から吐き出す呼気が声帯を振るわせながら通って行く瞬間は作りものではないのです。

 ロバートはその理屈は私の研究を否定することになるよと言うかもしれません。しかし、私はそうだとは思いません。なぜならそれぞれの研究は声帯を動かす筋肉の法則を用いることで共通しているからです。それにもしロバートの人工喉頭を応用した自動翻訳機が開発されたら、英語ではなくても世界共通の言語で世界中の人々が気楽にそしてより深く話し合うことが出来るのです。そしてAIではなく世界中の人々がその英知を集結して、医学だけではなく、世界の難題に立ち向かうことが出来るのです。

 父に喉頭再生と人工喉頭のどちらを望むか聞いてみたら父はどのように答えてくれるでしょうか?もしかしたら、その答えを言う前に、喉頭再生も人工喉頭も私が今するべき研究ではないと言うかもしれません。そして、私しかできない発声の機能についての研究にもっと集中するべきだと言うかもしれません。

 私はただ焦っているだけなんでしょうか?それとも私は、私がすべてを解決する、いやしなければならないと、うぬぼれているだけなのでしょうか?

 世界中の病院の臨床医はいま目の前にある最善の方法で患者さんの治療を行おうと努力しています。もし何十年何百年経てばもっと違う方法で患者さんの身体を簡単に普通に戻せているのかもしれません。それと同じではないのですが、近々の研究も大切ですが、もはや自分さえこの世にいないかもしれないけれど、次の世代の研究者が完成させてくれる研究もあるのかもしれません。それは、喉頭再生でも人工喉頭でもない、想像すらも出来ない別の奇跡かもしれません。

 人間は進化する動物なのでしょうか。そして進化する機会を自ら生み出すのでしょうか。この国のとある博物館に立ち寄った時に中央でドスンと椅子に座って私達を睨み付けている偉人を思い出します。よく見るとその瞳の奥には優しさが垣間見えるのです。そして決して悲しみだけではないと思うのですが、生命には必ず寿命があり、進化はその寿命の連鎖がなくなれば終焉することを語りかけてくれます。

 だからと言って、このままでいいということはありません。終わりがあるからそれに抗してみたくなるのです。少しでも安らぎを求めたいと思うのです。それはただただ普通に戻りたいと願う心だと思うのです。

声が出なくてもいいから生き続けていたいと今でも父は本当にそう思っているのでしょうか?ミュージカル俳優としてもう一度皆の前で歌いたいと本当に思っていないのでしょうか?そのことを考えてもそれは父でしかわかりませんし、父も選択しかねない苦悩かもしれません。

 神様はいつも何も答えてくれません。仕方がないことです。しかし、私はだからと言ってそれが十字架を背負って生きていくことだと父に思ってほしくないし、私もそう思いたくはないのです」

 神様の社を写真だけで参拝することは出来ません。だからサワヒラ医師はその画面を突然消します。そして、十字架という思いからヤマブ医師に電話を掛けていたのです。

「俺だけど」

「どうしたんだい?こんな夜中に」

 時差があることなどすっかり忘れてしまっています。

「どうしたらいいのか迷っているんだ?」

 サワヒラ医師は何かから解放されたかったのです。だからヤマブ医師にロバートとの話や、父のことや、自分の思いを話していたのです。その一方通行をヤマブ医師はきちんと受け止めてくれています。その優しさがひしひしと伝わってきます。だからサワヒラ医師はどんどん話していきます。きっとなにもかも一度空っぽにしたかったのかもしれません。

「あの先生なら俺の迷いにこたえてくれるかもしれないかな?」

 サワヒラ医師は最後の嗚咽のように、それでいてやんわりとした声質でゆっくりと言葉を発します。

 ヤマブ医師が電話の向こうで何かを考えているように感じられます。

「日本に戻って来いよ」

 ヤマブ医師の言葉が、はっきりと、それでいて優しく手を差し延べるような声質で胸に届いてきます。

「戻れば何かわかるのか?」

「いや、あの先生は神様と同じさ。きっと何も言ってはくれない」

「だったら・・・」

「でもおれも迷っている」

 実はフランスから戻る車中で、カナザワさんはヤマブ医師に手術をしてもらいたいと願っているということを、サワヒラ医師は聞いたのです。もはやヤマブ医師は手外科医です。たとえ精細な技術を身に付けているとはいえ、付け焼刃で声帯の手術が出来るとはヤマブ医師は思っていません。それは一流の外科医が持つ一流のリスペクトなのです。だからヤマブ医師は俺が助手につくから、手術をしてくれないかとサワヒラ医師にに頼んできたのです。しかし、サワヒラ医師もずいぶん現場から離れています。だからそう簡単に手術を引き受けられないことを知っています。すべてにおいて時間が必要ですが時間がありません。

「あの先生に・・・」、

 二人は今同時にそう思ったに違いありません。しかし、ヤマブ医師はなすすべがないもどかしさとそうせざるを得ない運命を選択した思いからなのですし、サワヒラ医師はもう一度手術の指導を受けたいという気持ちと自分の研究を生かしてほしいという思いからなのです。

「出来ることをするだけさ」

「そうだな」

「彼女に会ってみろよ」

「何とか自分の力で研究の成果を論文にしてみろよ」

 二人ともそうしないと未来を歩けないような気がしています。

「誰もが幸せにはなれないのかな?」

「そうかもしれないな。あのミュージカルの結末はなんとなく悲しいからな」

 ヤマブ医師はこっそり観に行っていたのかもしれません。サワヒラ医師はその言葉を聞いて、でもヤマブ医師はサワヒラ医師と同じように、万雷の拍手の中、このミュージカルはハッピーエンドなんだと、きっと感じていたはずだと、微笑みでかすかに声帯を振るわせながらそう思えたのです。


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