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声の神議り   作者: 一色もと葉
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四:声が震える看護師

(一)


 ピンポンと急に甲高い音が聞こえてきてナースステーションにいたサナドキヨリはビクッとします。日中勤務だったので本来なら看護師が大勢いるはずなのに皆、出払っていたのか誰もいません。キヨリも手術場勤務ですが看護師です。患者さんが困っていれば、代わりに用を聞いてあげるべきなのですが、身体が動きません。それでも、もう一度同じ音が聞こえてきた時には、何かに押されるように、どうされました?と、ナースコールに応えていたのです。患者さんからは、点滴が終わりました、と、それだけのことだったのですが、キヨリは、ハイわかりました、と言うだけなのに、ずいぶん背中に冷汗をかいてしまっていて、その手短な応答でさえ、とても長く感じられたのです。顔が紅潮してそれ以上の言葉を発せられないでいると、ナース服ではなく手術衣で訪れていたので、病棟の看護師さんが何人か慌てて戻ってきてくれたのです。キヨリはやっと落ち着くことが出来たので、ナースコールの内容を伝えることが出来たのです。

「あの~、明日のことなんだけど」

 キヨリはそのまま手術場に戻ろうと、ナースステーションから出た時に声を掛けられたように思ったので一瞬立ち止まります。確かに自分の方に声が向かってきたように思います。でも必ず自分に対してなのかわかりません。否、自分ではないはずだと、無視しようと思います。何故なら、ここには病棟勤務の看護師の方が多いからです。

「手術機械の追加を頼みたいんだ」

 やはり、自分だったと、重い体を無理に動かすように、今度は確実に音源に向かって振り返ると、ナースステーションの中から、いつのまにやって来たのか、ヤマブ医師がキヨリの方を向いて立っていたのです。

 キヨリは名前を呼ばれなかったことに少し気が抜けたような、それでいてホッとした面持ちになったのですが、そのことを悟られないように近づいて行きます。でも、そう言えば、先週、手術の介助に入った時に、サナドって珍しい苗字だねと、ヤマブ医師の手術助手についていた先生に言われたことを思い出します。きっとそのやり取りは聞いていたはずです。

「わたしですか?」 

 わざとそう嘯いてみたのです。けれども先ほどの思いとは違って、ヤマブ医師はぶっきらぼうに、「電動ノコギリを用意してほしいんだ」と頼んでくると、せっかくキヨリをナーステーションに招き入れておきながら、用事は済んだとばかりにさっさと出て行ってしまったのです。

「患者さんには優しいって評判だけど・・・」

 キヨリは手術場であまり物言わぬヤマブ医師が苦手です。それでも、ヤマブ医師の手術には定評があり、なんといっても無駄がありません。それにとても忙しくしているので、手術場のスタッフに気を使っている暇などないのかもしれません。けれどもそういう職人気質というか、外科医特有の気質とは違う何かがヤマブ医師から感じられるのです。かと言ってキヨリが何か冷たさを味わったわけではありません。黙って適切な手術器具を促してくれることもあります。同僚のスタッフからは、考えすぎじゃない?って、言われるのですが、そうじゃないのよ、私にはわかるのよと、わからないことに苛苛しながらも、いまだにそのことがわからないまま、それでも手術が始まるとついヤマブ医師のペースに一生懸命ついて行こうとしている自分がいることも事実なのです。

 キヨリは今年三十路を迎えます。三十路よりアラサーの方が言葉の響きが良いのですが、あえて三十路と言って、同僚に笑われることがあります。ヤマブ医師が務める病院の手術場で働いているのですが。一年前に他の病院からこの病院に移ってきたのです。

 前の病院は中規模の私立の総合病院で、手術場勤務の看護師として、主に整形外科の手術を担当していたのですが、この病院のように、手外科を特に積極的に行っているということはなかったし、救急疾患も受け入れてはいなかったのです。

「明日の手術は長丁場だし久しぶりに緊張するわ」

 手術場のナースステーションに戻ると、先輩看護師のコミナミさんが、独り言のようにつぶやいています。キヨリより五歳年上ですが、看護師になってからすぐにこの病院に勤めていて手術場は十年以上のキャリアがあります。

「コミナミさんでも緊張されるんですね」

 キヨリはそう話しかけたのです。

「もちろんよ」

 きっとヤマブ医師の手術の介助だからだと思います。コミナミさんもヤマブ医師の手術が苦手なのかどうかはわかりません。けれど、コミナミさんでも緊張するのかと思うと安心します。

 コミナミさんはキヨリがこの病院に移ってきたときに指導係となってくれた人です。新人ではない看護師のそれも以前の病院で同じ手術場で働いていた同僚に指導することは、例え後輩でも気を遣うものです。キヨリも以前の病院で同じように思ったことがあったからです。それは、看護師の誇りとともに手術場という特殊な環境では看護師も職人化するからです。つまり仕事を円滑に進めるための段取りを自ら作っていくという能力の事です。新人なら言われたことをするだけで精一杯ですし素直に吸収していきます、それが経験を積んだ看護師だと、効率的なのですが、ワンパターンとなることが多いので、変化を嫌がります。キヨリも整形外科担当で働いていたので、機械の名前を言われても戸惑うことは少ないです。けれど、病院によって多少やり方は異なりますし、非効率的だと思っても慣習だからと続けていることもあります。医師も同じで、特殊な器具をよく用いようとする場合や自分のペースを守りたいので先走って手術器具を渡そうとすると、かえって嫌がる医師もいます。人間がしていることなので個性はつきものですし、病院自体にも個性があります。

 経験のある看護師は以前の病院のその個性を持ち込もうとします。その方が自分の作業が効率よく行くと信じているからです。だから、同僚として仕事がしにくいことがあるのです。それも先輩ならまだ聞くことも出来るのですが後輩から言われるとどうしてもイラッとします。

 コミナミさんはそんなことを十分理解した上でキヨリを指導してくれたのです。こうしたらとか、この病院ではこうするんですということは一応言うのですが強制はしません。それよりもこの手術器具はこういう利点があるのでこの病院では採用し、ある医師は好んで使っているとか、ある医師はこの作業を省いて手術をするのでこの器具は要らないとか、反対にある医師はルーチンのようにこの作業をするから前もって準備しておくことが必要だとか、そう言う裏付けを添えて説明してくれます。もちろん、キヨリにとってなじめないことはあります。それでも医師の場合は仕方がないと自分をなんとか抑え込めるのですが、看護師同士の仕事ではつい自分の意見で反論してしまうのです。しかし、それはキヨリの我儘ではないのです。キヨリ自身が仕事を効率よく行うために経験で培ってきたものなのです。だからつい感情で接しようとすると、すっとコミナミさんが現れます。するとキヨリの心が和むのです。別に何かを言うわけではないのですが、コミナミさんが手術場すべてに目くばせしていることが伝わってくるのです。だから余計な気を使わせたらいけないと冷静になるのかもしれません。そしていつしかキヨリの仕事のやり方は今働いているこの病院が標準となってきています。相変わらず効率良く働こうとする癖は消えませんし、そのことで多少イライラすることがありますが、周りもある程度仕方がないと思ってくれているのかもしれません。

 ただ、ヤマブ医師だけはそうは思っていないのかもしれません。

「あ、ヤマブ先生が明日、電動ノコギリを使いたいから用意しておいて下さいって言われていました」

 キヨリは忘れずに言えたことにホッとします。けれども、コミナミさんは、「そう、やっぱり」と、答えてくれただけだったのです。だからキヨリは「やっぱりって?」と尋ねたのです。

「ヤマブ先生にどんな手術をするんですかって聞きに行ったの?そうしたらだいたいこういう手順で手術するって、計画表みたいのをくれて、用意する機械を説明してくれたの。その時にノミをつかうとは言っていたんだけど、電動ノコギリを使いたくなるんじゃないかなって、思っていたの」

「コミナミさんは手術の時はいつもヤマブ先生のところに行かれるんですか?」

 言われた機械をすぐに渡せるように準備はしているのですが、手術全体の流れや事細かな術者の行いまでキヨリは今まで聞かなかったように思います。それは看護師の仕事ではなくて医師の仕事だと思っていたからです。

「いつもじゃないわよ。決まりきった手術は聞かないわ。でも、確認だけはするのよ。今度の手術も以前ヤマブ先生が執刀したことのある方法に似ていると思ったからだいたいの想像はつくんだけど。でも医学は進歩しているじゃない。ヤマブ先生は勉強家だから学会や論文で吸収してきたことを応用することはよくあることなの。それと、流れを共有できればスムーズにできるし、ヤマブ先生と助手の先生、それと私がそれぞれ手術の手順を確認することが出来たら手術のリスクは減るから」

 つまり、患者さんのためよと、コミナミさんからは当たり前すぎるのかその言葉は聞こえてきません。手術はチーム医療だし、患者さんの身体に触れないから、手術に熟知しなくてもいいとは言えないと思っているのかもしれません。

 でもヤマブ医師は明日手術の介助に入るコミナミさんではなくて、なぜキヨリに機械の追加のことを頼んだのでしょう?

 同じことを何度も言うこともあれば、黙っていることもあります。ひよっとしたらキヨリの看護師としての技量を試しているのかもしれません。そう思うとキヨリは悔しさが沸き起こってきます。けれどすぐに、そうは言っても私は何も準備していないんじゃない、って気が滅入ってしまいます。コミナミさんとまではいかないまでも、ヤマブ医師が安心して手術が出来るように何とかしたいとそう思うのです。

 キヨリはコミナミさんをまねしようと思います。だから、忙しいヤマブ先生を捕まえて手術の内容を聞きだそうとします。

「最近、よくヤマブ先生のところに行かれますね」

 手術場の年下の看護師にそう囁かれます。面と向かってなので気にしません。そうねと、笑うだけなのですが、その後輩が実はヤマブ医師とキヨリが付き合っているんじゃないかと勘ぐっていたとはしばらく気が付かなかったのです。そして、それほどヤマブ医師に会い、手術について教えてもらっているという今に驚いています。それでも、キヨリにヤマブ医師が仕事以外のことを語りかけることはありません。冗談も言いませんし、その言い方にも優しさはありません。いつ行っても心の中ではどう思っているのかはわからないのですが、手術について手短に教えてくれます。忙しければ断られますが後で必ず連絡をくれます。

 ヤマブ医師に対して始めたことですが、キヨリは他の医師に対しても極力同じように聞きに行くことにしたのです。もちろん人工関節手術などは、ほぼ決まりきった手技ですが、それでも機種が変更になることもあります。そうすると微妙に使用器具が変わり、何よりも術者がその手術に神経質になります。だから、キヨリも出来るだけ手技を熟知して、スムーズに機械を渡せるようにしようと思うのです。けれどヤマブ医師のようにキヨリの疑問に答えてくれる医師ばかりではありません。言われた通りにしてくれたらいいからとか、手技書に書いてあるんだから読んでおいてくれればいいだとか、挙句の果てには、医者じゃないんだからと捨て台詞を投げかけられることもあります。

「医者には自分のペースがそれぞれあるから」

 コミナミさんに相談するとそう答えられます。それは言いかえれば我儘だからということにもなります。だから、機械渡しのタイミングが遅いと怒られるのですが、反対に早くても怒られるのです。手術も手順を知ったかぶりすると怒られるし、今日はあまり言わないようにしようと思っても怒られるのです。

「外科医を扱う手技書があればいいんだけどね」

 キヨリはそれまで一生懸命だったのでわからなかったし、患者さんのためには一生懸命やることは間違いではないのだと信じていたのです。でもおそらくどの社会でも同じなのでしょう。人間だから医師も個性があります。病院では医師がいないと機能しません。そう考えると仕方がないのかもしれません。でも、本当にそうなのでしょか?キヨリはやはり納得がいかないのです。

 キヨリはそれから他の医師の所に行く時には、手を抜くということではないのですが、少し考えてから行くようにしたのです。チーム医療と叫んでも、良い方に進めばよいのですが、悪い方に進めば患者さんに悪影響が出るかもしれませんし、患者さんにとってそんなチーム内の事情など関係ないからです。

 そのうちキヨリはヤマブ医師のチーム手術に入ることが多くなります。外傷の救急患者さんやその再建手術をメインにしていて、看護師の教科書にもあまり載っていなかったので、ヤマブ医師に毎回手術について聞きにいかなければなりません。いつしかキヨリにとってそれは仕事の一部というか、普通のことになっていきます。もはや、聞きに行くこと自体の遠慮も無くなっていたのです。そうすると、ヤマブ医師が考えていることまでわかるように思えてきます。ヤマブ医師は何も言い返すこともなく、表情一つ変えないでメスを持ち、手術を続けていますが、阿吽の呼吸で機械を渡すと軽く頷いてくれるようにも見えるのです。

 キヨリはそんな毎日が楽しくなります。ヤマブ医師のチームには自分が必要なのだと思ってきます。コミナミさんにも今では負けない、いやそれ以上だと思っても来ます。

 手術場の控室で今日も朝から手術が始まります。動かなくなった手を再建するために、筋肉を移植し、神経を移植し、腱を移行しと、長丁場の手術です。この手術は予定手術だったので、キヨリはもう何回もヤマブ医師のところを訪れています。手術の流れはもうドラマのセリフのようにすべて頭に入っていますし、そのための機械も十分に準備しています。きっと、私の介助手術はうまくいくし、ヤマブ医師はストレスを感じないはずだと、そう言う自信が湧いてきます。だからキヨリはつい後輩に言ってしまったのかもしれません。

「先生には私がいなくちゃね」

「先輩ってストーカーみたい・・・」

 後輩のなにげない一言にキヨリから一気に血の気が引きます。身体が小刻みに震えてきます。キヨリはそれでも勇気を振り絞って手術の介助に入ろうと手洗いを始めます。けれどもいくらしっかり手洗いをしても、汚れがとれません。それどころかどんどん汚れが目立ってきます。早くしなくちゃと思ってももはや動悸が激しくなっていくばかりでまったく収まりません。そしてついに操り人形の糸が突然切れたように手術場の冷たい床に崩れ落ちたのです。

「あの人がまたやってくる」

 キヨリは遠のく意識の中でそう叫んでいたのです。


(二)


 キヨリは四年生の看護大学を卒業すると、その大学が実習をさせてもらっていた大学の付属病院で働き始めたのです。何もかもが学生時代とは異なり、患者さんに実際接するということと命を扱っているという緊張感に耐えられなくなって、新人看護師の中には途中で病院を変わったり、看護師自体を辞めたりした人もいたのですが、キヨリは悩みすら考える余裕がなかったのか、毎日くたくたであっという間に時間が過ぎって行ってしまっていたのです。

 それでも一年ほど経つと仕事にも慣れてきます。まだまだ見様見真似の所が多いのですが、自分で考える余裕が生まれてきたのです。それは、看護師として決められている仕事をこなせるようになってきたということだけではありません。病棟勤務であったために、患者さんに合わせた看護が出来るようになりたいと思う心が芽生えてきたということです。辞めていった看護師の中には、看護師なのにどうして話し相手になってあげなきゃならいのと不満を漏らす人もいれば、患者さんの心を和ませることが大事だと、看護業務そっちのけにして病室で話し込んで主任に執拗に注意されている人もいたのです。

 キヨリはそのどちらともが悪いとは思いません。けれどもそのどちらにだけ傾くこともできません。それはある意味中途半端なのかもしれないのですが、看護師という社会性はそのすべてをまだ容認することはできないのです。弱者の心のケアをすることは時間のかかることです。新人であるキヨリまでもがくたくたになって働かなければならない現実と、かと言って決められた時間以上の労働を制限する現実は、キヨリにも何となくは理解できます。

 勤務は三交代制で行われます。だから、引き継ぎをすれば、担当の患者さんからのコールは聞こえてきません。それでも自分が担当している間に急変した時などは、たとえ勤務が終了したからといって全く気にならないということはないですし、きちんと勤務時間にその患者さんに対応したのだろうかとか、看護業務にミスはなかったんだろうかとか、次の勤務の看護師に様態の変化を伝えられたのだろうかと気になることもあります。新人の頃はそのことが気になって病院へ戻ってきたり、次の日の朝早くに出かけて患者さんの様態を確かめたりしていたのですが、そんな情熱も少しずつ冷めていきます。

「ごめんね。迷惑ばかりかけて」と、身体を拭いてあげていた御婆さんの背中越しに見える涙に恐縮したり、「お見舞いをもらったんだけど私はこんなに食べられないから」と、こっそりとお菓子を渡してくれた末期がんの患者さんの笑顔を垣間見たりしていると、キヨリの看護師としての一つ一つの糧になっていくようですが、職業としての覚悟を試されているようにも思われるのです。

 それでも、看護師の仕事を誤解しているのか「姉ちゃん、さっさと食事をもってこい」とか、入浴介助の必要がないのに「身体を洗ってくれ」と、言われると、いまだに看護師のことをどう思っているのか、女性だからそう言われるのか、悲しくなることもあります。

 だからではないのですが、結局良いことも悪いこともどの社会でもあるし、平均化することによって自分を慰めていくようになってきて、いつしか、働き始めのような熱意は、ご飯でも食べに行こうからお酒を飲みに行こうに代わり、映画を見に行かないから旅行に行かないに代わっていくのです。

 そんなたわいもない日常に当然恋愛があってもいいはずです。看護師が恋愛をしてはいけないということはないし、誰かに優しくされたいと思うのは皆と同じだからです。でも、病院勤務をしているキヨリに、現実はなかなか夢物語を語ってはくれません。なぜなら、キヨリは積極的な性格ではないからです。むしろ受け身です。それは女性としてのたしなみではありません。性格なのかもしれません。だから、高校生の時も同級生の中には彼氏とつきあっていた子も結構いたのですが、キヨリは誰とも付き合えなかったのです。男の子から声を掛けられたことがないわけではなかったのですが、遠回りに見てしまう癖が反対に男の子の自尊心を傷つけてしまっていたのかもしれません。

 男はすぐ顔で判断すると言っても、女も結構顔で判断しているから差別ではないのですが、顔への評価の依存は圧倒的に女性の方が大きいと思います。キヨリの女性としての容姿がどう評価されているのかよくわかりません。瞳は二重で大きい方なのですが、男性的な顔の作りかもしれないので、小学生の頃は怖い顔だと、ブスとは言われなかったのですが、それはそれで辛いものがあったのです。それが、中学、高校と少しずつ大人になるにつれて、少しダイエットしたこともあって、きりっとした顔立ちだと表現が変わってきたのです。それでいて、キヨリは優しかったのでそのギャップに男が興味を持ってくれることもあったのです。けれどもキヨリと話すと皆が少しうろたえます。それはキヨリの声がその凛とした顔立ちに比べて幼く少し高い声というか、おとなこどものような声をしていたからです。もちろん、キヨリはその声が変だとは自分では思っていません。友達も話していて嫌がるそぶりは見せません。そのギャップを感じる男だけがそう思うのです。きっと、しばらく付き合っているとそれほどでもなく普通の女の子という感覚になってくるのでしょうが、ちょうど思春期の時に露骨に男の子に、「顔と何か違うんだよな」と、何が違うのかわからないのですが、そう言われると、キヨリのような性格ではつい二の足を踏んでしまいます。

 結局恋愛の免疫もないままに学生の時に初めて、同じように看護師を目指している男性と付き合ってみたのです。きっと、看護師を目指している彼ならそれほど私のギャップが気にならないだろうと思ったからです。けれど、彼はまだ看護師ではありません。看護師を目指していてもその時はまだただの学生です。若い彼は、男としてキヨリに近づき、男としてキヨリと付き合い、そして男としてキヨリから去って行ったのです。きっと、そう説明すると女の子なら誰しもがわかることでしょうが、キヨリは思いだすだけで恥ずかしくなります。キヨリもどうしていいのかわからなかったからかもしれないのですが、そんな男に女として受け入れさせ続けていたのです。それでも、彼が一緒に写真を撮ろうと言った時にはさすがに女であることを止めます。もはや、女ではなく人に戻ろうとしていた時だったので良かったのかもしれませんし、そういう時になるまで言わなかったのは彼の優しさだと、本当はずうずうしさなのでしようが、今ではそう思おうとしています。

 キヨリはそれから年上の社会人の男性と恋愛をします。とてもいい人だったし、大事にしてくれたのですが、キヨリはもはや看護師として働きだした時だったので、次第に会う時間が少なくなったのです。もちろん彼も男です。けれども彼は女だけを求めなかったのです。だから安心したのかもしれません。仕事も忙しくなっていたので、一方通行として甘えるだけになります。きっと彼も甘えたかったに違いありません。もっと自分が大人だったら理解できたのかもしれませんが、彼の何気ない不満で、キヨリはつい泣いてしまったのです。きっと怒ったほうが良かったのかもしれません。彼はキヨリを幸せにできなくなったと去って行きます。もちろん、そんな簡単な話ではないのです。気分次第で風景は変わりますが、過去の出来事は決して変わらないのに誰にも分からないのです。

 キヨリが、大学で仲の良かった友達数名と看護師になってから始めて行った沖縄旅行からお土産を持って帰ってきたときに、キヨリが受け持ちだったおばあさんが亡くなっていたことを知らされます。きっとキヨリが主治医なら帰ってこられなかったとしても病院から連絡が必ずあるはずですが、看護師には全くありません。あれだけ日焼けに注意していたのに少しひりひりすると、明日は皮膚科で何か塗り薬を処方してもらおうと、少しけだるさを感じながらナースステーションで引き継ぎを聞いている時に始めてそのことを知ったのです。それは引き継ぎを行っている看護師が話してくれたのではありません。引継ぎがなかったからキヨリが聞いたのです。キヨリはその時とても動揺しますが、夜勤明けで引継ぎを行ってくれている先輩の顔色に同情はなく、「のんきに旅行になんて行って、疲れているのよ、引継ぎはちゃんとしてね、仕事だし、患者さんが居るのよ」と、そう言っているように思えます。

 キヨリは旅行に行ったことを後悔しますが、その患者さんに特別お土産を買ってくることはありません。当然病棟に居るはずだと思っているし、ずっと担当していてずいぶん親しくしていたのですが、それでも入院患者さんのひとりとして接しなければならないからです。

 そんな時にキヨリはインターネットを始めます。誰かに自分の気持ちを知ってもらいたかったのです。今までのキヨリの性格から考えるととても勇気がいるように思えたのですが、パソコンの前に座ると人が変わったようにキーボードに語りかけていたのです。

 キヨリがA男につい電話をしてしまったのは、A男とインターネットでメールをし合ってから三カ月たってからです。特にA男から一度お会いしませんかという決まりきったメールが来たわけではありません。なんでも自分の悩みをうんうんと聞いてくれるA男に安らぎを感じたのかもしれませんし、もしこのまま、電源を切られたらどうしようという不安もあったので、特にA男に好意を持っていたわけでもなかったのに、自分の我儘がそうさせていたのです。

「もしもし、ヤナドです」

 当たり前すぎる電話の始まりです。

「A男です。本当にヤナドさん?」

「はい」

「想像とは違っていました。ずいぶん可愛らしい声をされているんですね」

 キヨリはA男からそう言われても別に驚かなかったのです。女として見られるようになってから男から言い続けられてきたことだからです。それにA男と付き合おうとしたわけではなかったので、ワザと声色を変える必要もなかったのです。

 キヨリにとってそのことは別段特別なことではなかったのですが、A男にとっては何かにスイッチが入ったようだったのです。そして、そのスイッチはそれから八年の間、押され続けていて、いまだにその音は消えていないのです。

「それでさ、あの作品の主人公なんだけど・・・」

 文字ではなく音に代わっても、今まで通りA男はキヨリの心をしばらくは優しく聞いてくれていたのです。それが、ある日から急にキヨリの音を遮り自分の話をはじめたのです。そして、A男はアニメが好きだということがその時になって初めてわかります。だからと言ってA男を毛嫌いすることはありませんし、今までキヨリの話を一方的に聞いてくれていたのだから、今度はキヨリが聞いてあげなくてはと思ったのです。けれど、キヨリはアニメにまったく興味がありません。

「主人公の彼女を励ます、ちょっとおとなしいメガネ少女がやたらかわいいんだ」と、言われたところで、キヨリには全く分からないどころか、もしその作品を見せられても、「そうよね、わかる~」とは決して言えないのです。だから、キヨリはそれからまた音ではなく文字に変えようとしたのです。

 そうしたら、電話が鳴りっぱなしになって、だから文字で返してあげるとまた電話が鳴って、それで文字で返してを繰り返すようになったのです。

 そのことにキヨリは少し怖くなって電話番号を変えようと思ったのです。ですが、A男から何かされたわけではありません。着信履歴が数えられなくなるほど残っているだけです。それも削除すればすぐに消えます。それにこれまでさんざんA男に長々と文字を送り続けていたのです。反対にもし興味のないことを送り付けられたらと、それでもA男は気持ち悪がらずに付き合ってくれたと思うと、そう簡単には出来なかったのです。ただ身勝手なことに、もはやA男にキヨリの心を聞いてもらおうとは思わなくなっていただけです。

 それで勤務時間は無理だったのですが、それ以外は十回に一回ぐらい音で対応してあげたのです。けれどもそれが却ってA男に響いたのかもしれません。音がだめなら文字で救いを求めてきたのです。けれど、

「声を聞かせてください」

「声を聞かせてください」

「声を聞かせてください」

「声を聞かせてください」から、

「声を聞きたい」

「声を聞きたい」

「声を聞きたい」

「声を聞きたい」、そして、

「声を聞かせろ」

「声を聞かせろ」

「声を聞かせろ」

「声を聞かせろ」に代わって行ったのです。

 キヨリはこうなったあとでも、誰かに相談することはなかったのです。A男はわかってくれる。きっとあの時のキヨリの文字にうんうんと穏やかな文字を送ってくれたA男に戻ってくれる。そう思ったのです。

 キヨリはまたつい電話をしてしまいます。文字の感情は荒くなっていくのに声は穏やかだからです。

「ねえ、私の声って幼すぎない?だから私、話したくないの。文字だと音がしないから」

「何言っているんだ。前にも行っただろう。サナドさんは僕のヒロインなんだ」

 スマホの向こうで恥ずかしがっているようなその口調に、キヨリは身震いします。でも、そうか、A男はやはりアニメオタクなんだ。そう言えば、えーっと、と、A男が以前話していたアニメのキャラクターを思い出します。眼鏡をかけたって言っていたような、そう、きっと目じりの下がった瞳の、色白で癒し系の、守ってあげたくなるようなかわいい少女だったように思います。だから、キヨリは少し濃い目にきりっとした化粧でA男に会おうと思います。きっとキヨリの顔を見てA男は失望するに違いありません。キヨリからではなく、A男から離れていくはずです。

 そんなキヨリの淡い望みはきれいにうち砕けます。なぜなら、A男はアニメオタクではなくストーカーだったからです。


(三)

 

 A男はキヨリより2歳年上で、ごく普通の男のひとです。血走っている瞳で瞬きせずに見つめてきたり、体臭をまき散らしながら大きな脂肪の塊を揺らして迫ってきたりという、テレビや映画で擦り込まれた異常者の風貌は微塵もなかったのです。

「サナドさんですか?」

 待ち合わせの喫茶店で、電話で話した服装でずいぶん先にやって来て待っていたので、聞きなれた声で穏やかに話しかけられてきてもビクッとすることはなかったのです。

 A男は席に座るとしばらくキヨリをじっと見ていたのです。しばらくといってもきっと数秒ぐらいだったのでしょうが、とにかくキヨリを見ています。キヨリもA男を見ています。まるでお見合いの様ですが、キヨリはこの顔を見て、A男がげんなりするのを期待しているだけです。

「がっかりしました?」

 キヨリはA男に言われてそれが肯定文ではなく疑問文であることを理解します。そして、それはA男の印象を聞かれていることだと理解します。A男はさわやかな笑顔を見せます。目鼻立ちがきりっとしていて好青年という印象です。きっと、A男の見た目の第一印象だけで付き合ってみようと思う女子はいるでしょう。そういう印象です。だから、キヨリは「いいえ」と、短めに言ったのです。けれど、もはやキヨリにとってA男の容姿などどうでもいいことです。A男はキヨリにとって決して相容れない存在だからです。

「私こそがっかりされたでしょう。みんなずいぶんギャップがあるっていうの?」

「どんなギャップですか?」

 キヨリは「えっ」と、思ってしまいます。

「だから、声は幼いのに、顔はかわいくないから・・・」

「そんなことはないですよ」

 A男は困惑したそれでいてお世辞ではないような表情でキヨリをくるんできます。

「でもA男さんは、アニメの・・・、私はよくわからないですがそのアニメのキャラクターの可愛らしい女の子が好きだって言っておられませんでした?」

 キヨリははっきりと言ったのですが、その言葉にA男は答えてくれないばかりか、反対に、キヨリが曖昧に言ったそのアニメの題名とその少女キャラクターの名前をスラスラと説明してくれたのです。

「それで?」

「それでって?」

「だから、私そのキャラクター少女には似ても似つかないでしょう?」

 A男はしばらく、いや、ほんの二~三秒、キヨリの顔をまるで無表情で生気のないように思えてその瞳の奥から冷気を発するような間で、凝視します。

「そうだね。似てないね。でも、その愛すべきアニメのキャラにはもう一つのキャラ、すなわち二面性があるんだよ。声は同じなんだけどね」

 A男は今度はそのアニメ少女についてもっと詳しく十分いや三十分以上も話し続けていたのです。当然キヨリはすごいとか、わかったとか、相槌をつくことは決してありません。反対に、一方的な会話をへし折ってやりたい気持ちなのです。でも、そうできないようなA男の、あの表情が怖くて何度も目の前にあるジュースを口にしているのに、喉はからからで、乾いた言葉は出て行ってはくれなかったのです。そしてA男は、「やっとその少女に会えた気分だ」と、微笑んだ時にはもはやこの行為がキヨリにとってもっとも致命的なことだと知ったのです。会わなければ良かった。会わなければ少なくともA男に私の姿は記憶されない。電話やメールに出なかったり返信しなかったり、スマホを変えたりすれば良かっただけなのに、今、A男の記憶にはそのキャラクター少女が動機づけとなってはっきりと声と顔が記憶として脳に刻み込まれています。

「私は、でも二面性はないわ。声も顔もこのままだし、性格も変わらない」

「そうかな。ヤナドさんは時々冷たくなるから」

 何言ってるのよ、それはあなたが執拗にメールを送って来たからじゃない。冷たいんじゃないのよ。迷惑だから、怒っているのよ。普通の感情よ。と、キヨリは言い寄りたかったのですが、すべて無駄な様な気がしたのです。だから、丁寧にこれまでの自分の気持ちを素直に言おうと思ったのです。

「ごめんなさい。私が呼び出したのは、A男さんに言いたいことがあったからなの」

 A男は不意を突かれたような怪訝な表情をやっと取り戻してくれます。

「私は、A男さんにこれまで色々と相談に乗ってもらったというか、自分のことをいろいろ聞いてもらったけど、やっと元気になれたの。だからこれからはA男さんに頼らずに自分一人で何とかやって行こうと思ったの。だからね、初めて会ったんだけど、お礼を言って、もう二度とA男さんに頼らないでおこうと誓って今日来たの」

 A男はキヨリにそう言われて、虚を突かれたような驚きも、最後だと言われた悲しみもその表情には一切見せることはなかったのです。ただ、なぜか余裕があるような微笑みでキヨリに。「僕は平気だよ」と言ってきたのです。

 僕は平気だよって、どういう意味?気にしないっていうこと?私は嫌なの、だから来たの、どうしてわかってくれないの?と、心の声が反響しています。

 だからキヨリは思い切って、最近のA男の言動が私にはおかしいと思うし、私には迷惑だし、今までのことがあるから本当に心苦しいんだけど、もう電話もメールもしたくないし、はっきり言って二度と会いたくないんですと、はっきり言ったり、口ごもったり、謝ったりしながら話したのです。A男は静かにキヨリの言葉を聞いています。そして、キヨリの言葉が途切れると口を開きます。

「やっぱり、ヤナドさんははっきり言うね。僕、さっきヤナドさんは冷たい所があるって言ったけど本当は芯が強いんだと思うんだ。さっき話したアニメのキャラもかわいくて幼くて弱々しい声で助けを求めてくるんだけど、実は芯は強いんだ。だから、今のヤナドさんの顔はその感情が創りだしているだけで、実際はそんな女の子じゃないはずだと僕は思うんだよ」

「顔は変わらないわ」

「そんなことはないさ。だって、いくらその顔で言われても、その声は変わらないじゃん。本当は、冷たくなれないんでしょう。僕と一緒に居たら、きっと、もっと優しい顔になれるよ、その声と同じように幼い子供の時のような素直な顔になるよ。きっと僕が変えて見せる」

「いやよ。私の顔は生まれてからこのままよ。誰にも変えさせはしない。それに声も私が優しいからそういう声になったんじゃないわ。なぜなら私より優しい人は五万といるし、もしそうならその人達はみんな私よりおさな声になるはずだから」

 キヨリは必死に言葉を紡いでいるのに、A男は瞬きもせず視線も一向に動かさないのですが真剣に聞いているとはどうしても思えなかったのです。

「大丈夫?本当に大丈夫なの?」

 だから、A男はいきなり、不自然とは思わないような感情で言葉を投げ込んできます。

「はい」

 キヨリはそう言ってから、でもA男が居なければもっと大丈夫だといいたかったのですが、ぐっと言葉を飲み込んでしまいます。

「でも、僕はやっぱり心配なんだ。また、ヤナドさんが色々と悩むんじゃないかって」

「そんなことはないですよ」

「だって、ヤナドさんは看護師さんでしょう。それも、不規則な勤務だし。あの病棟は重い病気の人達もいるから看護も大変じゃないの?そういう時のヤナドさんの顔はとても疲れているし、僕には優しそうに見えたんだけど。それとも、それは友達と旅行に行ったりして解消するの?」


 キヨリはA男について何一つ知りません。だから出来るだけの情報を集めようと探偵社に依頼しようと思ったのです。その前に誰かに相談したら良かったのでしょうが、キヨリの周りの人で同じような悩みを持っている友達がいるとは思えなかったのです。A男はキヨリのことをどれだけ知っているのかわかりません。けれども別れ際にA男に言われたことを思うとぞっとします。あの時、キヨリは急に席を立って店から出て行ったのです。もっと冷静になってA男に質問することも出来たのに、もはや冷静な気分ではいられなかったのです。女性一人で探偵社に行くなんてことがどんなに勇気のいることか誰もわかってくれないだろうし、探偵社がテレビドラマの様ではないと思うし、若い女性が一人で行っても適当に扱われてお金だけとられるんじゃないかと、心配だったのですが、それでもキヨリは一人である探偵社を訪れたのです。

「どういうご依頼でしょうか?」

 この探偵社は女性所長であると聞いてキヨリは訪れたのです。前もって電話で連絡していたので、スムーズに通されます。簡単な料金体制を説明されたあとに、きちんとスーツを着た女性所長が対応してくれます。

 キヨリはA男のことを話します。

「それでどのような被害を?」

「今のところはメールが来るだけです」

「どのような?」

「声を聞きたいって・・・」

「それだけですか?」

「はい」

「それで?」

「それで?って?」

「それで、どうされたんですか?」

「時々、電話に出ます」

「その時に何か脅迫めいたことや、嫌なことを言われましたか?」

「いいえ。私の声を聴くと急にメールの時の荒々しい文字とは違って、穏やかに話してくれます」

「あなたは何か話すのですか?」

「もう、メールはして来ないでくださいと言うだけです。そうしたら、ごめんなさいって、でも私のことが心配だって言ってくるので、大丈夫ですとだけ言って電話を切ります」

 女性所長はキヨリの話にため息の表情を投げかけることなく聞いてくれます。

「それで、ご依頼は?」

キヨリは最後にA男から話されたことを伝え、A男のことを知りたいと言います。

「わかりました」

 所長はそう言うと、A男の電話番号と、メールのアドレスをメモします。

「あの~。彼はストーカーですか?」

 キヨリは女性としての心情をなんとかくみ取ってほしいと控えめに尋ねます。「当社には、あなたのような方がよく来られます。推測で言うのは控えますし、探偵社は警察ではありません。ただ、アドバイスとしては、これからA男との会話やメールは記録して破棄しないでください。今は何も被害がありませんが、もし、そうなった時には証拠になりますから」

「それで、これから私はどうすればよいのでしょう?」

「それは私にもわかりません。電話に出れば、今までの関係が続くだけですし、出なければ次のステップに移行するかもしれません。それはあなた次第です」

「でも・・・」

「そうですね。さぞかし心配でしょう。しかし、警察は被害がなければ決して動いてはくれません。でもそれは身体を傷つけられたということだけではありません。だから、記録が必要なのです」

 キヨリは、どうしたらよいのかわからなかったのですが、A男からの着信履歴は減りません。電話番号を変えると、着信記録が残らないし、キヨリが丸裸に晒されているので、その方が怖いとも思ったのです。でも、電話に出るのは嫌だったので、時々、メールだけは返信することにしたのです。

「声を聞かせろ」

 電話に出ないキヨリに業を煮やしたのか、荒い言葉で執拗にメールが届きます。恐かったので、つい電話に出ます。そうすると、A男はやはり相談事があるんだねと、穏やかになります。

「私の声・・・」

 キヨリは自分の声がA男に何らかの刺激を与えていることはもう十分わかっています。昨夜も、担当の患者さんがキヨリの声を聴いて、痛みが落ち着いたと言ってくれたのです。キヨリは、今、看護師として働いている時が一番心が穏やかになります。何もかも忘れられるし、仕事だと自分に言い聞かせることが出来るからです。けれども、その声が・・と、思うと複雑です。でも、その声は変えられませんし、なによりも変えたいとは思っていません。

 そんなキヨリに探偵社から連絡が入ります。

「A男はA男という名前ではありませんでした」

 探偵社の女性所長は少しだけですが前置きしながらも電話でA男について淡々と報告してくれます。キヨリは所長の声をもはや覚えています。そして不思議なことにその声を聴くと安心します。だから、その内容を思わず聞き逃すところだったのですが、最後に少し残念な音色で所長が言った言葉だけははっきりと残っています。

「彼は過去に軽い障害事件を起こしています」


(四)


 キヨリは盗聴器が仕掛けられていたり、部屋に入られたりするのではないかと怖かったので、引っ越しをします。でも、きっとA男も何らかの手段でキヨリを調べているはずなので、無駄なことかもしれません。少しは安らげるのではないかと、淡い期待にかけてみただけです。キヨリにはまだ何も身体的な被害は及んでいません。もちろんそのことを望んでいるわけではありません。ただし、A男のことが少しわかったことでなぜか心配事が一つ減ったような気がします。きっと気のせいなのでしょうが、そう思い込むしかなかったのです。探偵社には引き続き、情報の収集とA男の監視を頼みます。旨くA男に気付かれないようにと思うだけですが、きっとその男性も探偵を雇っていますから、と不気味なことを言われます。

 キヨリはこれからどうしたらよいのか考えますが、なかなか答えは出ません。だから休日に実家に戻ろうとします。念のためにスマホは置いておくことにします。もしかしたらA男がこっそりとついてきているんじゃないかと思って、なんども後ろを振り向き、雑踏に紛れ込むようにして移動したのですが、ちゃんとできていたのかわかりません。

 キヨリは両親に相談しようと思ったのでありません。キヨリの両親は幼い頃に亡くなったからです。兄弟もいません。だから、キヨリは祖父母に育てられます。祖父母は資産家で登山の際にしばしば立ち寄っていた里山が気に入って、平屋建てですが、昔は旅館をしていたという古民家を大そう改築し、幼いキヨリを連れて引っ越してきたのです。

 もはや資産運用で収入を得ていたので、悠々自適の生活を送れていたようです。キヨリも田舎であるということを除いては、特に不満はなかったし、週末になると以前住んでいた都会のマンションに戻ることもあったので、それほど刺激が少ないということはなかったのです。里山の人は皆親切だし、最初は他からの移住者ということで敬遠気味なところもあったのかもしれませんが、祖父母が出来るだけこの場所に溶け込もうとしていたので、それからは却って少し洋風な趣の祖父母の家が社交場となっていったのです。

 祖父母はよくキヨリのためにしてくれたのです。特に祖母は母親代わりとして時には厳しく接してきます。母親ならきっともっと優しく接してくれるのにと思いながらも、女性としての可愛らしさと気丈さを祖母なりに伝えようとしてくれたのです。

 キヨリはこれまで祖母に悩みを話してきたのです。キヨリが黙っていても祖母に見破られるからです。けれどすべてではありません。それはキヨリの秘密です。そして、そういう時にキヨリは決まって里山の神社を訪れていたのです。神様にキヨリは全てを語りかけていたのです。

「御婆さんはいつも私にみんなに優しくしなさいと言うの。女の子なんだからって。神様はどうして男の子と女の子を決めたの。私にはわからない。そのことを誰も教えてくれないの。でも、何となく最近わかってきたの。だって、男の子と女の子は身体の作りが違うから。でもね、それと女の子だからってことは関係あるの?

 実はね。私、御婆さんに怒られたの。それはね、同じクラスにいるモーちゃんを叩いてしまったからなの。別に喧嘩したわけじゃないのよ。でもね、モーちゃん、私のスカートをめくってくるの。私は女の子だから、スカートを履くわ。男の子にはわからないと思うんだけど、私はスカートが好き。スカートを履いている私が好き。だってそういう風に育てられたからだし、何といってもスカートはかわいいし、御婆さんは私にとっても似合うスカートを買ってきてくれるから。だから反対にこんなにかわいい服があるのに、男の子はどうして履かないの?って、不思議に思ってしまう。男の子だってスカートを履けばいいのにと私は本当に思ってしまうの。でもね、男の子は履かない。男の子は動き回るから、スカートを履くとパンツが見えてしまうって。確かに、パンツが見えるのは恥ずかしいわ。どうしてそう思うようになったのかわからないけれど、確かに私のパンツが誰かに見られるのは恥ずかしい。でも、私のパンツもかわいいのよ。神様だけには言うけど、クマさんのバックプリントのパンツが一番のお気に入りなの。けどね、スカートはかわいいから皆に見てほしいんだけどね、パンツは見てほしいとはなぜか思わないの。私は兄弟がいないからわからないけど、御婆さんと買い物に行った時に、男の子のパンツって、テレビのヒーローもののプリントがあるのかなと思って聞いてみたんだけど、あるんだけどあまり履かないみたいだって言うの。昔は白だけだったらしいけど、最近は色がついていることが多いって。でもかわいくはないようなの。それに、そんなパンツだから見られたってかまわないって。でも、男の子はズボンを履いているでしょう。いくら走り回っても、ズボンが破れない限り、見えないでしょう。

 私だって走り回りたいときもあるの。けど、体操着に着替えないとダメでしょう。でも、かわいくないし、ズボンも嫌だし。だったらどうするのって?もちろんズボンで学校にくる女子もいるわ。でも、私は嫌、絶対に嫌。だから、私はできるだけ走り回らないように、滑ってこけないように、パンツが見えないように、おしとやかにするの。でも、それっておかしいって思う時があるの。

 モーちゃんの話だけど。三か月前かな、モーちゃんが急に私のスカートをめくってきたの。それまでそんなことは一度もなかったわ。だから私びっくりして。そして、恥ずかしくて、最後には泣いてしまったの。でもね、いつもだったら、私が泣いていたら、同じように悲しい顔をしてくれるのに、その時はそんなそぶりはなかったの。まわりの男の子の中には面白がって笑っているような子もいたけれど、モーちゃんは笑わなかったわ。むしろ何もなかったかのように、私の泣き顔にただ困っているってそういう顔をしていたの。

モーちゃんは友達だし、どうしてそんなことしたのかわからなかったし、他の女の子にはしなかったから、私どうしてなのかわからなくなって、とっても困ったの。でも、誰かに相談することは出来なかったし、そうすることでもないと思ったし。それに、スカートをめくられたってことで、これほど私が悲しくなるとも思わなかったし、でも、自然と次の日からモーちゃんに近づかなくなっている私にもびっくりしたの。それで、私がなにも言わなかったからダメだったのかもしれないと思って、もう一度モーちゃんがしてきた時には、私、「止めて」って、皆に聞こえるような大声ではっきり言ったの。でも、モーちゃんは、また、あの時のような顔をするの。今度は私は泣かなかったのに。

 そう言うことが何回かあって、私、おまじないだと思って、クマさんのバックプリントのパンツを履いて学校に来たの。クマさんが私を守ってくれるんじゃないかって思ったから。でもね、モーちゃんはやっぱりしたの。また私だけにしたの。おまじないは効かなかったわ。それどころか、誰かが「クマがでた」って、大声で叫んでいるのが聞こえたの。その時には、私は言葉よりも先にモーちゃんのほっぺたを叩いていたの。

 私、先生に叱られたの。叱ったんじゃないというんだけど、私にはそう思えたの。だからどうしてって聞いたの。そうしたら、モーちゃんは障害があるって?私、障害ってどういうことって聞いたの?病気?って聞いたの?そうしたら病気ではないんだけど、ちょっと違うって、ちょっと違うって?うーん、そうね、ちょっと弱いの?弱いの?うん、そうね。だから守ってあげないといけないの?でもモーちゃん弱くないし、力持ちだし、駆けっこも一番早いし、弱くないよ、って言ったの。

 でも弱い所もあるでしょう。例えば、そうね、言葉がわかりにくいとかない?そんなことはないわ。だって、私達昔から一緒に遊んでいたのよ。モーちゃんが言いたいことは例え聞こえなかったとしてもなんとなくわかるから。モーちゃん、それに素直だし、嘘はつかないから、私はそんな風に思ったことは一度もないわ。

 それより、もし本当に弱いところがあるんだったら強くならないの。モーちゃん頑張り屋さんだから、強くなれると思うわ。そうね、そうかもしれないわね。でも、もし、強くなれなかったらどうするの。弱いままだったらどうするの?キーちゃんは助けてあげないの?病気だったら、助けてあげるわ、でも、私はそうは思わないわ。それに強くならないってどうして決めつけるの。大人の人が勝手にそう思っているだけじゃないの?だって、モーちゃんがこれからどうなっていくかなんて誰もわからないんじゃないの?だのになぜそう言うことを言うの?

 モーちゃんは何が弱いの?何が違うの?どうして私に教えてくれないの?

 私ね、モーちゃんが弱くても、私のスカートをめくっていいって思わないの。そのことを私が我慢しなければならないとは思わないの。もしかしたら私が女の子だから、男の子であるモーちゃんがしたことは許してあげても、女の子の私がしたことは許してもらえないの?確かに手を挙げたのはいけないことよ。でも、モーちゃんは私を叩かなかったけど、私は叩かれたと同じくらいスカートをめくられたことが痛かったのよ。それも、何回も。モーちゃんは友達だから我慢したし、辞めてって言ったわ。周りの男の子にも。先生にも言ったわよね。でも、何もしてくれなかったじゃない。

 神様、私はどうすればいいの?モーちゃんに明日、おはようって、私は言いたいの」


 祖母が亡くなったのは、中学生の時です。キヨリはその前の齢に初潮を迎えます。女の子にとって、初めて性としての不安が襲ってくるときです。ここは里山です。だから、祖母がどれほどキヨリの力になってくれたか。そう思うと今でも涙が止まりません。祖父はキヨリ以上に寂しかったし、泣きたかったに違いなかったと思うのですが、キヨリを育て上げるという祖母との約束で気丈に振る舞っていたのです。けれど、丁度、キヨリが高校に入学した年に軽い脳梗塞で入院したのです。お手伝いさんがいたので特に困ることはなかったのですが、キヨリがここにとどまって祖父の看護をすると言ったら、「私一人の看護のために人生を過ごすんじゃないと、私は里山近くの老人施設に入るから、お前は私ではなくて誰かヒトの役に立つ仕事をしなさい」と、言われたのです。キヨリははじめ医者になることを考えたのですが、結局、4年生の看護大学に進んだのです。看護大学の時は一人暮らしをしていたのですが、それでも休みになると出来るだけ祖父に会いに行っていたのです。キヨリが帰った時は祖父も施設から一緒に外泊してくれる時もあって、そういう日には朝早く起きて必ず二人で里山の神社にお参りに行っていたのです。

「ねえ、キヨリ幸せかい?」

 清らかな静けさの中、祖父はよくそう聞いてくれます。けれども、その意味は女性としてちゃんと生きているかいっていう意味だということだと今では感じています。

「看護師は女性上位だから。でも男の人にも優しくしてるよ」

 キヨリはくすっとした微笑みで返します。それで祖父が何かを感じ取ったのかはわかりませんが、祖父と恋バナは出来ません。

「キヨリは知っていると思うんだけど、私達の会社は御婆さんのおかげで大きくなったんだよ」

 祖母は女性としての考えは話してくれるのですが、仕事のことは一切言わなかったのです。けれどもキヨリはそのことを知っています。なぜならそれは祖父の口癖だからです。祖父はキヨリに会うと決まって同じ話をします。キヨリは黙って聞いてあげます。

「昔だったし、おばあさんにはずいぶんつらいことをさせたと思うよ。でもね、ワシがさぼっていたわけじゃないんだよ。おばあさんが、ワシの代わりに仕事をすると、なぜかうまくいったからなんだ」

「御婆さんは家の中に閉じこもっているのは嫌だったって言っていたわ」

「お転婆だからね」

「お爺さんが嫁にもらってくれて、お転婆も許してくれて。でも、うまくいったのはお爺さんのおかげだって。御婆さんの知らない所でいろいろと力添えしてくれていたって。ねえ、そうなんでしょう」

「そんなことはないさ」

 祖父はそうキヨリに言われるとつい微笑むようにはにかむように喜ぶのです。だから、同じ話をし、同じ会話を繰り返すのかもしれません。でも、祖母は本当は祖父の口添えが悔しかったのかもしれません。もう少し一人で自由にさせてもらいたかったのかもしれません。けれど、そうできなかったと、嘆いています。祖母にはわからない足枷があったといいます。その足枷を何とか外そうとしたのですが、あの優しい祖父でさえ、外すのを手伝ってはくれなかったどころか、そうさせまいとしているように祖母には思えたようなのです。もちろん祖母からそう直接聞いたことはありません。けれども、女性としての生き方を聞いているとそう思えてしまいます。祖母はだからと言って一人で最後まで戦ってきたわけではありません。祖父を疎んじたわけではありません。しっかりした年輪が周りに認められたら、男社会という言葉は薄れてくると話してくれたのです。キヨリにはまだわからないでしょうねと、だから、優しくしなさい。困った人を助けなさいと言っていたのかもしれません。

「お御婆さんのようには私はなれないわ」

 まだ幼かった頃のキヨリと同じように、手を合わせてみたのです。もちろん神様からは何も聞こえません。傍らで同じように手を合わせている祖父が垣間見えます。けれど、先ほどまでの微笑みは消えています。その代わり、頬には一粒の涙が朝雫のように光っています。キヨリは眩しくて思わず顔を背けてしまいます。なぜなら、その涙は未来ではなかったからです。


(五)

 

 キヨリは、相変わらずA男のメールの口調が荒くなると恐怖を感じていたし、電話番号を変えることがもっと恐怖になるのではとなかなか踏ん切りがつかなかったので、時々電話で話していたのです。話すとA男はいまも丁寧になります。けれども、探偵社の人は、そのことを続けていると、A男との関係が終わらないし、ある程度A男の輪郭がわかってきたので、その行動は予想できるから、A男が近づきそうなら教えますと、言ってはくれていたのですが、A男も誰かを雇っているかもしれませんという女性所長の言葉が耳からどうしても消えなかったのです。

 それでも、少しずつ、電話で話す間隔を伸ばしていきます。そうすると電話口でもA男のイライラが伝わってきます。大きな声になったり、言葉づかいが悪くなったりします。そして、最近のメールでは、「また直接会いたい」が、言葉を変えて送られてきます。

「会いたいと言ってきているんですが?」

「やめた方がいいです」

 女性所長はそう断言します。キヨリもわかっています。けれども、A男に一言言ってやりたい気持ちもあるのです。

「相手はストーカーです。私達が思っている常識は通用しません」

 また、当然のように言われますが、実際、このまま状況が改善されなければ、逃げまわるしかないんだという、鬱積した気分になるのです。

 そんな時です。仕事終わりにA男が病院の裏玄関から急に顔を出してきて、声を出す間もなくキヨリに近づいてきたのです。

 A男は以前のような穏やかな表情ではありません。無表情ですが、瞳の奥から何かレーザービームが出てくるような不気味さだけが視界に拡がります。

 キヨリは腕をつかまれ、身の危険を感じたはずなのですが、それよりも驚きで、身動きできなかったどころか声すら出せなかったのです。

「ヤナドさん、どうかした?」

 仕事帰りの同僚が声を掛けてくれます。きっと、強張るキヨリの表情を見てただならぬ気配を感じて声を掛けてくれたのでしょうが、A男のそれ以上の形相にさらなる親切心は湧かなかったようです。

「何でもないの」

 キヨリは自分でも驚いたのですが、少し微笑みながら会釈します。きっと、そうか、男女のねと、その同僚はA男の顔を別な意味で焼き付けようとしてくれているのかもしれません。

「痛い」

 キヨリの言葉にA男は我に返ったように表情を和らげます。

「ごめんなさい。どうしても声が聴きたくて」

「電話でも良かったんじゃない」

「でも、出てくれないし」

「忙しかったのよ」

「でも少しくらい」

 キヨリは本当に忙しかったのです。卒後三年目となり、病棟の勤務だけではなく、看護研修や看護研究をおこない、看護師の技量をより高めるように看護師長から指導を受け始めていたのです。研究会や研修にも参加するように指示されます。キヨリは病棟業務が嫌いではありません。けれども、看護も医学の発達とともに変化していくし、医療器具や医療材料などを日々習得しなければならないし、社会情勢の変化に伴うデジタル化と既存のアナログ思想との狭間で、看護業務全体をどうこなしていけばよいのか悩んでいたのです。だから反発することなくそのことを受け入れようと、いや受け入れたいと思っていたのです。

 そんな矢先にA男からメールが来ます。キヨリはもうA男と関わり合いたくはなかったのです。仕事に打ち込みたかったのです。だから、思い切って電話番号もメールアドレスも変えてみようとさえ思っていたのです。

 A男が目の前に現れたことでそれが無駄なことだとキヨリは知ります。探偵社は私のことを守れないんだと、おぼろげな落胆が身体の中心から端々まで染み拡がっていきます。

「私がここで働いているってもちろん知っていたんですよね」

 病院の前だと目立つので近くのファミリーレストランにA男を誘います。何か今までの緊張が嘘のようにほぐれていきます。だからか、いつもより早いのですが、キヨリはお腹が空いてきたのです。

「ああ」

「調べたの、調べさせたの?」

 A男は黙っています。

「だったら、私の家に来ればよかったんじゃないの」

 家なら建物の前で見張れるし、防犯カメラで撮影されて記録に残ります。

 A男は黙っています。病院の外なら、防犯カメラもありませんし、たとえ中に入ってきたとしても、人が大勢いてわかりにくいし、単に病院に来たと言い訳できるからです。そのことは探偵社の人も言っていたのです。でも私はこの病院で働いているって言ってないし、今日は日中勤務だって知らなかったはずだしと、やっぱりA男は知っていたんだ、と、キヨリは無性に腹が立ってきます。

「家に入れてくれた?」

「ダメに決まっているでしょう」

 キヨリはおさな声できっぱりと話します。そして、そう言い終えた後に、そうだったとA男の少し落ち着いた顔に後悔します。

「A男さんは、A男さんではないんだってね」

 キヨリは探偵社から得た情報を少し話します。きっと、女性所長は怒るでしょうが、キヨリの心はもはや落ち着かなくなっています。何かにぶつけるしかない。その目の前にA男がいる。そう言う感情だったのです。

 A男は少しだけ反応します。いや、大きく反応しているのかもしれません。けれど、わからないのです。

「調べてくれたんだ」

 A男は意外な言葉でキヨリの思いを打ち消します。

「あなたもそうでしょう。私を調べたんでしょう」

 A男はニヤリとします。その細めた目は相変わらずどこか遠くを見ているように思えます。

「私はあなたに会わなくても大丈夫ですから」

「本当?」

 キヨリはもはや本当に悩みがなくなっていたのです。いや、仕事に没頭するあまり、今そうことを考えられなくなっていたのです。

「私がまだ悩みを抱えていると思っているのかもしれませんが、そんなことはないです。だから・・・」

「だから?」

「だから、もう二度とあなたに会いたくないんです。」

「でも、ヤナドさんは僕のことを知りたかったんでしょう。だから、僕のことを調べたんでしょう。今は悩みがなくなったのかもしれませんが、また悩んだ時には僕の助けが必要になると思ったから、調べたんでしょう」

 A男は表情一つ変えないでいます。キヨリを思いやっている素振りもありません。

「また、悩んでもあなたに相談することなんて絶対ないわ」

「ひどいなあ」

「ひどい?どっちがひどいのよ。私はあなたからメールも電話も受け取りたくはないのよ。そのことははっきり言ったわよね。なのに何回もメールしてくるなんてどうかしてるわ」

 キヨリはつい声を荒がえてしまっていたのです。けれども、キヨリの声はあのかわいげな声のままです。顔はものすごく紅潮し、眉すらつり上がっているのに、店の中で二人で話しながら食事している姿以外は、周りはそのことに誰も気づいていないのかもしれません。なぜなら、無表情だったA男がニコニコし出していたからです。

「でも、時々僕に電話で話してくれた」

「そうよ。あなたのことを色々調べなかきゃならなかったから時間稼ぎしていただけよ。でも、もうわかったし、私を見張ってくれている人も探したから、だからもうあなたに電話を掛けることはしないわ」

 キヨリは少しはったりを言ったつもりだったのです。A男はキヨリの言葉に何かしらの感情の変化を示してくれるのではないかと期待したからです。けれど全くそうことはありません。

「じゃあ、会いに来てもいいですか?やっぱり生の声が聞きたいから」

 はあ?っと、その時にはキヨリはコップの水をA男の顔にぶっかけていたのです。

「暴行罪ですね」

 A男は顔の水を拭うことなくそう言います。ハッとなって我に返ります。

「ごめんなさい」

 でもそれだけいうことで精一杯でした。この店に入った時からいつでも出られるように、机の上には千円札が二枚置かれています。A男はそのことを気にすることもなくじっとキヨリを見てそして聞いていたのです。だから、キヨリはそのことを遮るように席を立ち、そして、逃げるように出て行ったのです。

 家に帰りながらカバンの中で何度かメールの着信音が震えています。けれども、キヨリはそのすべてからただ逃げたいと思うだけだったのです。

「僕はまた会いに行く。キミの声が聞きたい。僕にはキミが必要だ」


 キヨリは女性所長に会いに行き、このことを話します。ものすごく怒られるのかなと思ったのですが、たいして嫌な顔はされません。だからついどうして私を守っていただけなかったのですかと、反対に聞いてみたのですが、いえ、わかっていましたし、私達はその一部始終を見ていましたと、言われたのです。それならどうして止めてくれなかったのだと思ったのですか、きちんと記録はとっていますが、警察ではありませんからと、案外冷静だったのです。

「会話は録音されていますか?」

「突然だったので?」

「相手は録音しているかもしれません」

 キヨリはA男の不気味さが蘇ってきます。

「じゃあ、私が水を掛けたのは?暴行罪って?」

「そうですね。確かにまずいですね。周りのお客さんには見られたかもしれません。けれど、ヤナドさんがすぐに出て行かれたので、男女のもつれだと思われたかもしれません。それにけがをさせたわけじゃないでしょう。それより、A男に掴まれた腕があざになっているほうが問題だと思います」

 キヨリは風呂場でそのあざを見つけたので、スマホで撮っておいたのです。女性所長は淡々と説明してくれますが、以前、A男が傷害事件を起こしたと話してくれたことを思い出します。キヨリは今その恐怖と直面したのです。だから、どんなと、もう一度聞いてみたのですが、やはり教えてはくれなかったのです。

 弁護士に相談しましょうと女性社長から提案されたのは、A男がもう一度、病院でキヨリを待ち伏せしていたからです。キヨリは慌ててその場から立ち去ったのですが、A男は大声で何かを叫んでいたのです。思わず耳を塞いだので、何を言っていたのかわからなかったのですが、めったに話したことがない看護部長に呼ばれて、なにかあったの?と、まるで患者さんに語りかけるように微笑まれた時に、目の前に大きな杭が打ち込まれたような気がしたのです。

 長い、長い、戦いになるかもしれません。始めて会った弁護士にいきなりそう言われた時に、あの時感じた杭がこれから何本も打たれていくんだと、キヨリは思ったのです。その杭が間を失くした時には壁になる。上空高く、もはやその天辺を見上げることができないほどの壁になる。前に進めないどころが、倒れてきて押しつぶされるかもしれない。そう思うと無性につらくなって、看護師として、私はどうなっていくんだろうと憂鬱さが、また杭を打っていくように思えてきたのです。

 キヨリは看護師の仕事が嫌いではありません。看護師としての研修や、病院という組織の中で看護師の役割を改善していくことが嫌いではありません。そういうことから考えると、基幹病院であるこういう大きな総合病院で働いていくことには意味がありますし、自分のキャリアも磨けそうな気がします。けれども、もはや精神的にもつらくなってきていたのです。そんな深夜のナースステーションでピンポンとナースコールが聞こえてきます。その甲高い音は昼間に比べると音量を下げているのですが、そのため余計に閉ざされた空間にはっきりした音源として響きます。本来ならその音は患者さんからの何らかの救いの声です。けれども、なぜか席を立つことが出来ません。それどころか耳を塞ぎしゃがみ込んでしまいます。身体はブルブルと震え身体から血の気が引いてきます。そばに居る誰かが声を掛けてきます。そればかりか体を揺らしてきます。何度も何度も揺らしてきます。でもどうしても体が動きません。

 キヨリには夢があります。それは女性だけがかなえられるものだけではありません。性別に関係なくキヨリが自ら選んだ夢です。そして、キヨリは何よりも患者さんと寄り添う看護師が単純に好きなのです。だから悔しい気持ちがないわけではないのですが、壁の向こうに行くために、そして患者さんに寄り添えるような気持で働くために、この病院を辞めようと決心したのです。


(六)


 キヨリは電話番号を変え、住まいを変え、そして病院を変えます。以前と異なり、看護研究や研修などはそう多くはありません。だから、二交代制の勤務になったのですが、キヨリは却って仕事のメリハリがついて良かったように思えたのです。

 A男からはあれから連絡はなかったのですが、いつ、どういう状況で何が起こるかわからないと、結局はA男次第なのですが、弁護士からはそう説明されていたのです。A男のことを警察に訴えますか、と弁護士に聞かれた時にはつい、はい、と言ってしまったのですが、身体に傷をつけられたわけでもなく、たとえ刑事罰が科せられても現時点では大した罪にもならず、当然刑務所に入りそうにもなかったので、A男も弁護士を付けてきたようなので、双方で話し合うことで折り合いをつけてもらうことに結局なったのです。けれども、何か決めごとがA男と交わされたとしても、それが未来永劫続くかなんてわからないと、キヨリもあれから色々と情報を集めるとそう思えて仕方がありません。

 そんな日々の中でも、キヨリは看護師の仕事を全うします。自分の看護学の思いからしてみれば不満がないわけではなかったのですが、それでも、看護をするという基本は変わりませんし、重病者が少ないとはいえ、それでもそういう患者さんだからこその必要な看護があることも改めて認識することになったのです。

 ある患者さんは、離婚をして、子供を養うために夜、昼と働かなければならなくなって、無理をして体調を崩してしまったのです。キヨリはあまり患者さんの背景に踏み込むのは良くないのではないかと、本当はそうしたかったのですが、自分のこともあり、あえてしなかったのです。けれども、早く帰らなければ子供たちがと、主治医の許可もないのに退院しようとしたので話を聞いたのです。

「浮気したから、それで、離婚したんだけど、もともと会社に二年ほどいてすぐに専業主婦になったから、何も資格がないし、子連れだとなかなか就職がなくて、だから、非正規で昼夜と働かなかったら、子供二人は養えないの」

「旦那さんが悪かったんでしょう。慰謝料は?」

「もちろん、金額は示されたわ。でも、最初だけ。いくら電話しても。のらりくらりで」

「何とかならないのですか?」

「金銭面では問題ないからと言って、子供を引きとったから・・・」

「でも、身体が・・・」

「私がつぶれるか、子供がつぶれるかよ」

「子供?」

「そう、子供たちも色々我慢しているのよ」

 その患者さんのつり上がった目じりに涙がたまっています。

「二人とも女の子なの。子供には将来自立できるように看護師さんのような資格をとらせるわ」

 キヨリは自立しようとして看護師になったわけではありません。しかし、看護師の資格があれば無理をしなくてもある程度の生活できる給料がもらえることは確かです。

 また、ある患者さんは、男女のもつれから喧嘩になり、お腹を蹴られたということで救急入院し、精密検査をおこないます。結局たいしたことはなかったので、キヨリが働いていた昼間帯に退院したのです。

 男性に被害が及ばないとは言いません。けれども、こういうトラブルになると圧倒的に女性が被害をこうむります。それは精神的なものではなく身体的なものです。少しほっぺをぶたれたということから、意識がなくなるまで殴られたり、刺されたりします。それは女性の肉体的ハンディキャップなのかもしれませんし、特殊な格闘技をしていない限り瞬時に自分の身体を守れないという女性に対する偏見なのかもしれません。何れにしても事件になる時はもう遅いのです。キヨリはその患者さんが自分と重なってぞっとしたのですが、A男はキヨリを女性としてどう思っているのか。いやどうしたいのかわからないままでいることを改めて考えさせられたのです。

 キヨリはそういう、特に女性患者さんの実情を調べようと思います。もちろんプライベートのことがあるので、なかなか難しい面もあるのですが、この病院に来て、キヨリが初めて前向きになれたことだったのです。そしてそれは、この病院で慣れ親しんで行けばいくほど患者さんだけではなく、看護師や医療事務や医師にも広がっていきます。けれども、それはあくまでも雑談が主です。狭い世界でキヨリの思いを前面に出せば、きっと大きな誤解が生じることをキヨリは知っていたからです。けれど、キヨリはなぜか前へ進もうと思います。

 そんな矢先のことだったのです。キヨリは突然声が出なくなります。全くではないのです。なにか詰まったような、声が出にくいという感じです。特に大声を出そうとしたり、長く電話で話したりしているとそうなります。だから、患者さんがキヨリの声に戸惑うことがあるのです。

 ストレスじゃないの?何かあったのと、同僚に言われたのですが、さあ、と、この病院にはA男のことは黙っていたのでそう答えたのです。それにキヨリはA男のせいだとは思いたくなかったのです。何故なら、キヨリはそんなことでくじけるようなやわな女ではないと思っていたからです。けれど、結果としては前の病院を辞めざるを得なかったし、やはり、やわな女なんだと、落ち込んでいたことも事実です。

 キヨリはストレスだとしても簡単に治るだろうとクリニックに通います。担当医にちょっとした男女のもつれだがそういうことがあったと話します。すると診断書と薬を処方されます。けれど数か月たっても一向に良くならなかったのです。

 キヨリは師長と相談します。何か改善策や、治療についてのアドバイスをくれるのかと思ったのですが、そういう優しさを期待しても仕方がありません。じゃあ、手術場勤務だったらと、答えてくれただけだったのです。キヨリは病棟勤務が好きなのです。けれども、患者さんと十分話せないのなら仕方がないことです。せっかく前向きになれたのにと、だから、他の病院にまた移ることも考えたのですが、また一からだと考えると、声の治療に専念するにはもう少し今の病院に居る方が良いのでは考えたのです。

 けれど、そんな考えは甘かったのです。手術場は病棟とは異なり、特殊な世界です。今までの病棟での経験など全くなかったかのように再教育されます。そしてここは医師を頂点とした力関係で成り立っています。当たり前と言えばそうなのですが、手術は医師しか行えないのです。

 キヨリは小学生の授業のように手術器具の名前から教えられます。時には後輩からも容赦のない指摘があります。病棟ではピンセットと言えばピンセットですが、微妙に長さが異なったり、先に鉤がついていたりと、手術器具の多さに驚きます。それぞれ使用に対しては用途があるのですが、それも覚えて行かなければなりません。もちろん、医師は手術器具の名前を言ってくれます。けれども、それが手術器具台のどこに置かれているのか、手術の進行具合でわかったほうが手術自体はスムーズに進みます。

 医師の中には、間違った器具を出すと、露骨に嫌な顔をしたり、そこまでではないにしても、溜息をついたり、今度までに頑張って下さいと、丁寧な嫌味を言う医師もいたのです。

 キヨリは、器具を写真に撮り、器具名を書き、どういう時に使用するかを、整理して受験の英単語のように覚えていったのです。この病院はパターン化された手術が多かったので、案外過去問を解くように手術をこなしていくと、三か月たった頃にはもう誰からも小言を言われなくなります。それに、病棟とは違い、患者さんや同僚に合わせなくてはならないことはありません。医師のレベルにキヨリひとりの能力を合わせるだけです。それにキヨリが手術をするわけではありません。自らが話しかけることもなく、自分のペースで働けるので、当初の思いとはことなり、ずいぶん気が楽になって行ったのです。だからと言って満足しているわけではありません。キヨリが目指しているものでもありません。だから、そういう面ではストレスが減ったわけではなかったのです。

 キヨリは手術場の同僚と雑談している時にも言葉が出にくくなります。手術場に来た時に、どうして?と、聞かれたので、原因が良くわからないけど声が出にくくなったから手術場勤務を希望したのと、そのことは皆に話していたのですが、それでも相手はあまり良い気分にはならないのかもしれません。

 キヨリは、精神的療法も続けていたのですが、耳鼻科も受診します。ファイバースコープを用いた検査を数回受けたのですが、声帯はきれいだし、問題ないようだと、何回も言われます。だから、やっぱり精神的なものかと、リラクゼーションなどの民間療法にもいくつか通ったのですが、やはり一向に良くならなかったのです。

 そんなある日のこと、キヨリのもとに祖父から電話がかかってきます。

「声の調子はどうだい?」 

 祖父には喉にポリープが出来たんで治療中なのと言っていたのですが、電話口のキヨリの声に祖父は素早く反応したようです。

「うん。でも患者さんと話さないわけにはいかないから」 

祖父には手術場で働いていることは伝えていません。

「ところでどうかしたの?」

「いや、たいしたことではないと思うんだけど、一応、連絡しようと思って」

 キヨリは祖父自身から連絡があったほうが元気だと思えるのでかえって落ち着くのです。

「キヨリの大学時代のお友達が私の所に来られたんだよ」

「友達って?」

 祖父は名前を言います。もうしばらく会っていませんし、キヨリも連絡していませんが、その名前にははっきりとした記憶があります。だから、知っているわと答えた後に、キヨリの記憶を祖父に尋ねます。けれども祖父には男ではないことと、キヨリと同じような年齢に見えたこと以外は、はっきりと答えられなかったのです。

「それで」

「まだお若いのにご主人がご病気になられたそうで、キヨリが勤めていた病院へかかりたいって・・・」

「先生の名前を言った?」

 祖父ははっきりとその名前を言います。確かにその先生は大腸がんの治療で有名な消化器外科の専門医です。

「それで」

「キヨリに相談したがっていて、何か切羽詰まったような感じで、涙ぐまれたんだよ。だから・・・」

「だから?」

「だから、キヨリの連絡先を教えたんだけど、ちょっと気になったんで・・・」

「どういうこと?」

「これは私のあくまでも勘だけどね。だから気を悪くしないで聞いてほしいんだ。その娘さんね、キヨリの電話番号を聞いた途端に、目が乾いたように思ったんだよ」

「乾いた?」

「そう、悲しみがなくなったように思えてね」

 祖父にはA男のことは全く言っていません。けれどもそれなりに祖父は何かを気付いているはずです。声についてもそうです。だからと言って、祖父にキヨリは言えません。もし、祖母が生きていたらと思うと、余計に祖父が悲しがるのではないかと思って言えないのです。だから、キヨリはわかったわ、その子から連絡があったら、ちゃんと相談に乗ってあげるから、と言って電話を切ったのです。でも、それはA男に違いありません。いや、A男に依頼されれた探偵です。もちろん、キヨリはその子に電話をして確認します。幸せそうな子供のはしゃぎ声が聞こえてきます。

「携帯の電話番号だけで住所が特定される可能性がないわけではありませんね」

 弁護士からはそう言われます。もちろん、引っ越しに際して個人情報が特定されることがないように極力制限してもらったし、それは祖父のいる老健施設に対しても祖父に黙ってそうしてもらっていたのです。けれども、完璧というものは存在しません。それにA男はやはり、キヨリのことをあきらめてはいなかったのです。

 私はどうすれば?とキヨリはもう聞かなかったのです。また、引っ越しし、職場を変えることしかないのではと思ったからです。それに必ずA男が現れるとは限りません。きっと、それは淡い期待なのでしょうが、それでも、そう考えるしか今のキヨリにはなかったのです。

 そんな希望が露となるまでそう時間はかからなかったのです。弁護士から事情を話して、警察が定期的に巡回してくれるようになったのですが、もちろん、いつもではありません。それにA男は自宅ではなく、病院に現れたのです。

 A男は本名を名乗り、堂々と正面玄関からキヨリに面会を求めてきたのです。

 A男は偽名で現れます。祖父からの電話があってしばらくは緊張していたのですが、手術が終わり昼休みに、のこのこと自からA男の前に姿を現してしまっていたのです。

「ヤナドさんの声がどうしても聴きたくなって会いに来てしまいました。すいません」

 キヨリは幾分表情が穏やかになったように見えるA男に驚きます。

「ヤナドさんにご迷惑を掛けないように、ヤナドさんとの会話を録音していた声を何度も聞いて気を落ち着かせていたのですが、それでも我慢が出来なくて」

 キヨリの期待は一瞬で飛んで行ってしまいます。A男はやはりA男です。けれども、キヨリは感情を出すことも、一方的に追い返すこともしなかったのです。それよりも、A男はキヨリの声から離れられないのだとその悲しみで身動きできなかったのです。だから、キヨリはA男に向かってはっきりと言ったのです。

「私の声・があなたを苦しめ・ているのでしょう?」

 でも、その言葉を聞いて、A男はきょとんとしてしばらく口を開けたままのような表情でキヨリを見ていたのです。だから、キヨリはもう一度同じことをゆっくりと言います。

「どうされたのですか?その声・・・」

 A男は我に返ったようにキヨリに聞き返します。

「聞こえ・にくい?ふつうに・話しているつもりなのよ。でも、声が・・・」

「どうしてそんな声になったんだ」

 A男がめずらしく感情で反応します。

「わからないのよ。でも、あれから・こうなったの。擦れ・たり、声が出・にくかったり」

「なぜ?なぜなんだ。俺はヤナドさんの声を聞きに来たんだ」

 ごめんなさいと、キヨリの瞳からは涙があふれています。しかし、もはや、その声は震えていて、A男に届いたかどうかわかりません。

「どうしたんだ!どうしたんだ!どうしたんだ!」

 A男は大声でわめき散らしていたのです。キヨリが今まで見たことがなかった感情の起伏です。ここは病院です。だから、警備員が近寄ってきます。A男はそれでも大声で叫ぶことを止めません。

 A男は警察に連れて行かれます。A男は何もしていません。キヨリの声を聴いただけです。

 キヨリはこの病院を辞めます。そして、もう一度引っ越しすることにしたのです。


(七)


 コミナミさんが産休に入るので、送別会を催すことになったのです。いい歳して恥ずかしいわ、と言いながらも、とても幸せそうな笑顔を見ると、キヨリは自分自身の今を振り返らずにはいられなかったのです。

 A男がキヨリの声を最後に聴いてから、何かキヨリにアクションを起こしてくるということは全くなかったのです。だからあの女性所長にA男の傷害事件についてもう一度尋ねてみます。女性所長はなぜかすんなりと話してくれます。 

 それはあるアイドルに対してのものだったようです。そのアイドルがもう少しかわいくなりたいからと二重瞼にする手術を受けたあとに、A男はあの時と同じように大声で叫び、自宅に閉じこもっていたあと、おもむろに握手会に来てそのアイドルの顔を平手でたたいたそうです。「僕を裏切った、これは罰だ」と、物静かに何度もつぶやいていたところを取り押さえられたそうですが、それでもそのつぶやきは止めなかったそうです。

 キヨリの声が少し変わって、声が突然でなくなった原因は今でもわかりません。キヨリ自身が望んだわけではありませんし、A男を避けるためでもありませんし、A男がそうさせたわけでもないからです。でも、そのことをA男が理解してくれるとは限りません。

 コミナミさんにはすべてではないのですが、A男のことを話していたのです。大変だったのねと、当たり障りのない言葉ですが、キヨリは思わず涙ぐんでしまったことを今でも覚えています。だから、家に遊びにきたら、誰かが居たら安心するでしょうと、誘われて、キヨリは思い切って甘えてみることにしたのです。

 コミナミさんは二度目の結婚です。二人の息子さんがいます。前の夫は医者だったのと、そう聞いた時には驚いたのですが、でもモラハラが強くてと、家のことは全てコミナミさんに任せているのに、ストレスなのか、何一つ話し合うことはしないで命令ばかりしてきたそうです。子供には優しかったのですが、「そんなことしていたらママみたいに・・・」、と聞いた長男が夫を叩いている姿を見て、良くないなと、離婚を決意したそうです。だから、仕事はきちんとするようになったのよと、でも、もうどうでも良くなったんだけど、やっぱりねと、今の旦那さんの前で平気で話しているコミナミさんがとても微笑ましく思えます。

 今でも子供たちは前の夫に会っているそうなんですが、そういう時は寂しくて仕方がないので、再婚する前はよくネットで子猫の動画を観ていたそうです。イヤホンを付けると何も周りの音が聞こえなくなるので、出来るだけボリュームを絞ります。それでもかすかに鳴き声が聞こえてきます。その当時のコミナミさんにとってそれだけが心の支えだったそうです。

 今でも子供がいないと動画を観るようです。けれども、一人ではありません。夫がいます。寂しさは変わらないようですが、子供のことを考えられるってとっても幸せな気分なのと、キヨリに向かって何かを伝えようとしているのかもしれません。

 キヨリはどちらかというと犬派だったのですが、それでもコミナミさんに言われて猫の動画をスクロールしている時に、なかない猫という投稿動画を見つけて思わず指先に力を入れます。音声だけを消すこともできるから本当なのかなあと思ったのですが、鳴かない猫は鳴けない猫なのか、それとも泣かない、泣けない猫なのか、キヨリと重なる部分があってその仏頂面の大人猫はしばらくキヨリの脳裏から消えなかったのです。

 送別会には麻酔科の先生も来られています。この病院ではもう古株なのと、笑いながら、女性医師であるので看護師や女性の苦労を時には他の男性医師に諭してくれます。

「女性の先生だからって、意地悪されたことはなかったんですか?」

 何故そういう話題になったのかわからなかったのですが、キヨリは尋ねていたのです。

「麻酔科だったから私はまだましだったのかもしれないわね。でも、外科医だった友達は研修中に妊娠してしまって、そのことを報告しに行くと、折角指導したのにって、露骨に嫌な顔をされて、部長からそのあとあまり手術の指導を受けられなかったって。時代が時代だったのかもしれないわね。その子はそのあと頑張って、今ある大病院の外科部長をしているけど、出産を契機にそのまま外科医をあきらめて内科医に代わった友達もいたわ。きっと、最初は医者に対して色々な夢があったんだと思うんだけど」

「先生は?」

「仕事をしながら結婚して子供を育ててと、そりゃあ、うまくいかなかったり、もう少し、私のことをもわかってって思ったりしたこともあったけど、夢は全て叶わないし、きりがないから」

 先生の飾りっけのない薄化粧からは、それでも、今を楽しんでいるように思えます。

「まだ若いのよ」

 キヨリにそう微笑みながら話しかけてくれます。そして、もし、気にしていたらごめんなさいと、キヨリの声について尋ねてくれたのです。キヨリはA男のことはもちろん話さなかったのですが、これまでの経過や治療について話してみたのです。

「ヤマブ先生に相談してみれば」

 キヨリは意外なことを聞いたのです。


 コミナミさんから、患者さん用のカツラのために、髪の毛を寄付しない?と、持ち掛けられて、一緒に美容院へ行った帰りに、携帯に祖父から電話がかかってきたのです。またなにか?と思ったし、自分から髪の毛を切った直後だったので少し不安な面もあったのですが、施設に芸人さん達が来られるから時間があるんだったら気分転換に来ないかというお誘いだったので、ホッとと、思わず口から飛び出たような気持になったのです。 

 祖父の施設に来ていた芸人さんの中には、キヨリが動画で観たことのある若い芸人さんもいます。物まねを交えた話芸で、キヨリは久しぶりに大声で笑うことが出来たのです。こんなに笑えたのはいつぶり?襟足のすがすがしさが余計にキヨリにそう思わせるのかもしれません。

 施設でのイベントが終わり、カミを切ったんだねと、優しく語りかけてくれる祖父に、キヨリはA男のことを話してみようと思ったのですが、近くで見ると、こんなに皺が増えたんだと、ついさっきまで笑っていたのに、急に寂しくなって思いとどまります。芸人さん達の七色の声を聴いたからでしょうか?キヨリは里山の神社に一人で向かいます。神様の前で手を合わせると以前ここで見た祖母の涙を思い出します。

「神様、私の声が出なくなったのは、A男のせいではなかったんです。ヤマブ先生が診てくれたの。けいれん性発声障害だって。原因はわからないけど、声帯の動きを診ると、喉頭を強く締めすぎているようだって。特定の文や言葉が言いにくいのが特徴で、だから私、患者さんに毎日挨拶するための、おはようございますやありがとうございますが、なかなかすっきり言えなかったみたいなの。言語療法士さんが一緒にいてくれて、そういう見方でファイバースコープ検査を受けて初めて分かったの。少し、難しい診断基準があるそうなんだけど、ある先生が手術をすれば治るかもしれませんって、ヤマブ先生、いつもはそんな顔見せないのに、にっこり笑ってくれたのよ。

 私はその言葉を聞いてはじめはとても嬉しかったの。また、病棟勤務に戻れて入院患者さんの看護が出来ると思ったから。もちろん、手術室でも患者さんのためには役立っているはずよ。でも、手術が始まると、全身麻酔だから患者さんとお話は出来ないし、何かあっても先生のサポートをするだけで、背中すらさすってあげられない。私、手術場にいると、患者さんより先生たちに対してなにかしらの遠慮を感じてしまうのかもしれないわ。

 ここで初めて御婆さんに叱られたあと、私はとっても悲しかったの。もしかしたらお母さんならもっと違うことを言ってくれたんじゃなかったかなって思ったから。でもね、モーちゃんからお手紙をもらって。きっと、一生懸命書いてくれたんだと思うんだけど、ところどころ字が間違っていて、それでも、ごめんなさい、ごめんさいって、何度も書かれてあったの。たたいのは私なのに。モーちゃんは悪くないのに。けれども、毎週毎週手紙が来たの。私、そのうち、その手紙を読まずに捨てていたの、でも、御婆さんにはそのことを言わなかったわ。そして、ある日、私、モーちゃんに言ったの。優しく言ったの。もうお手紙は要らないって。そうしたら、モーちゃん泣き出して、また、私が叩いたってことになって。でも、私は叩いていないと、正直に言ったの。そうしたら、モーちゃん、うん、うんって、言ってくれて。中学生になった時に、モーちゃんは転校していったわ。今ならそのわけがわかるけど、その時はわからなかったの。でも本当はね、私、うすうす気づいていたのかもしれない。だから、手紙を読まずに捨てていたのかもしれない。あの時以来、モーちゃんは私に何もしなかったのに。私と一緒に勉強できたり遊んでいたりして楽しんでいたはずなのに。私もきっとモーちゃんと一緒に笑っていたのに。モーちゃんがいなくなった日になぜかこの神社に来ていたの。そして、私はサヨナラって。私の言葉には続きがあったわ。神様は覚えていると思うけど、私は思いだしたくないの。でも、そう言ったあとに、私は神様ではなくて、涙顔の御婆さんから大声で叱られていたように思えて仕方なかったの。

 私はだから看護師を目指したのかもしれないわ。でも、本当にそうなのかわからない。手術を受けて、声を治して、患者さんに寄り添いたいと願っていると言ったけど、嘘をついているようにも思えるの。私は患者さんを看護する組織やルールを作りたいと思っているだけなのかもしれないの。

 それに、手術をすれば、元の声に戻れば、また、A男は私に会いに来る。私の声に会いに来る。私はA男を憎んでいたから、二度と会いたくないと毎日願っていたからやっぱりそれは出来ないと思っているの。でも、看護師の私は、A男はある声を聴かないと落ち着くことが出来ないんじゃないかって思っているの。だから、私の変わってしまった声を聴いて、A男は大声で叫んでしまったんだと思うの。だったら、看護師である私はA男を本当は憎んではいけないのよね。声を治してイライラしているはずのA男を助けてあげないといけないのよね。でも、本当に治るの?笑いながらサヨナラって言ってくれるの。私は医者じゃないから、わからないし、そんなきれいごとでは済まないことも知っているわ。それにもう一人の自分もいるの。きっとそれは女の子という生き物かもしれないわ。女の子だから気が付くし、気配りと優しさで接しられるのに、弱さでもあるから、押しつぶそうとしてくると、恐くなるわ。A男は今でも部屋に籠って以前録音したといっていた私の声を聴いているのかしら。そしてその声を聞きながら自分を慰めているのかしら。私の声が変わった理由をA男は知らないから、アイドルと同じように、私が勝手に声を変えてしまったと怒っているかもしれないわ。私を叩くだけでなく声が出ないように、つまり、息が出来ないように私を追い詰めるかもしれないわ。

 医療にかかわるものは自分を捨てて患者さんのためだけに働きなさいと教えられたの。それはお爺さんが言っていた、誰かの役に立つためだってことよね。でも、もし私がA男に何かされたら、私はそれから何もできなくなるの。それでも言いから、我慢しなさいって皆は言うのかしら。私はそんなことはできない。私の父も母は交通事故でなんか死んでいない。私の父と母はある子どもを助けるために犠牲になったの。それはとても立派なことで、新聞にも載るくらいだったから私は知ることが出来たの。でもね、私は取り残されたの。私は一人になったの。でも、御婆さんも御爺さんも、私にはまだ家族がいる。それに私たちは経済的に恵まれている。もっと不幸な人がいるって。

 でもね、神様。私、病院に居て思ったの。どれだけ金持ちでも貧乏でも。どれだけ優しくても意地悪でも、人は必ず死ぬんだって。死んだら何もできないんだって。生き残った人は死んだ人のことを思ってくれたり、死んだ人の意志を受け継いでくれたり、死んだ人に影響されたりするんだろうけど、そして、未来を変えられるんだろうけど、死んだ人はもうそれで終わってしまうの。死んだ人は生きた人の中で生きることしかできないの。だから、私が我儘を言っていいって言いっているんじゃないわよ。自分だけのためだけに自分の都合のいいようにしていいって言っているんじゃないわよ。良いことも悪いことも私が出来ることには限りがあるって言いたいだけなの。

 でもそれでも私は声を変えなくてはならないの。あの動画の猫はなかないのにあれだけご主人に愛されていたわ。声ではないの。そう、声でも顔でもないの。A男にそう私は言いたいの。

 私の心は揺れ動いているわ。生きている私が本当にしたいことは何なのって問いかけてくるからよ。私は私でありたいって。だから私は手術を受けたいって。私の正直な声はそう言っているわ。でもそれは、私にプロポーズしてくれた男性にハイって大声で返事をしたいから。そして何よりも、私の子供を交えてママ友と楽しくおしゃべりしたいだけかもしれないわ。

 神様、私は自分勝手?でも私はもう二度と嘘はつきたくないの。モーちゃんにも御婆さんにも、そして患者さんにも、そしてなにより自分自身にも嘘はつきたくないの。

 私は女性。大好きな女性。生まれ変わってきても、男性なんかになりたいなんてこれぽっちも思わない。だって、女性だからって弱いわけじゃないわ。そう男性が思っているだけだから」

 キヨリは神様に話しています。なぜかいちども詰まることもなくスラスラと話しています。きっと、神様は一度も聞き返すことはなかったと思います。けれどなにも言ってはくれません。だからキヨリはもう一度尋ねます。

「神様にも秘密はあるの。言いたいのに言えないことがあるの。でも本当のことを言っていいんでしょうか?それに本当の事って言えるのでしょうか?私にはわからないわ」

 キヨリは神社に向かって一礼します。見上げた時に狛犬がかすかに動いたように思います。鳴き声は聞こえませんが、キヨリにクンクンと鼻先を擦り寄せてくるように思います。

 キヨリは昨日祖父の施設で見た一匹の老犬のことを思い出します。まさか施設内に犬がいるなんて、見間違えたかと、思ったりしたのですが、誰かがうっかり連れてきたのかもしれません。その犬もなかない犬なのかと思ったのですが、うーと、その声は、誰かを威嚇するのではなくこの施設をまるでエンターテイナーのように和ませてくれているのではないかと思わせるような心地良さだったのです。

 その犬とは何も話していません。けれど、キヨリを黙って包み込んでくれる優しいオスの犬ではないのかと、キヨリはふと思ったのです


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