三:声を出したいアナウンサー
(一)
ピイピョンという電子音が耳障りな音域ではなく短い音量で聞こえてきます。その度にうつむき加減でスマホや読書にいそしんでいた人達が同じように顔を電光掲示板に向けます。
ナガイケンスケも上向き加減に電光掲示板の番号を見るひとりです。もう一時間以上は病院の待合室にいます。今日は特に忙しいのかもしれません。それでもあまりイライラしないのは、今夢中になっている本を読んでいたからかもしれません。電子音は何回か鳴っていますが、そのうち毎回顔を上げることは無くなります。
「ナガイさん、ナガイケンスケさん」
個人情報が漏れないように番号が提示されているのに、反応がなかったからかもしれないのですが、番号ではなく名前が呼ばれます。それなら、最初から番号を掲示しなくてもと思うのですが、やはり、時代はそういう流れなのです。
「お久しぶりです。調子はどうですか?」
担当医のヤマブ医師とはもう一年以上の関係です。今年で五十二になるナガイに対して、医者と患者という関係なのに。一回り以上も年が離れているという礼儀でいつも接してくれます。
ナガイは指の腱鞘炎でヤマブ医師に診てもらっているのです。いつだったかもはやはっきりと覚えていないのですが、朝起きると薬指だけが伸びなくなっていたのです。どうしたんだろうと、いつもならうとうとと半ば朦朧としながらベッドから這い出ていくのに、その日に限ってはシャキッとなって、まるで上司に会ったかのようにきちんとした正座姿でその指を見ていたのです。それでもぐっと力を入れて伸ばそうとすると、ウッという痛みと共のまるでバネが備えられているかのようにぴょーんと指が素早く伸びって行ったのです。ナガイはその一瞬の出来事に自分自身の指なのに、他人事というか、機械装置のように動くその指に恐怖を感じたのです。
なにが起こったんだろうと思いながらも再び力を入れて指を曲げることをためらっていたのですが、手のひらを夢中でマッサージしながら、ゆっくりと曲げ伸ばしをしていると、そのうちひっかかるような感じはしなくなってきたので、そうか気のせいかと思い直して、その日は会社に向かったのです。
ナガイはテレビ局で報道記者をしています。この齢なので日本国中を飛び回るということはなくなってきたのですが、それでも時々は外に出て取材をしています。しかし、この日はその予定はありません。
デスクワークは嫌いですが、記事をまとめるためにはパソコンを打たなければなりません。朝のことがあったので、また、同じようなことが起こるのではないかと少し脳裏を横切ったのですが、違和感もなく、集中していくといつものように熱中しています。
デスクワーク以外にも雑用をこなしていると、もう二時過ぎになっています。ナガイは、今日は外で昼食を取ろうと思います。朝のことをまだ気にしているのか心が気分転換を求めたのかもしれません。会社近くにあるいきつけのうどん屋に立ち寄ると、同僚のアオキと出会います。確か、科学部に属していたはずだと、ナガイは今朝の出来事を話してみたのです。
科学部は理科系全般を扱います。バラエティやドラマ、スポーツと、花形の部署からすると、ややマイナーな感じがするのですが、それでも昨今の健康ブームで、医学も網羅しているこの部署も以前に比べれば忙しくなっている様です。
ナガイは今朝の出来事を話してみます。するとアオキは、「ばね指だよ」と、即答してくれたのです。
「本当は狭窄性腱鞘炎って言うんだけど」
「もう少しわかりやすく言ってくれよ」
アオキは、俺は医者じゃないからなと笑いながらもナガイに話してくれます。
「指が曲がるためには腱というものがある。腱ってわかる?」
「アキレス腱なら知っている」
「そう、それ。アキレス腱が切れると歩きにくくなるだろう。それはくるぶしを動かす役割があるからさ。それと同じで指にも腱があって、指を動かしている」
「それで」
「指の腱は腱鞘って言ってトンネルみたいなものの中を通っているんだ。腱鞘のショウって刀のサヤって書くんだ。なんとなくわかるだろう」
ナガイはわかるわけないだろうと思いながらもアオキを遮ったりしません。
「腱は指を動かすたびにその腱鞘内を通って行くんだけど、よく使ったり、力を入れたりすると、お互いがこすれてしまって炎症を起こすんだ。そうすると組織が腫れる。お互いが腫れるものだから腱鞘は狭くなり、腱は太くなる。そうすると通りにくくなるんで、曲げにくかったり伸ばしにくかったりするし、この時に痛みを感じるんだよ」
「でも、俺は朝に一度だけひっかかっただけだし、確かにひっかかった様だってけど指がばねみたいにピーンと伸びてその後はならなかったんだ」
「俺も詳しくは知らないんだが、ホルモンが関係しているらしい。だから、朝は一番なりやすい。それに、ちょっと小さめのズボンをはくときに窮屈だけど、一端履けたらそれなりに動けるだろう。だからあれと一緒で、一回ばね現象が起こると案外そのあとは楽になることもあるんだ。特に初めての時はね」
ナガイは刀の鞘ではピンと来なかったのですが、最近少し太ってきたのでズボンのたとえには納得することが出来たのです。
「なれないゴルフでもしたのかい?それとも、家庭菜園でも始めたのか?」
指を使いすぎるとよく腱鞘炎になるそうです。ナガイは曖昧に笑みを浮かべながら、心当たりがないわけでもなかったのですが、あえて何も言わなかったのです。
「また、なるかな」
「指を酷使するとまたなるよ。だから安静にすることだな。ただ、それだけじゃない時もあるから。体質とか年齢とか、そういうことも影響するらしいよ」
アオキはそのことについては詳しくは語ってくれません。きっと、これ以上は医者に聞いてくれとでも言いたげだったからです。
「またなったら?」
「繰り返すようなら医者に診てもらうしかないだろう。治療法はあるから」
「例えば?」
「それは俺が言うことじゃないだろう」
アオキはおそらく知っているのですが、そういう所は一線を引きます。ナガイはアオキらしいと、それでも今までのアオキには感謝しています。
「いい病院知っているかい?」
アオキはある病院の名前を告げます。
「その病院は手外科専門医がいるんだ」
「手外科?」
アオキは不思議がるナガイを尻目に手外科について説明を始めます。
「そうさ、外科と言っても、胃や腸などを診る消化器外科や、心臓や脳をみる心臓外科や脳外科があるだろう。だから、その一つとして手を診る手外科があっても不思議じゃないだろう」
「でも、手の怪我なら整形外科で診てもらえばいいんじゃないのかい?」
「いまでも、整形外科が診ているところが多いんだけど、手の動きや感覚って繊細だろう。だからより高度な専門性を持たせようとして、手外科専門医っていうものがあるんだ」
ナガイは医学の細分化は知っています。昔の医者は一人ですべての患者さんを診ていたようですが、医学の発達に伴って高度な医学知識を要求されるために、専門医が必要になってきたのです。
「手だけしか診ないのかい?」
「そういうことではないんだけど、特に手に特化して診る専門医ということらしい」
「全国に何人くらいいるんだい?」
「千人くらいかな」
ナガイはその数字を聞かされてもピンときません。おそらく十分な数ではないはずです。なぜなら、大勢いたなら皆が知っているからです。
「その病院には有名な先生がいるのかい?」
「ああ、部長はかなり有名だ。大学の準教授だったんだけど、患者さんの治療にもっと集中したいからって、今の病院に移ってきたんだ。だからちょっとかわっているけど腕は確からしい。だから日本だけじゃなくて海外からも研修を受けたくてその先生のもとにやってきているみたいなんだ」
「その部長は俺より年上かい?」
「少し上ぐらいだったと思うけど」
「俺、医者に偉そうにされたら怒鳴ってしまうかもしれないな」
ナガイはそう言いながらもたぶんできないだろうなと思いながら、わざとうそぶいただけなのです。
「昔は相当とんがっていたそうなんだけど、今じゃその反対らしいよ。お世辞にもひとあたりがいいとは言えないけど、わりと丁寧に説明してくれるそうだ」
医者がとんがっていたとはどういうことだろうと、アオキらしくない言い方にナガイはついにが笑いしたのです。
「でもアオキはなぜその病院のことを知っているんだい?」
アオキはある男の名前を挙げたのです。その名前を聞いてナガイはハッとしたのです。ある男とは同じテレビ局に勤めている先輩で土曜の深夜にキャスターとして、社会に潜む様々な問題に鋭く切り込んでいたのです。それがある事件に巻き込まれてしまったのですが、その憤りは社内の誰もが声高に叫べないのですが、こころの奥底にとどめていて決して忘れないだろうと思うのです。
「一命をとりとめたことは知っているよね」
「ああ」
「でもその時に腕をかなり損傷されたんだ」
「片腕を失ったって聞いたけど」
「失いかけたんだけど、その病院の先生が何とか治療してくれて、失うどころか、元通りとはいわないまでも、ずいぶんよくしてくれたみたいなんだ」
ナガイはそのことを知らなかったのです。
「でも確か救急救命センターで治療を受けていたはずだけど」
「ああ、そうなんだけど最初は生死をさまよっていたからね、手の機能どころじゃあなかったんだよ。やっと状態が落ち着いて、それから、その病院へ移ってきたんだ。何度か手術を受けてはリハビリをしていたから、ずいぶん時間がかかったのかもしれない」
ある男はそのためにテレビ局に姿を現さなかったのです。そればかりか、その後、奥さんの実家で今も静養しているとナガイは聞いています。
「じゃあ、あの人の担当医がその部長だったんだ」
「担当医はヤマブっていう医者だよ。部長は主治医にならないからな」
そうかもしれません。テレビドラマでもひ弱な担当医が上司との軋轢に悩む姿が描かれています。ドラマ通りとは言いませんが、会社でも部長はいくつもの事案を担当しているから実務を部下に任せていることはよくあることです。
「そのヤマブっていう医師は、まだ若いのかい?」
「若いって言っても研修医じゃないぜ。年齢からすると卒業して十年以上はたっているはずだけど」
卒後十年の医者がどれほどのものかナガイにはわからなかったのですが、外科医としてはまだまだ修行中なのかもしれません。けれども、反対に仕事に対してがむしゃらで、まだまだ情熱的であるということは、ナガイの職場でも技術系職員があくせくしている姿と同じだと思うのです。
「ヤマブ先生は、優秀らしい」
「優秀?」
「手術がうまいって噂だ。今伸びしろなのかもしれないな。あの人の手術を部長がしたことに一応なっているんだけど、実際はそのヤマブ先生が計画を立てて手術をしたって聞いている。形成外科医だそうだ」
「形成外科医?整形外科医じゃないのかい?さっき手外科って整形外科の一つだって言わなかったかい?」
「日本ではそういう所が多いからそう言ったんだけど、欧米では手外科はそれぞれの科の出身者が半々なんだよ。だから、整形外科医か形成外科医かの専門医の資格を取得してから手外科の研修を受けて、試験を受け専門医になるようなんだ」
「整形外科医と形成外科医とどう違うんだい?」
アオキはナガイにそれぞれについて説明してくれたのですが、ナガイはもうひとつピンとは来なかったのです。しかし、手外科には色々な要素を学ばなければならないことだけは、伝わってきます。
「でも、どうして、アオキはそのヤマブっていう医者のことをそんなによく知っているんだい?」
ちょっとね、と、アオキはそれ以上のことを言いませんでしたが、ナガイもあえてそれ以上のことを聞こうとしなかったのです。
会えばわかるよと、言われたような気がするのですが、そのヤマブ医師が今目の前でナガイを診察し、治療しているのです。
「また、ボランティア活動に行っておられたんですか?」
ナガイはヤマブ医師との初めての出会いを懐かしみながら、つい、手を使ってしまった原因を素直に話していたことに驚いていたのです。こういうことかもしれないと、優秀だとアオキは言っていたのに、頼りなげにそれでいてきちんと病態と治療について適切に簡潔に優しげな口調で語りかけてくれるヤマブ医師に、つい心を許してしまっていたのかもしれません。
(二)
ナガイは今テレビ局の報道記者として働いているのですが、実はアナウンサーとして入社したのです。もう、四半世期も前になります。世の中はバブル期が終わりかけていて不穏な空気が日本という国にべっとりと蓋をし始めていた時です。就職も次第にままならないようになってきていたのですが、ナガイは運よくテレビ局に合格できたのです。前年には新入社員を採用しなかったのですが、たとえ見えない将来であっても人材はもっとも大切であると、いくつかの会社は考えを改めた時期でもあったのです。ただし、バブルそのものであったテレビ局にはまだ昔風の考えの人も残っていて、ナガイはその過渡期に新入社員としての生活がスタートしたので、今と比べれば随分と戸惑うことも多かったし、人員整理が始まった時だったので要領よく仕事をこなしていかないと、身体が持たないということを思い知らされた時期でもあったのです。
ナガイの発する声はとても澄み切っていて、アナウンサーになったと言っても誰も不思議がる周りの人はいなかったのです。けれども、いざ研修が始まると、イントネーションや発声法などを基礎から先輩に叩き込まれることになります。別に自分の声に胡坐をかいていたわけではなかったのですが、声だけではない、言葉使いや言葉の意味なども含めて、テレビの前の人達に不快なく正確に物事を伝えるということは、それ相応の努力が必要であるということを思い知らされたのです。
ナガイは数か月間の研修期間を経て、スポーツ番組に配属されます。テレビ局の新人アナウンサーとしては登竜門でもあると先輩に諭されたのですが、報道アナウンサーを強く希望していたので、若かったこともあり、その不満は顔に色濃く出ていたのかもしれません。上司に何度も呼び出されたのですが、ナガイはあまり仕事に打ち込むことが出来なかったのです。だから、折角就職できたのにと会社を辞めてしまおうと思ったことさえあったのです。けれども、アナウンサーの仕事は、内容はともかくとして、それを必要としている人達にきちんと伝えることであるという研修時代の教えと、そのためにとても些細なことであっても膨大なデータを自分自身で集め、蓄積し、いつでも自分の言葉として取り出せるようにしておくことの大切さを先輩の愚直な姿勢から学んでからは、その不満も少しずつ消えて行ったのです。このまま、スポーツアナウンサーとして日々重ねていくのかという不安はぬぐいきれなかったのですが、そんな葛藤が何年か続いていく中で、ナガイはあの朝を迎えたのです。
ナガイはまだ独身だったのですが、会社に近いということと二LDKの間取りであったにも関わらず、格安の値段で借りることが出来た古びたマンションの一階に住んでいたのです。
報道ではないので夜中に呼び出されることはまずなかったので、夜遅くまで資料作りをしていて、毎日数個の目覚ましと格闘しながらギリギリで朝を迎えていたのです。それがその日は珍しく、トイレに行きたくて目が覚めます。もちろん何時なのかはわからなかったのですが、朦朧としながらも、トイレにたどり着くことぐらいはさすがに出来たのです。用を済ませ、水を流したその瞬間だったのです。ナガイは突然地底に居る巨大な生物に突き上げられるような衝撃を覚えたのです。けれど、その瞬間ナガイは何もできません。意識もその一瞬ではっきりとしているのに、何も考えられません。だから、そのあとも激しく揺さぶられながら、トイレから出て行き、仕事机の下に潜り込むのが精一杯だったのです。
「地震?」
ナガイはやっとのことでその事実を認識することが出来たのです。しかし、周りは何も変わりません。あれほど揺り動かされていた身体の振動も無くなっていたのです。
「地震?」
ナガイはもう一度自問します。その答えははっきりしています。アナウンサーなら何かを感じなければなりません。それなのに、ナガイは、机の下から這い出てくると、睡魔の為にまたベッドに横たわっていたのです。
何時もとは違う音が鳴っています。それはポケットベルのけたたましい音です。どうしたんだろうとナガイは起きます。そう言えばと先ほどトイレから戻って寝たばかりだったことを思い出します。
ナガイはテレビ局に電話をかけます。しかし、つながりません。何度掛けてもつながりません。人を呼び出しておきながら、と、何気なく付けたテレビでナガイはやっと事の重大さを知ったのです。
その日からナガイの生活は一変します。一日という区切りはなくなり、粉塵なのか噴煙なのかわからない空気に何かが執拗に絡みついた空間と匂いの中で、いたるところから聞こえてくる人々の声をただ拾いに行くことが日々の生業となったのです。今思えば不謹慎かもしれないのですが、報道というナガイの想いに多少わくわくしたところも最初はあったのです。ところが、いざ現場に飛び込むとその思いは一瞬に消え去って木っ端みじんになるどころか、日に日に背中にのしかかってきたのです。そして押しつぶされむき出しになった鉄骨で傾きながら聳え立つビル群に恐怖すら感じ始めていたのです。減る気配どころか増えるばかりのリックを背負いながら、人々の生の声に導かれるように、まるで頂上のまったく見えない岩だらけの山肌を登っていくような毎日を送っていたのです。
余震は続いていたのですが災害としての大きな状況の変化が次第に落ち着いていくと現場では様々な問題が起こります。もちろん交通インフラ整備の機能が停止してしまったことが、大きく行く手を遮っていたことは事実なのですが、それよりもその中で生活していかないといけない人々にとって、特に水、電気、ガスが止まってしまったことが、生活必需品の枯渇とともに、人々に重く足枷となってのしかかっていったのです。
それでもナガイの生活基盤はここではありません。独身で若かったこともあって、幾日も局に戻らず、自分が得た情報だけを他の人に託すことも多かったのですが、それでも久しぶりにマンションの一室に戻ると、すぐに歯を磨き、トイレで用を足し、そして、シャワーを誰に遠慮することなく出しっぱなしにして体を洗うことが出来たのです。いつもなら電車で三十分もかからない距離を何時間もかけて歩いてきたというのに、そこには以前と同じような都会の便利性で溢れていたのです。
ナガイはいつも行く定食屋でいつものメニューでいつもようにビールを頼んでいたのです。食堂内ではテレビがつけられていて、誰かしらが現地の状況を報道しているのですが、ついさっきまでそこに居たとは思えないように、この店の常連と一緒にご飯を食べているいつもと変わらない自分がいることを不思議に思うのです。
俺は何をやっているのだろう?
そういう焦りがナガイから本来正直に進むべき道を見失わせたのかもしれません。
「テレビ局の人ですか?」
ぼさぼさの頭でよれよれのワイシャツに紺のズボン。さすがに革靴ではなく運動靴とリュックを背負っていますが、見る人が見れば業界人とわかるある中年の男がナガイに近づいてきたのです。
「あ、はい」
その男はおそらくもう何日も家には帰っていないのだろうと、疲れ切った肌質であったのですが、それでも眼光だけは鋭かったのです。きっと、ここでずっと取材をし続けていたのだと思うと、業界の先輩ということよりも、報道記者に対する尊敬で、ナガイはついその男に心を開いたのです。
「少しお時間をいただけませんか?」
その男の人はそう言ったのですが、だからと言って、喫茶店に入るわけではりません。被災地に併設された避難所の脇で、その男が寝泊まりしている、ずいぶん型落ちした乗用車に乗り込み、生ぬるくなったビール缶を交えて、お互いがもう一度挨拶を交わしたのです。
その男はある建設会社の取材をしていたのです。その会社は大手ではありませんが、この地で地道に仕事を請け負っていたのです。けれども、今回の地震で、この会社が手掛けた建築物のいくつかが崩落してしまったのです。これまで誰も経験したことがない近代都市の未曽有の地震だったので、ある意味仕方がない部分はあったのですが、社長は責任を感じてその建物を一軒一軒回りながら、ボランティアとして、復旧活動を応援していたのです。
「彼らが悪いわけではないし、彼らも被災者なんです」
その男の言葉を聞くと、ナガイはふと食堂での自分を思い出して、伏し目がちになったのです。ナガイもスニーカーにリックという姿ですが、クリーニングに出していたシャツを着ています。
「彼らにはまだ一息つけないし、つく場所もないんです」
ナガイはその男にすべてを見透かされているのです。けれども仕方ありません。それにその男もだからと言ってナガイを責めているのではないのです。だから、前に進みませんかと、語りかけてくれたのです。
ナガイはその男とこの会社の取材をはじめたのです。もちろん、局の仕事はこなしています。その男もそのことは理解しています。本当は局の仕事だけでも精一杯なのです。皆それぞれ自分の仕事があり、自分の生活があり、自分の使命があるのです。けれども、ナガイは家に戻り、テレビを観ながらビール片手に食事をとっていたのも事実です。そのひとときは誰でもが持つ癒しの時間であり、明日への活力源となるのかもしれませんが、前には進んでいないように思えたのです。だから、その時間を誰かに使おうと、ほんの些細な時間でも使おうとナガイは思ったのです。しかし、いくらナガイの思いが強くても、いくら若くて体力があっても、やはり、無理は出来ません。だから、ある日、ナガイは寝過ごしてしまって、アナウンサーとしての仕事に穴をあけてしまったのです。上司はナガイを叱責したのですが、この時期だからだったのでしょう、この場所で働いている誰が誰に責任を押し付けることが出来るのかと、拳を振り上げた上司は、結局ナガイに寄り添ってくれます。
ナガイは思い切って、今、取材している建設会社について上司に話してみます。人知れず誰かがどこかで助け合っている姿を目にしていた上司は、一つの会社だけに偏るのはどうかと思ったのか、なかなか首を縦に振ってくれなかなかったのです。それでもナガイは若さもあって、上司に食い下がります。その熱意についに上司も折れたようで、
「いいか、被災者は普通を取り戻そうとしているだけなんだ。わかるな。取材の時間を俺がつくってやる。だから無理をするな。でも、必ず報告するんだぞ、テープもちゃんと局に送ってこい」
と、言うと、何を思ったのか、局にある古いハンディカメラを渡してくれたのです。
ナガイはそれから復興の記録というか、普段の生活を戻す為に前を向く人達に何とか寄り添うことにしたのです。そして報道記者としてそのことを記録しようと思ったのです。社長はその申し出に困惑していたのですが、誰かが何かを残さないといけないと、それとこれは単に普通に戻る過程なんですよねというナガイの言葉に、社長も、そうでしたねと苦笑いするしかなかったのです。
ナガイの取材は数か月たっても終わることはありません、けれども、インフラだけは整備され、都市のうわべの機能は大動脈の復帰ということで、形作られていきます。そうなると局と現地との行き来は迅速になり、被災地以外に住む人々も普通に戻ろうとします。
ナガイはもともと応援という形で報道を受け持っていたのですが、本来はスポーツを担当していたのです。したがって、ナガイは現場に行く機会が少しずつ減って行ったのです。その男も社長も仕方がないと、そしてそうなることは決して悪いことではないですよねと言ってくれたのです。それでもナガイは休みを利用して、出来るだけ訪れていたのです。
そんなある日、ナガイはその会社の従業員からあることを聞かされます。それは、その建設会社がある建物の手抜き工事をしていたというものです。だから社長はそのことが知られないように、建設を請け負った建物を回っているのだというのです。
「社長も社員もボランティアのフリをしているんですよ。あの人も知っていますよ。それを今取材していてあの人はそのうちそのことを本にするようです。だから、ナガイさんのテレビ局でまず美談として放送してもらいたいと思っていたようなんです」
ナガイはにわかに彼のいうことが信じられなかったのです。しかし、彼はナガイがこの会社に始めてきたときに快く受け入れてくれた一人だったのです。中には、取材なんてと訝る者もいたのです。社長の熱意に同調できないものもいたのです。それでも、彼だけはナガイと年齢も近かったし、独身だということで今までずっと寄り添ってくれていたのです。
だから彼からの告白を嘘だろうとすぐに言い返すことは出来なかったのです。でもなぜ今頃になってと、不思議に思ったのですが、そう言えば久しびりに酔っぱらってしまったナガイが、やっと俺の取材が放送されるんだと興奮気味に話していたことを思い出したのです。
「みんな自分のことばっかり」
ナガイはその言葉でハッとしたのです。
(三)
放送局を辞めたいと上司に申し出たのはナガイが再びスポーツ記者として現場に戻ってきて数年がたった時だったのです。少しずつ復興よりもスポーツが皆の心の糧となっていき、丁度、国内では大相撲に新たなヒーローが、海外では野球の開拓者たちが活躍し出していたので、本来ならナガイ自身にも活気がもどってきてもおかしくはなかったのですが、世間との温度差は却ってナガイを苦しめることになったのです。
しかし、ナガイはあの建設会社の取材を止めてしまいます。もはや、報道番組のアナウンサーになる夢も消え失せてしまっていて、年に一度、局としては総力を挙げて復興番組を特集していたのですが、ナガイが局にストックしていた映像だけは眠ったままで日の目を見ることはなかったのです。
「あれだけ頑張っていたんだろ。少しぐらい使わせてもらえないのか?」
報道部長がナガイのもとに何度も足を運んできたのですが、ナガイは頑として首を縦に振らなかったのです。もちろん、ナガイの取材テープには建設会社やその周りの人達の映像だけではありません。あの時の、まさしく現実が映し出されていたのです。それは過去に違いありませんし、惨事に違いありません。けれども忘れ去ってはいけない貴重な資料でもあるのです。映像を扱うテレビ局としては、それらをありのまま映し出す義務があるのです。ナガイも喉もと近くまではそう思っているのです。けれども、どこかでそれを許せない自分がいるのです。
「義務であっても権利ではないんじゃないですか?」
ナガイはそう言って部長に喰ってかかっていたのです。けれど、ナガイだけではありません。報道に携わっていた人の中には震災の後に起こった未曾有の大事件と相まって、局内では精神的に傷つき重荷を背負った人が少なからずいたのです。
取材テープはナガイが撮影したものですが、局の一社員である限り本来ならその使用権は局にあるはずなのです。けれども、この時の事情として、世に出せないものや、世に出したくないものの線引きが難しくて、たとえ新米であってもこの時はその使用に取材者の承諾を要したのです。映っている映像をたわいもないものとみるのか、たわいもないものにみないのか、特別な意味を持たないのか、特別な意味を持つのか、背景には何も連想するものがないのか、何か色濃く浮き上がってくるのか、映像だけを扱う者にはわからなかったからです。
「すべてをさらけ出す。あとは視聴者の判断に任せるべきだ」
そう言う局内からの声がなかったわけではありません。でもそれなら、すべてを流してほしい。切り取らないでほしい。なぜなら、その映像の背景を調べるにはまだまだ時間が足りなかったからです。
「でも・・・」
きっと、結論なんて本当は出ないのかもしれません。だからと言って、ナガイは曖昧には出来なかったのかもしれません。そして、あの建設会社の彼に、「どうして僕に話してくれたんですか?」と尋ねていたのです。
彼がナガイに話したことは嘘だったのです。そのことはナガイが自分なりに調べてわかったのではありません。ナガイが放送を取りやめてもらったと言った時に彼からそう言われたのです。厳密には全てが嘘ではないのですが、彼の言葉は、見えない井戸の水面に吸い込まれる小さな石ころのように、ナガイの心に深く波紋を拡げるもので、耳を研ぎ澄ましてもなかなかその音が捉えきれないものだったのです。
確かに、震災で倒壊した建物の中には、今の建築基準に合わない耐震強度で建てられたものもあったのです。けれど建築当時としては、問題はなかったのです。それ以上の予想もできないような災害がやってきたのです。それでも社長の建設会社は出来るだけ耐震強度には気を使っていたのです。それは社長の古い木造の実家があまりにも古くて粗末な作りだったため何の前触れもなく突然崩れ去ったからです。そこには社長を忙しい両親に代わって育ててくれた祖母が住んでいたのですが、残念ながら下敷きになったのです。社長が建設関係に進もうとしたのはそのことがきっかけだったのです。
社長の建設会社は地元の企業です。もちろん施主も地元のヒトです。そう言う施主達の中には予算の関係で大手に頼めずに社長の所に頼み込んできたヒトもいたのです。それは出来るだけ安く仕上げてほしいという切実な願いです。もちろん、最低限の耐震基準には従わなければなりません。けれども、むげに断ることは出来なかったのです。きっと社長には葛藤があったに違いありません。災害などなければ、何十年と問題なく建築物として日常をつかさどっていたでしょう。しかし、どんな事情であったとしても、たとえ何らかの方法で基準には合格するように建てられたとしても、そして、そのことをたとえ施主が納得していたとしても、その建造物を建てて最終的に引き渡したのは社長の建設会社なのです。だから、社長は黙ってそれぞれの建物を訪れ、出来る限りの手助けをしていたのです。
「社員も知っていたのですね」
「はい。でも、それは施主さんにはきちんと伝えていると話していました」
「材質が悪かったんですか?」
「細かなところはわかりません。社長がどこからか運んできたものですから、俺たちはいつもとは違うとしか思わなかっただけですし、検査には合格していましたから」
「施主さんは納得されていたんでしょう。それだったら、あまり問題はなかったんじゃないのですか?」
「施主さんの中にはお亡くなりになられたかたもおられるんです」
社長はこの時になって初めて事の重大さに気が付いたのです。そして、俺は何をしてきたのだと自分を責めていたのです。
「我々の会社は家族のようなものです。社長に俺もずいぶんお世話になっていたので、だから俺も社長のお手伝いをしたいと思っていたのです。でも、俺の婚約者が・・・」
彼は嗚咽を最後に言葉が発せられなくなっていたのです。そして泣き崩れながらも、涙を拭くと目を真っ赤にしながらも気丈に話してくれたのです。
彼は災害後すぐに婚約者と連絡をとろうとしたのですが、婚約者は被災者を受け入れている病院の看護師をしていて、ままならなかったのです。それでも誰かの聞き伝えでやっとお互いの安否がわかったのですが、常日頃からお互いが今できることを精一杯しようと話し合っていたので、会うことはしなかったのです。
がれきの処理はいつかお終わりが来るはずです。建設会社で働いている彼にはそれが十分わかっているはずだったのです。けれども、会社としてはそれだけではなかったのです。復旧の仕事をも請け負わなければならなかったのです。「社長は不眠不休でしたが、我々社員には休めとよく言ってくれたんです。けれども、私達はそれが出来ません。社長が休まないからです。社員の中には当然家族もいます。父親の帰りを待っています。それでも皆なんとか働いていたんです。でも、ある日施主さんの家族に違法建築だと言われて・・・、それで俺たちかっとなって、その時に社長が急に土下座して・・・」
彼は、俺たちは何のために誰のために働いているんだ、と思ったのです。そして、そんな時に、彼の婚約者が、急に倒れたのです。彼が病院に駆け付けた時には婚約者は亡くなっていたそうです。きっと、疲労で働き過ぎたんだ、と彼は思ってしまったのです。もしかしたら、生死を扱う病院内で彼らと同じように心無い言葉を受けたのかもしれないとさえ訝ったのです。そして、この時に彼から間違いなく何かが萎んでいったのです。そのことは彼しかわかりません。
「復興のためにちゃんと仕事をしているんだから、ボランティアなんてやめよう・・・。そう思ったんです。でも、そう面と向かって言えなかった。なぜなら社長は何度もすまんと涙を流して頭を下げてくれたからです」
「だからその男に・・・」
「そうです。あの男の人を信じていたんですが、ある日の早朝、崩れ去ったビルの上に登って街並みを撮影していたんです。そのビルではまだ生き埋めになっていたひとがいるかもしれないって、救助活動が続いていたんです。それが許せなくて・・・」
「それで・・・」
「バカなことを言うなと、諭してくれるのかと思ったのですが、あの話をすると目が輝きだして、そのうち違う方向へ行って・・・。だから、ナガイさんに相談しようと思ったんですが、ナガイさんにも裏切られたようで・・・」
ナガイは返す言葉がありません。彼はナガイもがれきの山に登っていたんだろうと言いたげだったからです。
「でも、俺も同罪です。がれきに登らなかっただけで、見て見ぬふりをしようとしたのですから」
ナガイはそうは思わなかったのです。なぜなら彼は報道する側の人間ではないからですし、彼自身も被災者なのです。
「おれたちに腹が立っていたんだ」
「いや、みんなにです。もちろん、俺もその一人です」
「どうして?」
「だって、ナガイさんの映像が流されたら、俺は震災の事よりもまず婚約者のことを思い出します。そして、好きな社長の事や、親しくしてくれていた施主さんや、社長に罵声を浴びせたその家族を思い出します。俺にはそれが耐え切れなかったんです」
だから彼は、「みんな自分勝手だ」と、そう言ったのかもしれません。
「でもおれに話してくれた」
「彼女です。彼女が俺にそうさせてくれたんです」
彼の瞳からは再びゆっくりと涙が零れ落ちて行きます。けれども今度はその涙を拭おうとはしません。だから、婚約者の記憶をはっきりした声に変えられたのかもしれません。
「駆けつけた時には、彼女の死をどうしても受け入れられなくて、ただ立ち尽くして泣きくずれるだけだったんです。ここは病院だろう。なんでなんだって、叫んでいたそうです。俺は全く気が付かなかったんですけど、彼女のお父さんがいて、彼女のお母さんは彼女が小さい時に亡くなっていたんで、彼女は男で一人で育てられたんです。弟が居て、俺は時々会っていたんですが、お父さんとは結納を交わしてからは久しぶりだったんです。お父さんは、気丈にも、本当は俺なんかよりも泣き崩れたいのに、じっと我慢しているようで。きっと、俺よりももっと長い二人の時間に押しつぶされてもおかしくないのに、俺の背中にそっと手を置いてくれたんです。それでやっと、彼女を抱きしめることができたんです。でも、冷たくて。そうしたら、お父さんが、俺にはもうできないからって。キスしてあげてほしいって。俺はそう言われた後のことはよく覚えていないんです。けれど彼女はとても安らかでとても優しげな顔で、俺を迎えてくれたんです」
彼はいたたまれずに思わずその部屋から出てしまったそうです。本当なら彼女に付き添ってあげなければならいのに、そう思えば思うほど、病室から遠ざかって行ってしまっていたのです。
彼女がいた部屋は深い眠りに包まれて物音一つ一つが悲しみとして静かに共鳴していたのですが、一歩外に出て廊下を歩きだすと、様々な人の音が聞こえてきます。そのどれもがはっきりと聞きとることはできないのですが、音のうねりとして彼の耳に届きます。
彼は思わず耳を手で押さえます。それでもその隙間をこじ開けるように生きる人々の吐息が彼の鼓膜を揺らします。目の前にはガーゼで覆われた顔や、松葉杖で支えらえた足が、近づいたかと思うと遠ざかりの映像で何度も映し出されます。それでいて、ひよっとしたら、見えない所では、確かな息づかいはしているのに、影のように、誰かわからないほどの姿になってしまった人もいるかもしれません。確かにここは病院なんだ、と、彼はその時に思ったそうです。
ナガイは彼の話を聞きながら、戻したいものは必ずあるし、でも戻らないものも必ずある。戻りたい人が必ずいるし、でも戻れない人も必ずいる。そして、怪我は治るけれど傷痕は消えない。それと同じように、建物は戻るけれど風景は戻らないと、と、素直に感じたのです。
「でもね、ナガイさん、しばらくして、俺も少しずつ心の整理がついたころに、彼女のお父さんから、彼女が勤務していた病院に行かないかって誘われたんです。きっとお世話になったんだからと、嫌がる俺に、まるで彼女が乗り移ったかのような笑顔でそう言ったんですよ。お父さんと一緒に彼女が働いていた病棟に行くと、そこに入院していた患者さんが、近寄ってきて、ごめんなさい、ごめんなさいって、泣きながら謝ってきたんです。俺、どうしたんだろうと思ったんだけど、彼女がスマホで撮った俺の写真をその患者さんに見せたことがあったらしくて、だから何か言わなきゃいけないと思ってくれたようなんです。もちろん、すぐに駆けつけるなんてできません、おぼつかない足取りでゆっくりと歩みよって来たんです。しわくちゃの顔を真っ赤にしながら、心の底から一生懸命絞り出すような声で、どんなに迷惑を掛けても、嫌がらずいつも笑顔で接してくれたんで、私たちはどんなに心穏やかに治療を受けることが出来たかって、言葉に何度も詰まりながら話してくれたんです。その時に俺はなんてダメな奴なんだ。あれほど彼女と、あれこれ考える前に目の前にあることをまず一生懸命しようねと、励まし合っていたのに、すっかり忘れてしまっていたと、気付いたんです。そうしたら、ナガイさんにすべてを話そうと思って、もう、病院を飛び出していました」
「そうだったんですか。でも、おれは目の前にあることだけを一生懸命やったつもりでもそれは独りよがりだったのかもしれない。きっと、キミの婚約者は、相手に寄り添うことも一生懸命だったんだと思うよ」
「本当にすいませんでした。でも、ナガイさんは一生懸命だったのなら、その映像には嘘がなかったとおれは信じています」
ナガイには彼は振り返りたかったのに必死で我慢しているというよりも、目に焼き付けている過去を決して忘れないようにしているんだと、ナガイには彼がそう見えたのです。
(四)
「やめてどうするんだ?」
「さあ」
いつもなら、そんなぶしつけな返事などしないのですが、ナガイの目はうつろになり、もはや上司を見ているような状態ではなかったのです。
「ナガイ、辞める前に病院へ行かないか?」
「どうして俺が病院へなんか行かきゃならないんだよ。まだ、テープの編集が終わってないし、裏取りも終わってないんだ。それともまた俺のテープを勝手に使う気だな」
ナガイは心が病んでいたのです。けれど自分ではそう思わなかったし、震災がそうさせたのだとも思いたくはなかったのです。もし自分自身を冷静に見られていたら心の病にならなかったかもしれませんが、今のナガイにはそれすら気が付かなかったのです。
「すいません。少し休みます」
上司の我慢強い説得で、少し自分を離れたところで立たせることが出来たナガイは、局から病欠という形をとって休職することにしたのです。もちろんしかるべき医療機関を受診し、しかるべき診断を受け、しかるべき治療を受けたのです。けれども、風邪ひきのように薬を飲んで一晩寝ればケロッと治ってしまうというものではありません。だから、ナガイは叔父夫婦を頼って二人が住んでいる里山へ行ったのです。
叔父夫婦には、上司の部長から話を伝えてもらっていたのですが、ナガイは出来るだけ自分の言葉でこれまでの自分自身の葛藤を話そうとします。けれども、そう簡単ではありません。あれほどアナウンサーとしてテレビの中で的確に語りかけていたナガイであったのですが、今はその過去は全て消え去ろうとしています。それでも二人は、ナガイが何を聞かれても黙っていて答えない時や、反対に遅くまで饒舌に話し続けていた時も、迷惑がることなく付き合ってくれていたのです。治療は続いていましたが、そんな二人が傍に居てくれたことと、里山の自然が、誰に媚を売るわけでもなく堂々と聳え立ち、四季折々の、それでいて変わらぬ姿で里の人々を包み込んでいる毎日に自然と心を浄化させてくれ、どこかしこに突き刺さった棘先を一本ずつ、優しい手触りで抜き取っていってくれたのです。そんな牛歩のような月日が次第に昔のナガイに戻してくれたのかもしれません。
叔父夫婦は別段何かを言うわけではなかったのですが、そんなナガイの月日を見ながら、すべてを忘れてのんびりするようには言わなかったのです。だからナガイは自然と里山の生活を始めていたのです。
朝早く起きて、畑に行き、それから、朝食をとればまた畑に行く。そう言う日々はナガイを無にしてくれたのかもしれません。そして、その空っぽになったナガイを見計らって、叔父夫婦はゆっくりと、かすかに温かみのある白湯を促してくれます。
「村の仕事もしてみないか?」
叔父に言われたナガイははっと気が付きます。確かにこの里村には叔父夫婦だけしかいなかったわけではありません。ナガイも外で農作業をしていたのです。けれども、ナガイは誰かに見られているとか誰かを見ているという感覚が全くなかったのです。ただ、時々どこからとなく声が聞こえてくるのですが、その優しさから鳥のさえずりだろうと聞き流していたのです。
「おはよう。毎日精をだしているねえ」
そうはっきり聞こえてきたときに、やっとナガイは里山の人々を認識することが出来たのです。はじめは、戸惑いと後ずさりで、何も言うことが出来なかったのですが、叔父が里山の人々に話してくれていたのか、それとも言われなくともそれを黙って受け入れてくれたからなのかわからないのですが、いつしかナガイも挨拶を返すようになっていたのです。
「消防団の人に、集会の司会を頼まれたんだけど」
叔父夫婦に相談する前にもう快諾さえしていたのです。
そんなたわいのない出発が、ナガイに知らず知らずの元気を与えてくれていたのかもしれません。自分でもわかるような笑い声が自分自身で共鳴して聞こえてきます。
そんなある日のことです。上司から電話がかかってきます。
「局に顔をださないか?」
上司はナガイのことを気にかけてくれていて、時々、叔父叔母に電話を掛けてくれていたのです。叔父叔母は当然そのことをナガイには言いません。けれども、ナガイのことは良いことも悪いこともはっきりと上司には伝えていたのです。
ナガイはそうとは知らずに二人にそのことを話します。もちろん、ナガイはそろそろ自分でも局に戻れそうな気がしていたのです。しかし、あの時と同じように自分ではわからないのです。戻るとあのようにまたなってしまうのではないかと二の足を踏んでしまうのです。
「ケンスケ、里山の生活は楽しいか?」
叔父にそう言わると、素直にハイとこたえます。里山の居心地はとてもよい安らぎを与えてくれます。けれども、その一方で、安らぎだけでは生きてはいけないと、ナガイは思うのです。ここに居て、ナガイは叔父夫婦の仕事を手伝っています。しかし、それはあくまでも手伝いに過ぎません。里山は自然がいっぱいですが、その自然は気まぐれです。その気まぐれに翻弄されながらも二人は立ち向かっているのです。だから、決して二人にとって穏やかではない面もあるのです。それでも二人は働き続けここで暮らし続けています。それはなぜだろうと考えると、それはここでのこの仕事が好きだからだということがわかってきたのです。ナガイはそのことに気が付いた時に立ち止まります。また何かが襲ってきそうな恐怖を感じます。けれど、以前の様ではない。少しだけウキウキするような気分なのです。
「毎日とはまだ行かないだろう・・・」
上司は気兼ねをしてくれます。
「しかし、私に出来る仕事があるんですか?」
ナガイも気兼ねして答えます。
「そりゃあ、わからないさ。けど、局に来ないと始まらないだろう。つらいかもしれないが、現場だと思えばいいんだよ」
上司はきっと社内の目ということを含めてそう言ったに違いありません。テレビ局自体が現場などとは思えないでしょうが、緊張感が必要だという意味からすればそうなのかもしれません。そして、それはとても正直なことだと今は思えるのです。
「取材テープをもう一度編集しなおしてみたらどうだ」
叔父は思いもかけないことをナガイに言います。ナガイはあの時期のことで心が病んでしまったことを叔父が知らないわけはありません。ひよっとするとそれは上司からの提案だったのかもしれません。そしてそれは非情かもしれませんが、組織人としての一面を持たざるを得ない上司からの試金石なのかもしれません。
「このまま黙っているのか、ケンスケ。お前はどうしてアナウンサーになったんだ」
幾分身体の小さくなった叔父はここに来て初めて語気を荒げて言い寄ってきたのです。一言も言い返せないその覇気に、ナガイは思わずたじろぎ、身震いが止まらなくなり、自然と後ずさりしていたのです。きっとそれはナガイが抱える暗闇なのかもしれません。叔父はそのことを知っていて言ったのかわかりませんが、ナガイが今こそ対峙しなければならない心音なのかもしれないのです。
ナガイが里山の神社の境内を清めるようになったのは、村人から頼まれたわけではなかったのです。久しぶりに里山に戻って来たナガイにとって、この場所がもっとも居心地が良かったからです。特定のヒトや特定の順番でこの神社が清められ続けてきたわけではなかったので、誰かしらは居ます。けれども、ナガイに村人は最初の頃全く目に映ってこなかったのです。だから、参拝したあと、自然と竹ぼうきを持ち出していたのです。そんなナガイをみていた村人がしばらくナガイに任せて様子を見ていたことに、ナガイ自身叔母から聞かされる最近まで知らなかったのです。
そう頻繁ではありませんが、参拝者は必ず来ます。今ではそういう時にナガイ自身がそーっと気配を消すようにさえするようになっています。
ナガイは、いつものように参拝を済ますと、境内を清め始めます。午前中よりも午後の方が参拝者は少ないのですが、テレビ局への復帰の話が出てからは、朝早く、丁度夜が明けようとする頃に神社を訪れることが多くなっていたのです。薄明かりに染められた空間ではただ静寂だけが時を透明にしています。力を抜いてその空間に身を任せることによって、まるで異次元を移動する旅人のようにゆったりとした気分に回帰出来るのです。
ナガイがこの神社を参拝するのは今回が初めてではありません。子供の時から何度か参拝に訪れています。しかし、あまり記憶としてはっきりとはしていません。きっと神様に何も話しかけなかったからだと思います。ナガイが初めて神様に話しかけたのは中学生の時です。そしてそのことの記憶が消えなかったので、ナガイはアナウンサーになったのかもしれません。
「神様、僕は勇気がありません。だから、いつも見て見ぬふりをしてしまいます」
都市部の公立学校に通っていたナガイの中学生の時代はまさに校内暴力が盛んな時だったのです。もちろんすべての人が暴力を振るっていたわけではありませんし、暴力を振るっていた彼らの本心がどのようなものであったのかもわかりません。けれども、彼らが中心となって授業中に話し出すと、クラス全体がざわざわし始める。そのことを注意した教師に突然切れて、教室のガラスを割ったり、扉を壊したりしてしまう。スマホなどない時代だったので、影でひっそりと陰湿ないじめをするということはなかったのですが、その代り、クラスで弱そうな人や少し生意気な人に突然殴りかかる。そういうたぐいのことがほぼ毎日どこかしこで起こっていたのです。
ナガイの中学の生徒は、二つの小学校から集まっていたのですが、丁度中学二年になった時、同じ小学校出身で仲の良かった友人と離れてしまったのです。そして、それまで小学校の延長で何とか均衡が保たれていたのですが、男女ともに迎える思春期の始まりが一気に爆発してしまったのです。ナガイは身体が大きかったわけでもスポーツが得意だったわけでも社交的であったわけでもありません。おそらく平穏な時なら、それなりにクラスでうまくやっていけたのでしょうが、こういう場所は苦手というか、毛嫌いさえしていたのです。だからと言ってそれを態度で示すわけではなく、ひっそりと、誰かから関われたくはなく、そして反対に、誰かに関わることもなかったのです。
学校に行きたくないとも何度も思ったのですが、だからと言って特別何かをすることもなかったので、学校には行っていたのです。そして、勉強ぐらいしかすることはなかったのですが、学校で集中して出来る環境ではなかったので、塾に通い始めたのです。そうすると自然と成績が良くなります。けれどそれが油断だったのかもしれません。それまで学校では極力目立たないようにしていたのに、つい、数学で百点を獲ったと自慢してしまったのです。クラスでは不良というか、一匹オオカミ的な存在だったクラスメートがいきなりナガイの所に来て、ほっぺを平手打ちしてこう言ったのです。
「お前は俺のことが嫌いだろう」
ナガイは何も言えなかったのです。それどころかジーンとした頬の痛みも忘れ、恐怖で身震いしていたのです。
ナガイは担任に呼ばれましたが、何も言わなかったのです。そうすることでもう一度同じことが起こらないように思えたからです。けれど何の保証があるわけではありません。ひよっとしたらそれは一つの賭けだったのかもしれません。だからその恐怖で毎日を過ごしていたのです。
「神様、僕はあの時、本当に彼のことが嫌いだったのかもしれません。彼がいなかったらと思ったのかもしれません。でも、僕はそのことを彼に言うことはできません。彼からなぜ僕を叩いたのか聞くこともできなかったのです。彼はいつも一人です。何か心に詰まったものを抱えているようにも思えたのです。けど僕は彼には近づきたくはなかったのです。彼から少しでも遠くに居たい、もう二度と会いたくないとさえ思ったのです。
僕は暴力が嫌いです。それ以上に怖いです。だから何も言いません。いや言えません。でも、ひよっとして、仮面ライダーのようなサイボーグに生まれ変わることができたらと、つい子供のような夢物語にすがってしまいます。
彼に話しかけるには僕は強くならないといけません。だから、僕は母さんに言って、格闘技を習いに行きたいと言ったのです。母さんは僕の心を見透かしていたのか、暴力に対抗するために暴力を身に付けてはいけませんと言ったのです。僕は彼と喧嘩をするつもりはなかったのですが、結果としてそうなったかもしれませんし、そもそも防御のために格闘技を習ったのに、かっとなった僕は、彼を傷つけることになるかもしれません。
僕は母さんに逆らってでも格闘技を習いに行くことはなかったのです。あきらめてしまったということより、そうすることで彼と立ち向かうことを面倒だと思ったからです。やはり、僕は何も言えないし、何もできない人間なのです。そして僕は少し変わったことを演じること、すなわち誰からとなく無反応で居ることで、誰かからの暴力を受けなくなることを選んだのです。それはまともではありません。まともな僕のクラスメートは今日も誰かに殴られています。声をだす。勇気をもって声をだす。皆に伝わるように声をだす。僕は学校に居る時にそう思い続けていたのです。けれど、やっぱりできません。僕はやっぱり弱い人間です。そして自分の事だけしか考えていない人間です。だから、そうなることを見透かしていた彼に僕は叩かれたのかもしれません。
僕は彼が、俺のこと嫌いなんだろうと、叩いたあとに聞いてきたことを思い出します。彼はお前が嫌いなんだと言わなかったのです。でもどうしてそう聞いてきたのでしょうか?今思うとそう言った後の彼の眼はものすごく悲しい目をしていたように思うのです。彼はひよっとして勉強したかったのにいつも一人だったので僕に勉強を教えてほしかったんでしょうか?そんな僕がはしゃいでいる姿にカッとなってしまっただけなんでしょか?それとも、僕に殴り返してほしかったんでしょうか?そして僕は彼に嫌いだとはっきり言った後に、それでいいのかい?僕が嫌いなままでいいのかい?僕はそのことが心配だ。だって、僕らは同じクラスの友達じゃないか、と言ってほしかったんのでしょうか?神様、教えてください。そうでなければ、僕はこれから声を出すことが出来なくなります。でも彼はある日転校してしまいます。その前日に彼は僕の所に近づいて睨んできたように思ったのですが、それは一瞬だけで、何か寂しそうにも思えたんです」
(五)
ナガイはテレビ局に戻ります。しかし、スポーツ部には戻れなかったのです。誰かの前ですらすらと笑顔で話すことが出来なくなったからです。アナウンサーにとって致命的です。営業など他の部門へ回ることも出来たのですが、上司はナガイの気質を知っていたので報道記者としてナガイの配置換えを行ったのです。報道記者なら、いつもではないのですが、取材してきたことをテレビで報告することもあるからです。
ナガイは重荷になって、また、前と同じようになるのではないかと危惧したのですが、もはやそうなることはなかったのです。やはり報道アナウンサーを目指して入社した過去もあり、とても不思議ですが、里山で暮らしたことや、あの神社に参拝した時のことを思い出すと、心が落ち着いてくるのです。そして、叔父に言われたようにあの震災の取材テープの編集をまた始めます。数日やれば数週間やらないということもあったのですが、それが自分自身の復興であり試金石だと考えて続けてみたのです。
ナガイは出来るだけマイペースで仕事をさせてもらえたことを感謝しつつ、取材テープとは別の仕事というか、日本のことをもっと知りたいと、出来るだけ余った時間をその勉強に費やそうとしたのです。歴史や文化など日本人が抱えている問題をひとつずつ考えていって、ノートに記し始めます。それに加えて英語の勉強も始めます。日本を考えるには日本から飛び出さないといけないと思ったのかもしれません。テレビ局の報道記者という肩書はとても役に立ちます。個人的な興味であったとしてもテレビ局の名刺をだすとたいていは忙しいさなかであったとしてもできるだけ協力してくれたからです。
ナガイは生まれ育った日本の宿命にすり寄りながら生きていくということがどれほど大切で自然な形であるのかを知ると同時に、そういう環境で知らず知らずのうちに生かされてきたのだという事実に感謝するのです。里山のような自然が自ら姿を変えて来た風景の中でも、都会のような利便が様々な姿に変えて行く風景の中でも、支え、支えられて人々が生活していることをやっと受け入れられるようになったのかもしれません。
ナガイは結婚し、さあ、これからという矢先に、テレビ局の人事部は安住の地からナガイを強引に海外特派員としてアメリカに移動させたのです。けれどもナガイはそのことを拒まなかったばかりか、反対に自分の夢がすんなりとかなえられていく現実に少し戸惑いを覚えたのです。
約五年間の海外での暮らしはナガイにとってあっという間の歳月だったのです。自分がどれほど成長したのかを測る尺度はなかったのですが、生まれた二人の娘だけはもうしっかりと自分の意見を言えるようになっています。
あれからどれくらいの歳月が流れ、どれくらいの世の移り変わりと関わって来たのかわかりませんが、まだ少しだけローンが残っている自宅に我が物顔で居座っている取材ノートや資料だけは、正直にナガイの足跡となっています。
そんなある日のことです。豪雨による災害があって、ナガイはその取材に被災地を訪れたのです。もはや昔のような逸る思いは浄化されていて、混じりっ気のない自然な感覚で、記者として冷静に周囲を観察することが出来たのです。被災地の状況は他の人達に任せ、復興を取り仕切る行政側の取材を行っていたのです。災害は常に生じるわけではありません。しかし、ここ数年はどこかでなにがしかの災害が生じています。ならば、行政側はそれらを教訓として、それなりに事前に対策を練っているはずです。ナガイが昔経験した震災の時にはまだそういう対策が国や地方自治体で確立していなかったために、二次災害とは言わないまでも、被災者がずいぶんつらい思いをしていたことを思い出すのです。
ナガイは朝早くから被災地を歩ける範囲で見て回ります。土砂が軒下まで入り込んでいてその舁きだしが必要なことがわかります。もちろん、住人が一人でするわけには行けません。家族が大勢いればよいのですが、大きな家に夫婦だけで住まわれている場合もありますし、お年寄りが一人で住まわれていることもあります。もちろん、避難所にいます。けれども家がどうなっているのか、二次災害が起こりそうもないと判断されたら気になるのが当たり前です。誰しもが我が家に戻りたいと思っています。いやたとえ戻れないとしても泥土の下には思い出が埋まっています。
ボランティアセンターに行くと朝早くから幾人かがこられています。皆、休日を返上していろいろな地域から、色々な年齢層が男女問わずに来られています。けれどもそれを受け入れる体制は様々です。きちんとボランティア活動に参加していただく人達に啓蒙というか、お知らせをしている行政機関があれば、参加する方もそのことを十分に理解しないまま熱意だけで来られている人もいます。NPO団体の一員として活動されている人もいます。皆、思いは一つなのでしょうが、自己責任で無償活動をすることを組織として行うことにひずみがないわけではありません。
ナガイがそれらの問題点を取材しながら整理していたのですが、その時にある人物に会います。それは本当に偶然だったのですが、もくもくとスコップで泥土を舁きだしている後ろ姿についひき寄せられるように近づいて行ったのです。つかい古された作業着に長靴、いたるところに傷痕のあるヘルメットにマスクを付けていて、その風貌に一瞬たじろぎかけるのですが、すぐに穏やかな空気に包まれ、透明な実像につい話しかけてみたくなる。そう言う人だったのです。
「あの・・・」
その男の人は作業に没頭していてなかなか振り返ってくれなかったのですが、ナガイは何度か声を掛けたのです。
「何か?」
振り替えった男性は仕事を中断され怪訝な視線で睨み付けてきたように思ったので、申し訳なくてつい伏し目がちになったのですが、限られた空間に存在する瞳を捉えることが出来た時に、ナガイの身体中から熱いものがこみあげてきて、奥底から今にも吹きだしてくるような感覚に苛まれていたのです。
ナガイは正しいとか正しくないとか関係なく、確信に満ちた声で思わずその男のひとを名前で呼んでいたのです。すると、マスクを降ろし、それでも、半信半疑だったのかもしれません。しばらくその男の人はナガイをじっと見つめていたのです。だから、ナガイがもう一度声を掛けると、やっと灰色の戸惑いから虹色の喜びに表情を変化させてくれたのです。
「お久しぶりです」
「お元気でしたか?」
「ナガイさんとは、いつかまた会えるような気がしていました」
その人は震災の時に建設現場で働いていた彼だったのです。
「ボランティア活動をされておられるんですね」
「はい。まだあの建設会社で働いていますが、来られるときは・・・」
お互いの年輪がお互いの頭髪と顔の肌つやに出ています。それでも、その軌跡がところどころ穏やかな流れで描かれていないことを何となくお互いが感じています。
「取材ですか?」
「はい」
「でも、被害に遭われたかたではなくて、被害に遭われた方をどう行政が対処しているかを取材しているんです」
「ここの行政も被害者ですよ」
彼はきっぱりとそう言ったのです。ナガイはそのことを理解しています。理解した上でその関係を取材しているのです。それは過去の教訓を生かすことであり、未来への教訓になるからです。
「わかっています」
ナガイは控えめにそれだけ言ったのです。彼はその表情から少し察してくれたようです。それでナガイは十分だったのです。
「作業中なのですが、ナガイさんと少しお話ししたくなりました。昼休みは作業に応じて時間が変わるのですが、五時には必ず仕事を終えます。私は自家用車で来ていますし、そこで寝泊まりしています。明日まで作業をする予定なので、よかったら、夕方お会いしませんか?」
「私も別段用事はないのですが、今夜には一端社に戻ろうと思っています。車で来ていますので、ちょっと一杯とはいきませんが、よろしいですか?」
「もちろんです。ここには赤ちょうちんはありませんし、ボランティアで来ている時はアルコールを飲まないようにしているんです」
ナガイはその後数か所行政機関とインフラ機関を回り、約束の時間の少し前に彼の所を再び訪れたのです。西日は幾分弱くなった程度でしたが、どこからか涼風がやってきて、身体の火照りを癒してくれます。
「テレビ局をおやめになったのですか?」
彼がテレビに出ていないナガイを思って心配そうに尋ねてくれます。最後に彼と話した時の彼の優しさが思い出されます。
「いいえ、今でも、テレビ局で働いています。でも、アナウンサーはしていないんです。最後にお会いした後、しばらくしてスポーツ部のアナウンサーに戻ったんですけれど、そのうち人前で声が出せなくなったんです」
ナガイは彼になら正直に話してみても良いような気がしたのです。けれど、そう言われた彼は少し戸惑っているというか、申し訳なさそうな表情をしています。
「でもあなたのせいではありません。きっと、私にはスポーツ部が合わなかったんだと思います。私はアナウンサーになりたいという夢が確かにあったのですが、本当は報道部のアナウンサーになりたかったんです。でも、報道のアナウンサーは時としてつらいことまで報道しなければなりません。そして、本当なら真実をすべておおやけにしないといけないはずなのに、そうできないこともあります。私はその葛藤の中で心が折れてしまったのです」
「それはやはり・・・」
「震災の経験は確かにその一端だったのだと思います。けれどそれだけではないのです」
ナガイはそれ以上の理由は言えなかったのです。確かにあの時の経験がナガイに重くのしかかってきたことは事実です。けれど、それは彼らとの問題ではないのです。あの時にあの場所で、ナガイの人格に襲い掛かってきた、あくまで個人的は悲劇なのです。
「震災という風にひとかたまりに捉えられているんですけど、それぞれにとっては全く違うものなんですよね。あの時に多くの人が共感したこともあればしなかったこともある。人々が何かに関わったり関わらされたりしたんですけど、その思いはそれぞれなんです。みんな本当はそのことを叫びたかったんだと思うんです。言いたかったんだと思うんです。でも、しなかったし、出来なかった。私は本当ならそう言う人の代わりに言わなければならならなかったに・・・すいません」
「ナガイさんが謝ることでありません。私もボランティア活動は罪滅ぼしのために始めたのかもしれないからです。作業は決して自分のためにしているのではないのですが、自分のためにしている部分もあります。けど、そんなことは被害に遭われた方には関係ないのです。その動機はどうでもいいのです。目の前にある問題を自分なりに精一杯していることが大切だと、最近になってやっとわかるようになってきたんです」
「失礼ですがご結婚は?」
「罪滅ぼしと言ったから、お聞きになったのですか?でも、彼女に対してではありません」
ナガイは謝ります。けれど、これは記者の気質が尋ねたのではありません。懐かしさを弔いたかっただけなのです。
「いや、別にかまわないです。気にされなくてもいいですよ。今でも確かに一人です。でも、なんとなくです」
彼には彼の事情があるに違いないのです。しかし、そのことに対してこれ以上踏み込むつもりはナガイにはもちろんありません。そして、なぜか、彼はその後何度かそれなりに恋愛をしてきたのだろうと、勝手な想像が許されるような余裕が伝わって来たのです。
「あの取材テープはどうされたのですか?」
「大げさかもしれないのですがあのテープの編集は私の復興だったのです」
「終わったのですか?」
「作業は終わりましたが、復興とはいきません。でもそれでいいんです」
「声がでなくても伝えられますよ」
「いいんですか?」
「もちろんです」
彼が持ってきていたカップラーメンをバーナーでお湯を沸かして食べながら、その後もお互いの今までをかいつまんで話し、そして聞いていたのです。もちろん、すべてを話すこともできませんし、すべてを理解してもらえたかどうかはわかりません。しかし、それでいいのです。そういう人間になっていたことが嬉しかったのです。
「ガンバレって、みんな声を掛けてくれるんですけど、ここに居るみんなはガンバっているんですよ。じゃあ、もっと頑張れって言ってくるんですけど、もっとは頑張れないこともあるんですよ。でも、みんなありがとうございますって言ってくれますよね。被災者としてはそう言うしかないんですよ。間違っているかもしれないんですが、僕はそう思うんです。だから僕は黙ってボランティア活動をしているんです。それも自ら作業場を探し出すことはしません。ボランティアセンターに来て、分担を与えられたら、そこで精一杯のことをするだけです。でも、頑張りません。いや正確にいうと、自分の体力や装備にあっただけしか頑張りません。無茶をすると、被災者に却って迷惑がかかるからです。それにせっかくのボランティア活動が続けられなくなるんです。ここには、色々な人がやってきます。私は彼らに何かをしてくれとか言いません。でも、彼らが困っていても彼らが手助けを求めてこなかったら何もしません。薄情かもしれませんが、これも私がボランティアを続けるためです。幸いにも長く続けているので、ボランティアセンターの職員が初めての人に私の仕事をまず見てくださいと言ってくれます。そのおかげで、私の行動を見習ってくれている人もいます。先ほど私と一緒に働いていた若者は、バンドをしているみたいです。最初はなよっとしていて、何も準備せずに、お昼ご飯をせがんでいたのですが、今では、ちゃんとした服装で自前の装備を準備してきて、コンビニで買ったおにぎりと、水筒をもってやってきます。最初はなかなか体力的にきつかったようですが、出来る範囲のことを黙々とこなしていますし、きつくなったら休んでいます。私はそれでいいんだと思います。来てくれただけでも、それもここで誰かの世話にならないように考えてきてくれただけでもありがたいと思っているんです。
何も考えないで作業場で黙々と働くだけだと先ほど言いましたが、本当は作業場ではなく被災者の家です。ここには被災者の思い出が詰まっています。そのことだけは忘れないようにはしています」
彼の車につるされた古いランプに夜虫が集まっています。しかし、もはや二人はそのことを気にしないどころか、伸びきったラーメンを口に入れようとしながらも、また話し始めていることにさえ気が付いていなかったのです。
(六)
あの人と会ったのはナガイがヤマブ医師から、腱鞘炎に対して二回目の注射を受けて、診察室から出て待ち合いから受付へ行こうとした時だったのです。
「ボランティア活動をやっているんだってな」
あの人は大きなサングラスで顔を覆っていたのですが、少しずらすとあの鋭い眼光を向けながら、ナガイに近寄ってきたのです。定期診察ためにヤマブ医師の元を訪れていたのかもしれません。
「先生から聞かれたのですか?」
「彼はそんな男じゃないよ。きみも知っているだろう。おいぼれと言っても俺の取材能力は落ちていないぜ」
あの人の言葉は今でも重みがあります。まだナガイにはすんなりと受け止めて返すことが出来ません。
診察はもう済んでいるのかわからなかったのですが、あの人はナガイを近くの喫茶店に誘います。
「お元気そうですね」
「ピンピンしているとは言い難いが、それなりに生きている」
「局には戻られないのですか?」
ナガイが見る限りにおいては確かに元気そうに見えるので、尋ねたのです。
「顔がね」
あの人は今度は完全にサングラスを外し、ナガイに顔を晒します。傷痕はあまり目立たないように思うのですが、顔の表情が冷たく、あまり動かないように見えます。
「先生に苦労をかけたよ」
そう言えばヤマブ医師は形成外科医です。形成外科では顔の様々な外傷や傷痕に対して修正術を行っていることをもうナガイは知っています。ただし、あの人の話によると、ヤマブ医師は顔に関しては自分が執刀することはなかったようで、大学から有名な先生を呼んでくれて助手として手術に参加してくれたそうです。本当だろうかとナガイは思ったのですが、ちょっとした傷痕の修正の時には局所麻酔だったので、偉い先生だったのか、ヤマブ医師がずいぶん気をつかっていたと、その時だけはあの人の表情が少し緩んだように見えたのです。
「じゃあ、何れテレビ局には戻ってきていただけるんですね」
「難しいかもしれないな」
「顔の傷痕はもっと良くなっていくって先生は言ってくれたんだけど、やはり完全にはもとに戻らないから。いや、戻らなくても俺はいいんだ。そういう、俺自身を見てくれればいいからね。けどテレビは色々な人が見ているだろう。だから、俺をみて悲しいとか辛い気持ちになる人もいるかもしれないと思うとなかなか踏ん切れないんだよ。俺も年かもしれない」
「少し休まれたらまた元気になりますよ」
ナガイはそう言いながら、きっとあの人はナガイの過去をすべて知っているのだろうと思ったのです。
「海外に行っていたそうだな」
やはりすべてお見通しの様です。
「はい」
「日本はどう見えた?」
ナガイはその大雑把な質問にすぐには答えられなかったのです。というよりは、なぜそんなことを聞いてきたのかわからなかったのです。
「すぐには答えられないよな。でも、その表情じゃあ、何か思うところはあるようだな」
「まあ」
ナガイは曖昧に返事するしかなかったのです。
「今度、あたらしい報道番組が立ち上がる。君にキャスターになってもらいたいと思うんだけど、どうだろう?」
ナガイは唐突だったので戸惑うことしか出来なかったのです。
「君に色々なことがあったことは知っている。けれど君はそれを乗り切った。だから今なら自分の言葉で何かを発信できるんじゃないかって思うんだ。もちろん簡単なことじゃないし、キミにも事情があるだろう。僕もキャスターをしていて、こういう体になった。そのことにまだ打ち勝っていない。だから頼める立場ではないんだ。しかしね、キミは精神的に、私は肉体的に傷ついた。だからわかることもあるんじゃないかって思うんだ」
ナガイとあの人は確かに傷ついたのかもしれないのです。そのことで何かを失い、何かを得たのかもしれないのです。けれどそれぞれにとって全くとは言わないまでも異なるものだということをあの人も知っているはずなのです。
「人々に何かを伝えるために、テレビ局で我々は働いているんだろう」
ナガイはあの人こそキャスターとしてもう一度現場に戻りたいと強く思っているんだと改めて知ったのです。どんなことがあってもどんなヒトに対しても言うべきことは言うという、あの人のこれまでの強い意志は決して消えてはいないように思えたのです。
ナガイは急に自分がふがいなく思えて仕方がなかったのです。それでもあの人の熱意になかなか動けないでいる自分が居るのです。
「僕よりも・・・・」
「俺の事かい?けどな、俺は無理なんだよ」
「顔の事ですか?」
「違うんだよ。女房がね。もう長くはないんだ。あれほど俺のために看病してくれたのに」
あの人はわざと気丈に振る舞っているように見えます。
「でも、誤解しないでくれよ。女房は仕事に戻ってくれって、言ったんだ。仕事をしている俺を見ているのが一番の幸せだって。でもな、俺は素直に、すまない、そうする、とは言えなかったんだ。ありがとう。それだけしか言えなかったんだ」
ナガイは何も言えません。
「キミは察しがいいから。俺が現場に戻りたいって、そう感じたんだろう。まさしくその通りさ。でもな、青臭いかもしれないけど、目の前のことをまず一生懸命してみようって、そう思ったんだ。それは俺のいままでの変わらないスタンスなんだ。そして、今目の前には女房が居る。それだけさ」
ナガイは、きっとあの人は自分のことも奥さんのこともそして社会のこともこれまで治療を受けながら何度も考えたんだろうと思ったのです。ここでナガイに初めて会ったような接し方だったのですが、それも、きっと、もっと以前に知っていたに違いないとも思ったのです。
「この番組のキャスターはアナウンサーではないんだよ。だから、原稿も自分で作らないといけない。当然取材もしないといけない。時の人にインタビューをしないといけないし、その人は日本人だとは限らない。もちろん番組だから、キミだけですべてをこなすわけではない。取材もインタビューもデレクターや記者たちと検討していかなければならない。もちろんそのことに関心がある人もいれば全く関心のない人もいる。加害者も入れば、被害者もいる。良く思う人もいれば思わない人もいる。だからと言って黙っていることはできないとキミが思えば、いやキミでなくても誰かが思えば声を上げないといけない。俺はそう思うんだ。ただ、不幸なことに現実として俺はこういう体になった。妻にも結局迷惑を掛けることになった。それは全くの偶然かもしれないし、必然かもしれない」
あの人は淡々と語ってくれます。ナガイはただ聞いているだけです。
「俺はキミに無理強いさせようとは思っていない。もしそう思っているんだったら、局の人事部に行けば済む話だからな。幸か不幸かは別にして世の中は必ず前に進んでいる。だったら、よりよくなった方がいいじゃないか?そのためには過去をきちんと見ないといけない。キミの取材はそういうためなんだろう?」
見過ごせばどんなに楽だろうと思うこともあるのです。ナガイもそのことはわかっているのです。けれども、反省と備えは必要なのです。そういう声に耳を傾けたいのです。
「私は心を人前に晒すことを怖がっているのかもしれません。私の言葉で傷つく人がいるかもしれないからです。ボランティアをし始めた時に、その日の作業を出来るだけ効率良くしようと思ったのです。泥土をスコップで舁きだして、いらないものを廃材として処分していたのです。私は自前で用意した道具で一人その作業に没頭していたので、誰にも迷惑を掛けていないと思い込んでいたのです。そうしたら、家族の方が廃材の中から、割れた湯呑をきれいに拭いていたのです。私はそのことに最初気が付かなかったのですが、あまりに続けているのでその理由を聞くと、おばあさんが良く使っていた湯呑だったのです。私が廃材として扱ったので、壊れてしまったのかもしれません。だから、私は謝ったのです。そうしたら、その方は、泣き顔で微笑んでくれたのです。そしてありがとうって、言ってくれたのです。私はある人に出会ってから本格的にボランティアを始めたのですが、そう言うことかと始めて思ったのです」
ナガイはアナウンサーです。だから、キャスターになるのなら、出来るだけアナウンサーのようにはっきりと正確に自分の言葉が人に伝わってほしいと思っていたので、もはや管理職になられたアナウンス部長に無理を言って再教育を受けさせてもらっていたのです。だからといって、ナガイはキャスターになることを承諾したわけではありません。再教育を受けているのも何かと口実を作っているだけなのです。きっとあの人はそんなことは百も承知なのでしょう。けれど何も言いません。不気味なほど静かなのです。
「あなた、話があるの」
家に帰ると、妻が話しかけてきます。ボランティアに行くときや、取材に行くときや、趣味の登山に行くときも朝早くから弁当を作ってくれます。ナガイは妻にはすべてを話していたのですが、最近は会話が少なくなってきています。それでもキャスターの依頼をある人から受けたことはあの日すぐに話していたのです。むろん、あの人が事故に巻き込まれ、今どうしているかも含めてです。だから、そのことについて何か意見を言ってくれるのかと思ったのです。ナガイは妻から意見を言われることが嫌いではありません。むしろありがたいというか、安心するのです。ただし、素直に従う時もあれば、話し合うこともあります。
「猫を飼いたいんだけど・・・」
ナガイは突然言われてびっくりしています。娘たちはもう大学に進学しています。二人とも自宅から通っているのですが、何れ出ていくことになります。友達がいないわけではないですが、少し寂しくなってきたのかもしれません。
「悪いなあ、もう少し家に居てあげればいいんだけど」
ナガイはそうねぎらうことしか出来ません。
「ううん、そうじゃないの。保護された猫がいるのよ。あなた一度取材に行ったことがあったわね」
ナガイは確かに取材に行ったことがありますが、妻と行ったわけではありません。しかし、その話は妻にしたように思います。猫を飼いたいと思っていた妻は、ペットショップに行くよりはその施設から猫を引き取りたいと考えたのかもしれません。
「僕はかまわないけど、大変だよ」
保護施設に預けられている猫には色々な事情があります。単に飼い主に捨てられた猫もいますが、飼い主がお年寄りで入院されたり、独居死で取り残されたり、飼い主に虐待されたり、被災地では傷つきながら飼い主を捜してさまよっている姿を目にしたことがあります。理由がさまざまなように、心だけでなく身体にもさまざまな傷を負っています。ヒトが近づいただけでも、シャーと爪を立てる猫もいます。
妻が引き取ろうとしている猫は人間を恐れているとか怖がっているとかはありません。けれども、猫特有のツンデレというものはなく、何故か無気力に見えて、撫でると目を細めてくれるのですが、鳴き声を一度たりとも聞いたことがないのです。妻はそのトラ猫が次第に気になったようです。
「その猫は雪国から来たの」
妻からの言葉ですべてがわかります。ナガイもそのことを語りません。ナガイは海外に出かけていて、慌てて帰国して向かった先で、何も考えられず、一言も発せられなくて、ただ、一日中立ち尽くしていたことだけを憶えています。
妻は結局その猫を引き取ります。二人は出来るだけ優しく接していたので、そのうち心を開いて鳴いてくれるのではないかと思ったのですが、いつまでたっても猫は鳴かなかったのです。鳴けるのに鳴かないのか、鳴きたいのか鳴きたくないのかわからなかったのです。妻が言うように、ナガイが頭を撫でてあげると、嫌がらないのですが、かと言って、妻と違ってナガイには自ら近づいてはくれないのです。でも、遠くから見ているだけでも、なぜかナガイの心が落ち着いてきます。むしろ、ナガイがこの猫に保護されたようにも思えてきます。
ナガイはキャスターになることにまだ踏ん切りがつかないでいたのですが、だからと言って、精力的に取材に行っていたわけでも、ボランティアに出かけていたわけでもありません。家に居ることが多くなっていたのです。そんなナガイを猫は遠巻きに見ています。ナガイも何かを言うわけではありません。微妙な距離感で平静を保っていたはずなのですが、最近はその猫が少しずつ何かを話しかけてきているような気になってきていたのです。そしてその無言の視線で心の奥底を掻き毟られているような気になってきていたのです。そんな時でした。震災が起こったのです。
(七)
ナガイは現場に行き、取材をし、現地にとどまって、時としてボランティアの人達と出来ることを精一杯していたのです。もちろん報道記者として若手の指導もします。しかし、一度だけ、誰もいなかったので、マイクを持たされたのです。ナガイは最初自分が一人で出来るのか不安だったのです。この齢になって恥ずかしいのですか、手が震えたり、言葉が詰まったりしないだろうかと心配で仕方がなかったのです。けれど、いざ中継が始まると、ナガイのそれまでの懸念が嘘のように消えていて、目の前の状況とヒトビトの様子を出来るだけ正確に伝えようとそのことに集中していたのです。
ナガイはそのことに驚きながらも、まだ落ち着かないで怯えている自分がいることもはっきりとわかります。怖いっと、あの時、瞬時に思った記憶が冷静にアナウンスすればするほどナガイに蘇ってきていたのです。それでも現場記者として、報道アナウンサーとして、ナガイは前を向こうと頑張っていたのです。
そんな矢先です。ナガイは中継を終え、ある崩れかけたビルの建築現場で鉄材の整理をしていたのです。この鉄材が二次災害を生むことがわかっていたからで、その作業は仕事ではなくボランティアのつもりで行っていたのです。昼間の取材やインタビューで疲れていたことと、見知らぬ人に向かって話すという慄きに完全に打ち勝っていないナガイは、ボランティアの際に一番気を付けないといけない自己管理と状況把握、そしてなによりも、「つもり」という甘い考えに油断していたのかもしれません。余震で崩れてきた鉄材の下敷きになるまでのスローな映像が恐怖として刻まれてからは完全に意識を失っていて、救急病院で妻の声を聴くまで、ずっと意識の外でただブルブルと身体を震わせ続けていたのです。
幸いにも致命的な外傷はなかったのです。しかし、それは日常生活を送るという意味であって、アナウンサーであるナガイにとってはある意味では耐え難い後遺症を持つことになったのです。
それは言葉だったのです。いや発声と言った方が正しいのかもしれませんが、ナガイは病が癒え、言葉を発して、相手がきちんと聞き取れる日常会話をすることが出来るのに、以前のようなアナウンサーとしての声にはなかなか戻らなかったのです。それはあの時、崩れてきた鉄材が、まるで剣道の突きで竹刀が誤って喉に食い込んだような衝撃が声帯周囲の組織に及んだからだったのです。そのために、一時的に呼吸困難となり、たまたま通りかかった救護班に応急処置をしてもらっていなかったら、ナガイは死んでいたかもしれなかったのです。外傷だから其のうち良くなってくるでしょうとその後担当医は説明してくれたのですが、半年近くなっても戻らなかったのです。もちろん、耳鼻科を訪れファイバースコープ検査を受けたのですが、はっきりした所見はなく、あなたがそう思い込んでいるからと精神的なものと説明する医師や、いやこれは機能的なもので発声の仕方に問題があると、以前のようなアナウンスの発声練習を促す医師もいたのです。
自分の耳を疑うことはなかったし、妻も以前とは声質が違い、少し高く少ししゃがれているようだとナガイが思っていた通りのことを言ってくれたので、心理カウンセラーに行くことはなかったのですが、発声練習だけは続けていたのです。
ナガイはまた同僚のアオキに聞いてみます。そうしたら意外なことを聞かされるのです。
「ヤマブ医師に相談してみたら?手外科医だけど形成外科医だと以前言ったよね」
「ああ、でもどういことだい?」
「あの先生、以前、俺が取材したことがある音声外科で有名な先生と仕事をしていたそうなんだ」
「音声外科?」
「そう、声の外科医さ」
ナガイはあの時と同じようにアオキの言うことがすぐには理解出来なかったのですが、簡単にいえば耳鼻科が行う音声外科を形成外科医が行うこともあるということのようなのです。
「ヤマブ医師は今手外科医だ。でも、何らかの知識はあるはずだから相談にのってくれるはずだよ」
ナガイは久しぶりにヤマブ医師を訪れます。ヤマブ医師の外来は相変わらず混みあっています。けれど、ナガイの顔を見るとすぐににこやかに挨拶をしてくれます。ナガイは腱鞘炎で来たのではないんですともろもろの事情を説明します。すると、言語治療士を紹介され、その後、隣接されている病院に連れてこられて、夕方に時間外でファイバースコープの検査が行なわれると、二週間後にもう一度ここでお会いしましょうと、いつもの診察室ではなく言語治療室でナガイの病状について説明してくれるようになったのです。
「治療法はありますか?」
ナガイはファイバースコープの検査が終わるや否やそう聞いていたのです。きっとヤマブ医師は答えてはくれないと思ったのですが、意外にも、今日の検査と言語療法士の意見を聞くと、方法がないわけではないのではないかという印象です。けれど、「私は専門ではありません。カンファレンスにかけてもらいますのでお時間を下さい」と、言われたのです。
ナガイはついもう少しと職業柄我慢が出来なかったのですが、ヤマブ医師のピッチがなり、緊急手術があるからとその場は別れたのです。
ヤマブ医師からの説明を悶々とした思いで待っている間に、あの人が、もうすでに職場に戻っていたナガイのもとに現れます。ナガイの病状をねぎらってくれたのですが、元気そうに見えるナガイに向かってもう一度キャスターにならないかと誘いに来たのです。ナガイは良くならない声のことを話そうとしましたが、あの人の動かない顔の表情とどこが違うのだろうと言葉を飲み込んでしまいます。目で物を言うという言葉がありますが、テレビは芝居ではありません。だから顔ではなくやはり声が大切なのです。聞きぐるしい声では内容は伝わりません。取材でも相手が当惑するかもしれません。だから、やはり今の声ではキャスターはお引き受けできませんと答えたくなります。そんなナガイに、「誰かが何かを伝えなきゃならないだろう」と、あの人が言ってくれればどんなに楽だったのかもしれません。けれどあの人は、「誰かが何かをわかってあげなくちゃならないだろう」と言ったのです。つまり、言う人ではなく聞く人になれと言ったのです。それがキャスターの胆だと諭されたのです。
この世に生を受けて半世紀を迎えます。中年と言われ、もっとも自分の言葉と考えに責任を持たなければならない年齢に近づいてきています。けれども、ナガイはまだ悩んでいます。見える時もあれば見えない時もある障壁が倒れてこないかと、その恐怖でびくびくしています。そんな男がキャスターになれるのでしょうか?それでもあの人が言うように誰かに寄り添おうとするならば、魔法が必要なのかもしれません。それはアナウンサーとして誰もが認めるあの声なのかもしれないとナガイは思うのです。
ナガイは猫と一緒に里山に向かいます。車のドアを開けると物音ひとつ立てないで乗り込んできたのです。そして後部座席に置かれた、からだがすっぽりとはまるクッションの上で相変わらずの素知らぬ顔でずっとじっとしていたのです。
車を降りると猫はナガイの肩にすっと飛び乗ると器用にバランスを取りながら降りようとはしなかったのです。だからナガイはそのまま里山の神社に向かいます。鳥居をくぐろうと猫がいることを忘れて一礼すると、それを待っていたかのように飛び降りて、手口を清めるナガイの傍らでしきりに前足で顔を舐めていたのです。猫は適度な距離を保ちながらナガイから離れません。かと言って、ごろんと横たわるのではなく、ナガイが神社の前に立ち、参拝し、神様に話しかけるのをきちん前足を伸ばした佇まいで見守ってくれていたのです。
「神様。私が成りたかったアナウンサーの仕事とは何でしょうか?相手が見えないのに人前に立たなければなりません。誰かが創った原稿を自分が創ったように正確に伝えなければなりません。そこには時として感情は不要です。でも、原稿を読むだけならロボットでもできます。でも本当にそれでいいのでしょうか?私はそうとは思えません。人間だからこそ人間社会に関わることを話さなければならないと思うのです。けれど、それはあまりも大きくて深いです。人間は人間だけで生きているのではありません。人間は人間だけに関わっているのではありません。地球上のすべての生き物とかかわって生きているのです。それは無限ではありません。一人の人間の一生だけではすべてを見渡すことなど出来ません。それと同じように、すべてのひとびとにはそれぞれの考えがあります。それも無限ではありませんし、すべてのひとと話すこともできません。けれども、何気なく見ていたテレビ番組の中で、その内容はその日に起こったことを正確に伝えているだけであっても、人を引き付けるような声で話しかけてくれることで、心に何かしら、今までとは異なる感情をもたらしてくれることもあるはずです。
私は先週ヤマブ医師に会ったのです。先生は私の声の病状について絵をかきながら丁寧に説明してくれます。外傷によって変化した、喉頭というフレーム構造の中にある声帯の機能について可能な限りで教えてくれます。先生はきっとわかりやすく話してくれているのでしょうが、一度聞いただけではよくわかりません。しかし、先生の貴重な時間を無駄にすることはできません。だから、私は間をいただきながら要点をメモ書きすることにしたのです。自分のために取材をしたことは初めてですが、なぜか他人事のように文字を走り書きしていたのです。
先生は最後に治療法を説明してくれます。怪我で硬くなった声帯の手術をするのではなく先ほどの喉頭というフレームの形を変えて萎縮した声帯の緊張度を緩めることで声を低くするのだとまた説明してくれます。まるで箱細工のようですが、やはり私には理解できませんし、何だが怖いような気がします。先生は局部麻酔で声を出しながら行うので安心ですと言ってくれたのですが、私はそのことの方が怖かったのです。だからその手術で完全に元に戻るのですかとお聞きしたのです。けれどそのことには確かな返事をいただけなかったのです。先生はでもその手術はある有名な先生が行いますのでと、それだけしか言ってくれなかったのです。
手術を受けるかどうかの決断は私自身なのです。すべての行いには何かしらのリスクはあるのです。そのことを私は十分に知っています。そしてもしうまくいけば私はアナウンサーの声でキャスターが出来るのです。そうすれば私は迷いなくキャスターとして、世界を、そして、世界の心を、聞きそして伝えることが出来るのです。
でも、最近になって私の心の奥底に眠っているもう一人の私が私の前向きな気持ちを遮ってきます。お前は本当にキャスターになっていいのかと問うてきます。私はその言葉に毅然と立ち向かわなければならないはずなのにそうしないばかりか、そのことに安堵さえしてしまっていることさえあるのです。「手術を受けなければキャスターにならなくて済むんだ」、という誘い文句で揺さぶると、「お前はキャスターになんてなれない。そんな資格なんてない」と、恫喝してきます。決して謎めいた呪文ではないのです。
私はある過ちを犯したのです。それは若き日の震災の時です。私はあの時必死になって取材をしたのです。けれど、そのつらい日々を取材されたくない人もいたのです。私は気にかけることなく取材をし続けます。そんなある日、快く思っていない人達の中の一人の男が突然こん棒で襲ってきたのです。偶発とはいえそのこん棒は避け切れなかった私の胸に当たり私は肋骨を骨折してしまいます。どうして一生懸命取材をしている私を殴るのかと、紅潮している彼の顔を見て憤りを感じます。彼は震災前にある罪を犯していたので執行猶予中だったのですが、私はそんなことには構わず彼を訴えます。でも本当に純粋な憤りだけだったのでしょうか?私はテレビ局の職員です。正義感よりもそういう大きな後ろ盾があったからこそそう出来たのかもしれません。このような状況だったので彼の心を察すれば大げさにしなくても良かったのかもしれませんし、加療期間も短く出来たのですが、骨折として最大限診断できる加療期間で私は診断書を書いてもらったのです。それも、一度自宅に戻ってから被災地ではない病院で書いてもらったのです。彼は逮捕されます。けれど私にはそんなことは関係ありません。彼が目の前からいなくなったことだけで良かったのです。それでもその後私の事情聴取が始まり、裁判へと向かう中で何度か私は訴えを取り下げることも出来たのです。でも、テレビ局のアナウンサーとなっていた私はどうしても理不尽な暴力が許せないと執拗に思い込んでしまっていたのかもしれません。
彼は結局刑務所に行くことになります。ギリギリの生活だったのか、家族は離散します。私と同じように娘さんがいたらしいのですが、彼の借金を返すために学校を辞めて働きに出かけ、かなりつらい思いを強いられていたそうです。
私は殴られたのです。けれど彼は殴ろうとして殴ったのではなかったのかもしれないし、その前に私が精神的に彼を殴っていたのかもしれません。もはや過去を覆すことはできません。しかし、あの時私は幾度も未来を変えられる機会があったのに、勝手な自分の正義感に縛られていてことごとくその機会を自ら潰していっただけだったのです。
私はその過ちに耐え切れなくて心のバランスを崩します。いや、彼に、そして彼の家族に憎まれることを恐れたのかもしれません。だから表舞台に立てなくなったのです。
その過ちは今でも私を前には進ませません。私という人間は卑屈で怖がりで自分勝手で、どうしようもない人間なのです。それなのに結婚し、娘が生まれ、家族に支えてもらいながら好きなことを続けさせてもらっていたのです。
そんな幸せは時として私を苦しめます、持病のように時々症状を発します。だから私は逃げるようにテレビ局のデスクに居座り、ボランティアで泥と格闘していたのです。きっと何もかも忘れて没頭している時間だけが、私が安心できる時間だったのかもしれないのです。誰とも話さないと誰も自分のことはわからない。人々のかかわりを伝えないといけないのに、そうならない時間、つまり自分一人で誰ともかかわらない時間を一番大切にしていたのです。
あの人はその過ちのすべてを知っています。私があの時震災の時に行った過ちを知っています。報道部のアナウンサーとして戻りたかった私がもがいていたためにしたこととはいえまったく思いやりのなかったことです。それは中学生の時に、理不尽に私を叩いた同級生を軽蔑し、排除し、そして遠巻きにああいう人間にだけはなりたくないと思った私が結局そこから抜け出せなくてした行為だったのです。それなら罪滅ぼしでもいいから誰かのために役立ってみないかと、ボランティアの彼と同じようなことをあの人は言うでしょう。けれど、私には出来ません。誰かのために役立つことは誰かの役に立たないことになるかもしれないからです。そして、もしそうであるならば、あの人のようにそのことで命を晒すことになるかもしれません。
私は弱い人間です。私はキャスターになりたくないのです。自分の責任で自分の言葉で自分自身をさらけ出して自分の考えを伝えることが怖いんです。そしてなによりもそんな人間ではないのです。
私を殴り、そのことで家族が離散した彼は私の声を覚えています。月日が顔を変えたとしても声は変わっていないのです。でも、私の声は今変わってしまっています。
神様、許してください。私は声を本当は治したいのです。いや直すべきなのです。けれどそれはキャスターになるためではありません。アナウンサーとしてもう一度やり直したいからです。純粋に皆が私の声に耳を傾けてくれたあの時に戻りたいだけです。それがどんなに困難で無謀なことだということは知っています。未来を生きていないと思われるかもしれないこともわかっています。でも希望は捨てたくありませんし、そうすることで生まれ変われることもあるのです。そして、きちんと刑に服した彼がもし私の目の前に現れたのなら、その声で話し合わなければならないと思うのです。その声は今の声なのか元の声なのかはわかりません。しかし、そうしないと、テレビ局だけではないと思うのですが、報道は一方通行になってしまいます。そうならばいつまでたってもお互いの声は聞こえません」
ナガイは話し終えます。しかし、神様は何も答えてはくれません。その代りにどこからか鳴き声が聞こえます。もしかしたら今まで一度も鳴いたことがないあの猫が鳴いてくれたのではないかと振り返ります。けれども猫は素知らぬ顔を後ろ足で懸命に掻き毟っているだけだったのです。