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第一章 突如襲い掛かってきた危難

 異変に気付いたのは車両からホームに降り立ったときだ。

 肩から提げたショルダーバックがいつのまにか軽くなっていたのだ。不審に思いバッグに目をやるとジッパーが引きあけられていた。

 その意味することに思い至り、千鶴子は顔面蒼白となった。

 慌ててバッグに手を突っ込む。中はすかすかだった。財布もスマホもない。しかしそれらが盗まれたのは大した事ではない。問題なのは大事な物、そして危険な物が奪われたことだ。

 拳銃だ。この日本において特別な権限を与えられた人間しか所持できない物。

 それが犯罪者の手に渡ったのだ。

 千鶴子は絶望の叫びを上げそうになるのを必死に堪えた。そして「冷静になれ冷静になれ」とうわ言のように呟きながら状況を確認する。

 弾は装填されていたか。確か射撃場で全弾撃ったはずだ。少なくとも拳銃が犯罪に使われる可能性はない。

 しかし弾などその気になればどこからだって入手できる。これでは安心できない。となると私の処遇はどうなるのだろう。

 千鶴子はそこで警察学校時代、教官が口を酸っぱくして教え込んだ教訓を思い出していた。

『いいか警察官にとって携帯品は命より大事なものだ。その中でも特に重要なのが拳銃、警察手帳、無線機だ。もし無くしたら即刻クビだと思え』

 自分は退職しなければならないのだろうか。千鶴子は暗然となった。幼い頃からの夢を叶えたはずなのに、それを今になって断念しなければならないのか。

 千鶴子は立ちすくんだ。

 どれくらいそうしていたのだろう。千鶴子は突然肩を叩かれ、我に返った。

「何やらお困りのようですね。力をお貸ししましょうか」

 声を掛けてきたのは見知らぬ青年だった。優形の結構美形な顔だちで、こんな時でなければときめいていたことだろう。だが今はそんな呑気な考えにふけっている余裕はない。と言って見ず知らずの一般市民に自分の失態を明かすことなど出来ない。

 千鶴子は「いえ、なんでもありません、大丈夫です」とはぐらかしてその場を立ち去ろうとした。しかし相手の振舞は予想を超えていた。何の前触れもなく千鶴子のショルダーバッグをつかむと、ぐいと顔を近づけ「うーんやっぱり、臭いますね」と重々しい口調で告げた。その不躾な物言いに千鶴子は羞恥に顔を染めた。そして慌ててバッグを取り返した。

「い、いきなり何を言い出すんです」

 この青年は見かけによらず変質者なのか。千鶴子は任意同行を求めようかと思案した。

「いや申し訳ありません。事件の臭いを嗅ぎつけるといてもたってもいられなくて。お嬢さん、もしやバッグの中身が消失してしまったりしませんでしたか。

 千鶴子ははっとなった。

「どうしてそれを……」

 言うなり相手の顔をまじまじと見つめる。

「図星のようですね。でしたら品物をお捜しするのをお手伝いします。いや、申し遅れました。わたくし、こういうものです」

 青年はきらりとした笑みを浮かべると懐から名刺を取り出した。受け取るとそこには『よろず相談事承り 三上屋』と記されていた。千鶴子は名刺と青年の顔を交互に見比べた。しかし相手の素性を推し量ることは出来なかった。 

定期は取られていなかったので改札は無事に通り抜けることができた。青年についていくと駅とは反対の方角に進んでいった。木造の家屋が続く古びた町並みに青年の姿がしっくりと馴染んで見えた。

 やがて青年は一軒の家の前で足を止めた。そこは木造ではあるがモダンなデザインの家で、周囲の家並とちょっとした不協和音を奏でていた。しかしそれは決定的な破壊までは至らず、危ういバランスを保っていた。その軒先に『三上屋』という看板が掲げられていた。

「さあどうぞ」

 引き戸を開けながら青年が促す。千鶴子は言われるまま足を踏み入れた。すると「あら孝弘、お客さんかね」という柔らかい声が掛かってきた。見ると見事な銀髪のお婆さんがほっとするような笑みを浮かべて立っていた。

「そうだよ。すまないがお茶を出してくれませんか」

「はいはい、お客さんなんて珍しいねぇ」

 お婆さんは全身で喜びを表現しながら奥へ姿を消した。

「好きなところへ座ってください」

 青年に言われて千鶴子は手近な椅子に腰を下ろした。木製の椅子は座り心地が良く、これなら何時間座ってもお尻が痛くならないだろう。一方テーブルはというとこれも木製で、ずっしりとした重量感があった。これらは室内の雰囲気とぴったりで、落ち着いたたたずまいを醸し出していた。千鶴子はこれらの様子に心和み、ざわついた精神が静まっていくような感覚を覚えた。

 そうやって寛いだ気分になったのを見計らったように青年が「詳しい事情を話してもらえませんか」と訊ねてきた。

 千鶴子は意を決し、自分が警察官であること、そして拳銃を盗まれたことを話した。

「それは大事ですね」

 青年は眉間に皺を寄せた。丁度その時お婆さんが茶を出してきたので、青年はすかさず茶碗を掴み、一口すすった。釣られて千鶴子も一口含んだ。署で出される安物とは違って、渋みの中にほのかな甘みがある彼女の好きな味だった。 

「どうやらあれの出番のようですね。佐江さん、あれを出してください」

 青年に命じられて佐江と呼ばれたお婆さんは別室に入っていった。

 何をする気だろう。青年の意図が全く見えないので千鶴子は不安に駆られた。

 やがてお婆さんが小ぶりの箱を持って現れた。それを青年の前に置くと一歩下がって控える。青年は箱の蓋を開けると中から掌大の物体を取り出し、机の上に置いた。見るとそれは木彫りのネズミだった。生きているかと見紛うほどの精巧な造りだ。

 しばし見とれていると青年がいきなり「若林さん、それの上に手を置いてくれませんか」と命じた。ちょっと触ってみたいと思っていたので、千鶴子は言われるままネズミの上に手を乗せた。

「じゃあそのままで拳銃の形を心の中で念じてください。写真のように姿形をくっきりと」

 奇妙な注文だが千鶴子は従った。拳銃……拳銃……。すると掌に触れるネズミの感じが突然変わった。ふわふわとした柔らかい毛並みのような感触になったのだ。千鶴子は驚いて手を上げた。とその瞬間、ネズミはか細い鳴き声をあげると、何の前触れもなく走り出した。

「え!?」

 千鶴子は思わず叫んでしまった。目の前で起こったことがにわかには信じられなかった。目を見開いて青年を見やる。しかし相手は澄ました顔をしていた。

「どういうことなんです」

事情を知っているらしい顔付の青年を千鶴子は問いただした。だが青年は問いには答えず「さあ、出かけましょうか」と支度を始めた。



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