脱走
どうやって家を抜け出そうか考えあぐねいている間に、外は新しい朝を迎えていた。
「全然、眠れなかった……」
家庭的と呼ばれる全般の能力が欠けているマーガレットは裁縫ももれなく下手である。けれどこの一週間で裁縫をやれと言うのだからイザベラにはそれなりの刺繍を終えたものを見せなければならない。こっそり家を抜け出すよりもこちらの方が厄介だとマーガレットは感じていた。
その時だった。コンコン、と扉をノックする音とともに、リュセットの声が扉の外から聞こえてきた。
「マーガレットお姉様、起きていらっしゃいますか……?」
遠慮がちなその声に、マーガレットも思わず小声で返事を戻しながら、ベッドを這い出て扉へと向かった。
「ええ、どうかしたの? こんな朝早くに」
扉を開けると、小さな体をさらに身を縮めて眉をハの字にしながら立っているリュセットがいた。その様子はまるで何かの小動物を思い起こす。困った顔ですら可憐な彼女の様子を見て、寝不足の疲れや、昨夜の苛立ち、刺繍のことなど全てがどこかに吹っ飛びそうなほどの癒しの力を持っていた。さすがはシンデレラと言ったところだろうか。服装はいつも通り灰にまみれ小汚い様子だというのに、突出した輝きを持っている。
「その、昨夜お母様が騒いでいるのを聞いて、いてもたってもいられず……」
よく見てみると、リュセットの透明感のある色白い肌の上に、墨を落としたかのようなクマがうっすらと浮かんでいた。この様子だとリュセットも昨夜眠れなかったのかもしれない。
「ドレスが破けていたと聞こえたのですが、本当でしょうか?」
「ええ、残念なことに……」
一度部屋の中に戻り、机の上に投げ捨てるように置き去りにしていた無残なドレス。それを掴んでリュセットに差し出した。すると切り刻まれたドレスを見たリュセットは目を丸くしながら両手を口に当て、息を飲んだ。
「どうしてこんなことに……昨日私が洗濯をした時はこんなことにはなっていませんでした。ドレスを干した時も……」
恐々とした手つきでドレスにそっと触れ、再び悲しそうな目でマーガレットへ視線を戻した。
「ええ、分かっているわ。リュセットはちゃんといつも通り洗濯をしてくれたのでしょう」
「……は、はい。ですが一体いつこのような事に……私が何かヘマをしてしまったのでしょうか」
「まさか、リュセットは何も悪いことをしていないわ。だってこんなヘマをするのは私くらいよ」
マーガレットはそんな風に言いながら、リュセットを安心させるように微笑んだ。怯えた様子の小動物を落ち着かせるためにリュセットの肩を両手でそっと触れながら。そんなリュセットはホッと息を吐き出した後、小さく笑った。
「ですが、一体誰がこんなひどいことを……」
「さぁ、分からないけれど、鳥や獣の仕業かもしれないわね」
マルガリータの仕業だと言ってしまいたい衝動がマーガレットを襲った。けれどその衝動を必死になって押さえ込んだ。この状況でマルガリータが犯人だと予想もつかないのであれば、リュセットは心からマルガリータのことは疑っていないのだということ。
昨日マッサージの事をマルガリータに知られないようにしたいと言った時も、マーガレットはマルガリータのことを悪く言ったにも関わらず、その意図が違う意味で捉えられていた。あれだけいじめられているにも関わらずだ。ということは、リュセットにとってマルガリータは特別自分にとって悪い存在だと思っていない。そんな相手にわざわざ愚痴を言うのは、マーガレットの良心が問われる気がしていた。
「せっかくの美しいドレスが台無しですわね」
「そうなの。こんなに破れてしまっては修復の施しようもないわよね」
切られたドレスは一箇所や二箇所ではない。刃物で切られている為、縫えばなんとかなるかとも思えなくもない。しかし、それにしては切られた箇所と大きさが問題だった。修復したところでつぎはぎのようになるのは目に見えている。しかもベースとなる生地にはうっすらと柄が浮かび上がるように糸を変えて刺繍が施されている為、縫い合わせるとなるとそれが合わないだろう。
「もし、お姉様がこのドレスを必要でないとお考えであれば、私に譲っていただけますか?」
「それはいいけれど、さすがにリュセットでもこれを修復するのは無理じゃないかしら」
袖なんて辛うじて繋がってる状態だ。もちろんそれも縫い目から裂けているわけではないのだから。
「修復は無理でもリメイクはできるかもしれません。それが無理でもせっかくの上等な生地ですから、この生地を再利用して他のものを作るというのもいいかと」
「リュセットにあげれば有効的にこのドレスを蘇らせてもらえそうね。私の裁縫技術ではできる気がしないけれど、リュセットはなんでもできるものね」
「そんなに褒められてはなんだか肩に力が入ってしまいますわ。なんでもというのも大げさです。せっかくですから試してみたいと思っただけなのですから」
華奢な肩を竦ませて、リュセットはこのドレスを受け取った。その時、マーガレットはあることを思いつく。
「リュセット、私に裁縫を教えてはもらえないかしら?」
「私が、マーガレットお姉様に、ですか?」
キョトンとした表情で首を傾げるリュセットに対し、マーガレットは爛々と輝いた瞳でリュセットの肩を再び掴んだ。今度はさっきとは違って力強く。
「実は昨日お母様に約束させられたの。ドレスをこんな風にしたのは私の責任だから一週間裁縫の練習をするように、と。リュセットも知ってる通り、私裁縫の才は一切ないのでどうしたものかと困り果てていたの。だからどうか私を助けると思って、ね?」
「それはいいですが……」
「ありがとう! そう言ってもらえるととても助かるわ。今日は少し体調が優れないから、明日からお願いできるかしら?」
マーガレットがあまりにも嬉しそうに笑う為、それにつられてリュセットも嬉しそうに笑った。
「わかりました。けれど体調は大丈夫なのですか? 朝食は軽いものにいたしましょうか?」
「いいえ、いつも通りいただくわ。昨日はあまり眠れなかったせいだと思うから、今日一日は休息を取ろうかと思うの」
「そうでしたか。それでしたらゆっくりなさってください。朝食は栄養のあるものをご用意いたします」
人のためにひたむきに尽くそうとするリュセット。ドレスを両手いっぱいに抱えながら、キッチンへと向かった。そんな様子にマーガレットは癒しを感じながら部屋へと戻り、リュセットに借りた服をクローゼットから取り出し、袖に腕を通した。
*
マーガレットがキッチンに着くと、すでに朝食は用意されていた。テーブルの上に乗った暖かなパンと、サラダ、そしてベーコンだ。
ベーコンの焼いた匂いがマーガレットの腹部をうならせた。
「朝食の用意が……まぁ、マーガレットお姉様、それは……」
リュセットのその言葉に眉根を寄せて振り返ったのはマルガリータ。昨夜とばっちりをくらい裁縫の技術を伸ばすように言われた怒りが余韻を引いている様子だった。ぶっきらぼうな表情を見せた後すぐにマーガレットの服を見て、細い瞳を必死になって見開いた。
「あーっはははは。なんですのその格好は」
予想外の服装に驚いたマルガリータはいつもの扇で口元を隠すことさえ忘れ、声を荒げて笑った。その隣に座るイザベラはいつもよりも口角をさらに下げ、汚れたものを見るような目でマーガレットを見ている。
「マルガリータ、はしたない笑い方をするのはおやめ。そしてマーガレット、なんだいその服装は」
マーガレットは二人の様子にも動じず、すっとテーブルについた。
「今日から引きこもる事になったので、着飾るのはやめる事にしましたの。これなら肩のコリを気にせずとも裁縫に集中できますわ」
「そんな格好でするやつがあるかい。外に出ずともいつでも綺麗な格好をしておくのが一流女性としての身だしなみだよ!」
室内にいるのに、わざわざ着飾っている必要性を全く感じないマーガレットはとことんイザベラの考え方とは合わない。ましてやマーガレットは元マッサージセラピストだ。マッサージとは基本コリをほぐす事。あん摩師や整体、理学療法士とは違い、治療を目的としていない。けれどどのジャンルにも言えるのが、コリを作らない、体のストレスを溜めないのが一番効果的なのだ。
そのため、人に見せるわけでもないのであればわざわざあんなにしんどい思いをしてドレスを着るのは非効率な気がしていた。
「そもそもその服じゃコルセットの役割もなしてないじゃないか。腰は細ければ細いほど美しく、毎日締めておかなくちゃ緩むのは目に見えてるよ。それに……」
イザベラがちらりとリュセットを見やる。リュセットはそんな視線を感じてもいない様子でマーガレットのカップに温かな紅茶を注ぎ入れた。
「それはサンドリヨン、あんたの洋服かい? みすぼらしいったらありゃしない」
悪びれもせずリュセットを目の前にそんなことを言いのけるイザベラの神経が理解できない。リュセットは気まずそうで、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「これはリュセットの実母が着ていた洋服です。それを私がお願いをしてお借りしているのです。お母様こそそんな言い方はリュセットに対して失礼だと思わないのですか?」
「ほーらお母様、昨夜私が言った通りでしょう? マーガレットはやたらと灰かぶりの肩ばかり持つのです。この私達よりも灰かぶりのことばかり気遣って、挙句にこんなみっともないものを着るなど、頭がおかしくなったとしか思えませんわ」
マーガレットは肩を怒らせながら、立ち上がった。バンッ、と両手でテーブルを叩き、その衝動でカップの中に注がれた紅茶がソーサーの上に溢れた。
「そんなにみっともないと仰るのであれば、リュセットにもドレスの一つくらい用意差し上げればいかがでしょうか? 彼女が着ている服は私が今着ているものよりも相当古く、くたびれているのですよ!?」
リュセットが恥ずかしそうにエプロンをぎゅっと握りしめた。その様子をみて、マーガレットは自分の言葉も彼女を傷つけているのだと気付き、下唇に歯を立てた。
「……昨夜はあまり眠れていなくて体調が良くありませんの。そのせいで気が立っているようです。一日部屋で横になろうと思っていたので、リュセットが貸してくれたこの服ならドレスよりかは気分が幾分かマシになるかと思っていたのですが、今すぐにでも休息が必要な気がしてきましたわ」
マーガレットは朝食には手もつけず、そのままキッチンを後にした。そんな後ろではマルガリータが不気味に笑う笑い声だけが聞こえて、マーガレットはさらに不快感を募らせていた。
「マーガレットお姉様」
部屋に戻る前に駆けてきたのはリュセットだった。朝食のパンとベーコン、サラダを一つの皿に盛ってくれていた。
「こちらを。少しでもお召し上がりください」
「……リュセット。ありがとう」
正直、食欲はとっくに何処かへと行ってしまったけれど、リュセットの心遣いが嬉しくてマーガレットはそれを受け取った。
「あと、その服を着ているということは……」
人差し指をそっとリュセットの薄いピンク色をした唇に当てた。
「少し勉強をするつもりだから、誰も私の部屋には近づかないようにお願いね」
とはいえ、これだけイザベラを怒らせたのだ。今日はもうここへは来ないだろうと踏んでいた。マルガリータも用がなければ基本マーガレットに会いには来ない。その上今日は体調が悪いと言ってあるため、裁縫はしないことを知っているマルガリータがそのことで冷やかしにやってくることもない。
全ては計画通りだった。
「そうですか。ですがあまり無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう。リュセットも私が部屋を出てくるまでここには近づかないようにお願いね。もしかすると眠気に負けて寝ているかもしれないから。昼食も必要であれば自分で取りに行くわ」
「わかりましたわ」
リュセットは何もかも疑う様子もなく、キッチンへと戻って行った。これでリュセットも部屋を覗きにくることもない。
リュセットはマーガレットの体調を気にして声をかけにくる可能性があった。その時に部屋にマーガレットがいないとなると家中を探し回るかもしれない。するとイザベラやマルガリータに出かけたことがバレるかもしれない。
そうならなかったとしても、家を出ることをリュセットが知ってしまうと昨日のドレスの時のように、何かあればリュセットが責められる可能性もなくはない。何かと罪をリュセットに着せようとするあの諸悪の根源であるマルガリータがあの手この手で要らぬことを吹聴して回るからだ。
「よし、行くか」
一度部屋へと戻り、昨日準備しておいた荷物を掴み、リュセットからもらった朝食を流し込むようにして食べ干し、そっと部屋を後にした。
今皆がキッチンで朝食を食べているのは間違いない。マーガレットは大手を振って、玄関から家を飛び出したーー。