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洋服

 幾分かお互いに気持ちが落ち着きはじめていた頃、リュセットが足元にあるあの泥だらけのドレスを指差して、マーガレットに聞いた。


「ところでマーガレットお姉様、このドレスはどうなさったのですか? 今朝お召しになっていたドレスかと思うのですが」


 マーガレットはやっとリュセットの身体を離し、ドレスを拾い上げた。


「これはその、泥濘にはまった衝動で転んでしまって……」

「まぁ、それは大変! お怪我はございませんでしたか?」


 マーガレットの嘘に対し、イザベラとは打って変わって心配してくれる可愛い妹に思わず罪悪感が生まれた。


「ええ、運が良かったことに怪我はないわ。だけど、その代償としてドレスが汚れてしまったのでお母様がお怒りなの」


 気まずい気持ちで苦笑いをこぼした。けれどリュセットは全く笑ったりせずに、マーガレットからドレスを奪い去るように掴んだ。


「お怪我がなかったことが一番です。このドレスは私に任してください。きっと綺麗にしてみせますわ」

「けれど……」


 マーガレットがドレスを持ってここへ来たのには訳があった。今朝の一件でリュセットと気まずさがあったせいで、上手く話ができるか不安があった。ドレスはそのきっかけになればいいと思ったが、決してリュセットに洗濯を押し付けようと思っていたわけではない。

 たとえ、マーガレット本人が洗濯をし、ドレスが破れ、イザベラの逆鱗に触れることになるとしても。


「またお母様に怒られますわ。その前に私が洗って差し上げます」

「あー、それが……もうバレてしまっているの。だから気にしなくても大丈夫よ」

「それではなおさらですわ。このドレスにダメージを与えてしまえば、お母様はさらにお怒りになることでしょうから」


 ぐうの音も出ないとはこのことだ。実際にイザベラからはすでにそのことについて釘を刺されているくらいだ。マーガレットは言い返すすべを見出せず、リュセットはそんなマーガレットの様子を見てこれでマーガレットは自分の意見に同意したと察し、ドレスを洗濯カゴの中に入れた。


「それよりお姉様、今朝は何も召し上らなかったようですが、少し早いお昼を召し上がりますか? それでしたらすぐに支度をーー」


 リュセットは慌ただしく裏口へと向かおうとするので、マーガレットはそれを制した。


「大丈夫よ、まだお腹は空いていないの。それよりも一つお願いがあるのだけれど……」


 改まった様子のマーガレットを見て、リュセットは小さく首を傾げた。


「お願い、ですか?」


 ゆっくりと首を縦に振り、少し気まずそうにマーガレットはリュセットにこう言った。


「そのお願いというのはね……私にリュセットの服を貸してほしいの」

「えーっと……えっ?」


 一度内容を噛み砕いたあと、再びリュセットはやはり言ってる意味が理解できなかったという様子で、もう一度首を傾げた後、マーガレットを見やった。


「マーガレットお姉様は私よりも上品なドレスを沢山お持ちかと思いますが……?」

「そうなのだけれど、その、もっと動きやすい質素なものが必要なの。リュセットは毎日掃除や洗濯をするような動きやすいものを持っているかと思ったのだけれど」

「そうですわね……」


 顔を手で支えるような形で肘をつき、うーんと唸りながら頭を捻る。マーガレットはリュセットの返答をただ静かに待った。もしリュセットが服を貸してくれなければ、あの煌びやかなドレスの中から一番地味で動きやすいと思えるものを選んで着るしかない。だが、どう選んだところで動きやすいものなど、ましてやマッサージするのに向いているものなど無いことは間違いない。だからこそマーガレットはこうして今、リュセットに懇願するようにお願いしているのだから。


「貸すのは構いませんが、私とマーガレットお姉様とでは背丈や体格が違います。ですから、着丈が合うものがあればお貸しいたしますわ」


 リュセットは小柄で細身な体型、マーガレットも決して大きいわけでは無いが、背はリュセットより頭一つ分高い。また、胸の膨らみはリュセットよりも大きく、腰のくびれに関してはリュセットの方が細い。


「ええ、分かっているわ。だからもし、私に合うものがあればでいいの。それを貸してもらえたらとても助かるわ」

「わかりました。でしたら一度、私の部屋へ行って一緒に確認してみましょう。サイズが合うものがあればいいですが……」


 リュセットが今、記憶の中でクローゼットを開けているであろうことが想像できる。目線は右斜め上を見上げながらも、見えている先はそこではないと感じるほど、リュセットは首を傾げながら「んー?」と唸っている。

 そんな様子で自室へ向かうリュセットの様子を見て、面白おかしく思いながらマーガレットは後をついて行った。


「さぁ、どうぞ」


 リュセットに誘われながら部屋の中に入ると、光が差し込まない薄暗い部屋はどこか湿っぽい。部屋はマーガレットのものよりも半分くらいのサイズに、ベッドも質素なシングルサイズ。その上には以前マーガレットがリュセットにあげたキルトがきちんと畳んだ状態で置かれていた。さらに扉や壁には隙間やひびや割れた箇所がいくつか見受けられ、そこから外気が入り込んでいる。太陽の光が入らないせいか、外よりも部屋の中の方がひんやりとしていた。


「きゃっ!」


 何かが視界の端で動いたのに気付き、マーガレットは思わず声を上げて身を縮めた。


「あら、シャルロット。お久しぶりね」


 部屋の角へと消えた黒いなにかに向かってリュセットは手を伸ばした。するとリュセットの手に乗っていたのは、ネズミだった。


「マーガレットお姉様を驚かせてしまいましたね。こちらは私の友人、ネズミのシャルロットです」

「あ、ああ……」


 ネズミが友達だというリュセット。先ほど言っていたあの言葉には嘘偽りはないようだ。前世の満里奈であればきっと、ネズミが友達だと言う人がいれば引いているところだろう。しかしマーガレットはすでに知っていた。リュセットの友人と呼べる者たちが鳥やネズミだということを。そしてその者たちが後にリュセットを助け、リュセットの人生とこの物語をハッピーエンドへと導く役割を担うのだということも。


「シャルロット、こちらはマーガレットお姉様よ。ほら挨拶をしてちょうだい」


 この不思議な光景を受け入れられるのは、マーガレットに前世の記憶があり、大筋のシンデレラストーリーを知っているから。だからマーガレットは引きもせず驚きもせず、リュセットの手の上で大人しくしているシャルロットを見やった。


「こんにちは、シャルーー」


 手を差し出しながら、そう声をかけようとした瞬間だった。シャルロットは勢いよくマーガレットの人差し指に噛み付いた。


「痛いっ!」

「マーガレットお姉様、大丈夫ですか!」


 思わず手を引っ込め、噛まれた指先を見るとそこからジワリと赤々とした血が流れた。


「血が……!? シャルロット、なんということを……」


 ネズミの表情など読めるものではないが、どことなくシャルロットはしたり顔をした気がした。それはマーガレットの思い過ごしか、もしくはこのネズミが特別なのか……。


「以前のマーガレットがマルガリータ同様に、リュセットをいじめていると知っていたから……?」


 思わず声に出し、マーガレットはそんな風に独り言を呟いた。


「えっ? 何か言いましたか?」

「い、いえ……だた、びっくりしたわ、と言ったのよ」


リュセットは引き出しの中からガーゼを取り出し、マーガレットの指先にそれを巻いた。


「そうですわよね、ごめんなさい。けれど、普段はとても良い子なんです」

「ええ、分かっているわ」


 それは本当にマーガレットもよく知っていることでもあった。ネズミは確か舞踏会の当日、魔法使いによって馬にされたのではないか。そんな風に細い記憶の糸を手繰り寄せていた。

 もしそうだとすればリュセットがこのシャルロットを友人だと思っているのと同様に、シャルロットもまたリュセットのことを友人だと思っているに違いないない。


「気にしないで、驚いただけで痛くもないの。それにこうして止血してもらったからもう大丈夫よ。だからそんなに暗い顔をしないでちょうだい。ね?」


 痛くないというのは嘘だ。シャルロットの歯は思ったよりも鋭く今でもジンジンと指先が痺れるように痛い。けれどそんなことを悟られればまたリュセットが気にすると思い、強がってみせていた。


「本当にごめんなさい。私がシャルロットの代わりに謝りますわ。シャルロットにもちゃんと怒っておきますから」

「ありがとう。それよりもリュセットの服を見せてもらえるかしら?」

「ええ、もちろんですわ」


 ベッドの隣にある小さなクローゼット。その引き出しを開けると、普段リュセットが着ている服が現れた。それはマーガレットのものに比べれば数は断然少なく、その上煌びやかさや上品という言葉とは真逆をいくものだった。

 マーガレットはその中から一着取り出し、広げた。するとそれはお世辞にも綺麗とは言えず、洗濯しても落ちきれなかったシミや汚れが柄のように浮き上がっていた。明らかに着潰された衣服だった。毎日リュセットが着ている服ではあるはずだが、普段のリュセットは忙しなく動いているしエプロンをつけていることが多いせいか、こうもまじまじと洋服だけを見るとみすぼらしさがより浮き彫りだった。


「マーガレットお姉様は一体、何のために私の洋服が必要なのですか?」


 リュセットのクローゼットの中身に気をとられていたせいで、意識が別のところに向いていた。そんなマーガレットの意識はこの質問によって戻ってきたようだ。


「今朝言ったでしょう? マッサージを勉強中だと。実際にマッサージの実践を兼ねて練習する時に、私の服ではどうしても動きづらくって」

「なるほど、そうでしたか。しかし実践するのはどうやって……?」

「枕を使ってみたり……あと、友人にお願いしてマッサージをさせてもらえないか聞いてみようかと思っているの」


 カインとのことは伏せておいた。男性にマッサージの練習台になってもらい、さらにお金までもらうなど普通に考えればおかしな話だ。いくらリュセットがマーガレットを慕っていることを差し引いても、理解してもらえるとは思えないからだ。しかもカインのことを話すとなると経緯も話すことになり、もっと話の方向が脱線してしまう。挙句、会うのを止められるかもしれない。

 そこまでに至らないとしても、万が一イザベラやマルガリータ達にこのことが知られたら、リュセットとは違う意味で厄介になる。実際にはまだ明後日にならないとわからない。お金のやり取りもマッサージもしていないのだから、これが本当にマーガレットにとって良い話とは限らない。

 ただし一つ分かっていることは、これが本当に双方にとって良い提案でカインからの打診が良い話だとしても、あの二人が絡んでくれば必ず良い方向には進まなくなる。男性と二人で会う、男性の体に触れる。特にイザベラはそんな事を未婚の女性がすることではないと目くじらを立てて怒り狂うに決まっている。


「でもこのことはマルガリータお姉様とお母様には内緒にしていてもらえるかしら? きっと二人はこのことを喜ばないと思うから」

「そうかしら、マーガレットお姉様のマッサージはお上手だと思いますわ。……私には少し強すぎましたが」


 リュセットは肩をすくめながら、申し訳なさそうな表情をした。しかしすぐにいつもの笑みを携えて、話を続けた。


「マルガリータお姉様もお母様も、マーガレットお姉様がマッサージを勉強してお二人にして差し上げればきっと、喜ぶに違いありませんわ」


 リュセットを信用していないわけではないが、こういうプラス思考なところがマーガレットにとっては不安要素だった。そのため今回カインとのことには触れず、この話も二人だけの秘密にしてもらいたいのだ。

 あれだけイザベラやマルガリータにいじめられたり蔑まれても、ひたむきで前向きでいられるのはある種の特技ではあるとマーガレットは思っている。しかし、その特技は今のマーガレットの状況には不安でしかないのだ。


「いいえ、よく考えてみて。私が勉強をしているなどと知れば、お母様はどう思うかしら? 勉強などせずに素敵な殿方を探せと言うに決まっているわ。そうすればお母様は私が勉強できないようにするに決まっているもの」

「……確かに、そうかも知れません」


 リュセットにも思い当たる節がある様子で、少し考えるような素ぶりを見せたあと、マーガレットの意見に同意するように小さく頷いた。


「マルガリータお姉様にはもう今朝のことでバレてしまいましたが、趣味程度で通せば大丈夫でしょう。けれど、練習までしてると知れば、お母様に告げ口をされてしまう可能性があるわ。それはどうしても避けたいの」

「そうですわね。マルガリータお姉様はきっと、マーガレットお姉様が根を詰めすぎて体調を壊したりすることを心配されて、お母様に伝えてしまうかも知れませんわね」


 リュセットにとってマルガリータとはどういう性格をした人物なのか聞いてみたくなるような回答だが、今はそんな欲求を押しのけて、リュセットの澄んだ瞳を真っ直ぐ見つめながら頷いた。


「そうでしょう。だからね、リュセット。この服を借りることも、私が何をしようとしているのかもここだけの話にして欲しいの。お願いできるかしら……?」

「もちろんですわ。私はマーガレットお姉様のなさろうとすることを心から応援いたします」

「ありがとう、リュセット!」


 そう言って、マーガレットはリュセットの手を両手で包み込むように掴んで、微笑んだ。するとリュセットも咲き誇る大輪の花のように上品な笑みをこぼした。

 リュセットは素敵なドレスもアクセサリーも持ち合わせていないけれど、この笑顔がそれらを上回るほど美しいものだとマーガレットは心からそう感じた。いくらマルガリータやマーガレットが着飾ったところで、いくらリュセットが着古した服を着ていたとしても、リュセットのこの天然の美しさには叶わない。と、そうマーガレットが感じた瞬間だった。


「ところでマーガレットお姉様、どれか合う洋服はありましたか?」

「そうねぇ……」


 正直どの洋服もサイズが合わない。特に腰回りが問題だった。ここが合わなければ、わざわざリュセットに借りる意味がない。今着ているドレスも腰がかなり絞られているため、こんな格好でマッサージをすれば服が破れるか、嘔吐するかのどちらかだ。


「これはどうでしょうか? 私には少し大きいのであまり使用していないのですが」


 リュセットがクローゼットの奥から取り出したのは、今までのものとは少し違うタイプの洋服だった。それを広げてみると、サイズ感がマーガレットにぴったりで腰のあたりにもゆとりがある。


「これなら私でも着れそうだわ! これ借りても良いかしら?」

「ええ、実はそれ、私の亡くなったお母様が若い頃に着ていたものなんです。他のドレスは売りに出されてしまいましたが、これは売るにもお金にならないからと取って置いたのです」


 売ったのはもちろんイザベラだ。ウィルヘルムと再婚した時ドレスは全て没収されていた。その上、ウィルヘルム亡き後はそれもお金の足しにすると言われ売られたのだ。

 リュセットはその時も悲しそうな顔こそしたものの、それを甘んじて承諾していた。


「私では着る機会がなかったので、マーガレットお姉様に着ていただけるのであれば服が喜ぶと思いますわ」

「えっ、そうだったの? ダメよ、それならこれは借りられないわ」


 手に持っていた洋服をそのままリュセットに押し返した。けれどリュセットも洋服を押し返しながらこう言った。


「大事に置いておいても痛むだけですから。マーガレットお姉様のお役に立てて、そのあとは私がこれを洗濯いたします。クローゼットの中に入れていては触れることも見ることもありませんから。ですからどうか遠慮をなさらないでください」


 そこまで言われてしまうと、逆に断りにくくなったマーガレットはありがたくそれを借りることにした。


「お勉強、頑張ってください」


 リュセットの部屋を後にし、リュセットの母親の形見だという洋服。決して重くはないはずのそれは、どこかずっしりとした重みを感じた。

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