わだかまり
「あら、マーガレット朝食も食べないでどこに……って、そのドレスどうしたんだい!」
誰もいないことを願いながら、マーガレットは裏口から入り、こそこそと自室へと向かっていたその途中、母親のイザベラと遭遇してしまった。部屋はもう目と鼻の先だというのに。
「マーガレット、どういうことか説明おし! せっかくのドレスが泥だらけじゃないか!」
「その……泥濘にはまった拍子に転んでしまいました」
「マーガレット!」
イザベラは怒り心頭に発した。瞳は血走り、鷲の鉤爪のような鼻先は怒りでピクピクと揺れていた。ドレスを買う経済的なゆとりはなく、その上イザベラは身だしなみにとてもうるさい。それはいつどこで玉の輿と出会うチャンスが巡ってくるか分からないから、という理由からだ。
「そのドレス、さっさと脱いでサンドリヨンに渡しなさい。もしそのドレスが綺麗にならないようなら、次からはマルガリータにだけドレスを買い与えるからね!」
「わかりましたわ、お母様」
イザベラが目の前を通過するのを待ってから、マーガレットはしずしずと部屋に戻ろうとした。するとイザベラが振り返って、さらにこう一言。
「ちゃんとサンドリヨンに渡すんだよ。間違っても自分でやろうなんて思ったら承知しないからね」
さすがは母親と言ったところだろうか。マーガレットはリュセットに渡す気など更々ない。なぜならば、リュセットは自分の姉妹であって使用人などではない。それに今朝のことがあって、顔を 合わせづらいというのも理由だ。
けれどマーガレットは自分の不器用さは十二分に承知していた。以前マルガリータのドレスを破いてしまったように、自分のこのドレスもそうなる未来が見えていた。万が一マーガレット自身で洗濯をした場合は、だが。
「わかってるんだろうね、マーガレット。返事はどうしたんだい」
深いため息をひとつついた後、マーガレットは振り向きもせず返事を戻した。
「わかっていますわ、お母様」
*
ーーバタン。
部屋の扉を閉めた後、ホッと肩の力を抜いた。結局イザベラには遭遇してしまった上、ドレスを汚したこともバレてしまった。けれど……。
背中を預けていた扉を滑るようにして、マーガレットは床の上にぺたんと座った。そしてスカートの膨らみに隠し持っていた青いジュストコールを膝の上に乗せた。カインが貸してくれたジャケットだった。見れば見るほどそれが高い代物なのだと痛感する。それは素材の肌触りや、金を施された刺繍の美しさ、それらを指でそっと撫でながら、今朝の出来事を思い返していた。まだ太陽は真上にも昇っていないというのに今日という長い一日が終わったような気持ちだった。
このジュストコールがイザベラに見つからなかったのは不幸中の幸いだった。こんなもの見つけたらイザベラはきっと根掘り葉掘り聞いてくるに決まっている。それこそ話をするまで逃げられないところだっただろう。
この見るからに金の匂いがプンプンする代物、どこの誰から貰ったのかとか、どこの貴族でどの爵位なのかとか、とにかく質問責めになることは間違いなく、相手が位の高い貴族であれば婚約にこぎつけるために必死になるだろう。それが安易に想像できるが故、マーガレットは誰にも知られたくなかったのだ。
けれど、騎士となればイザベラの反応はどうか。イザベラはいつも、マルガリータとマーガレットには公爵や伯爵と結婚するようにと口を酸っぱくして言い続けていた。伯爵、子爵よりも爵位の低い男爵はギリギリの許容範囲という感じだった。となると、騎士であれば興味はないかもしれないが、そうとなるとマッサージのことなど嗅ぎつけられてはいけない。未婚女性が婚約者でもない男性の体に触れるなど、本来あってはならない行為だ。少なくとも貴族社会においては。
それが公爵や伯爵を相手にしていればきっとイザベラは喜んでマーガレットを送り出すかもしれない。いいや、その場合はそのまま結婚にこぎつけるよう、あの手この手を使われる可能性があるが。
「騎士かぁ」
お城の騎士となれば、甲冑に身を包んでお城の警備をしている姿を想像するところだが、カインはマーガレットの想像とはかけ離れていた。甲冑に身を包むのは城を警備する者、もしくは戦となった際につけるものなのかもしれない。マーガレットにはまだまだ知らない事がこの世界にはたくさんあると感じていた。だからこそ図書館で大好きな本から知識を得たかったのだが。
ウィルヘルムも書庫を持っていた、が、ウィルヘルムが帰らぬ人となった後、イザベラは全てを売り捨ててしまった。その時は本を借りるのもお金がいると知らなかっただけに、読まずに手放した本が今となっては悔やんでも悔やみきれなかった。
「……ふぅ、ひとまず明後日にはこの上着も返さなくちゃ」
ジュストコールをハンガーにかけ、クローゼットの中に片付けてから手早く着替えを済ませた。その時ふと何かを思い、マーガレットはクローゼットの中にあるドレスを探った。
もしこの泥だらけになったドレスを破けば、イザベラは本当にマーガレットにはドレスを買い与えなくなるだろう。けれど、マーガレットからしてみれば、ドレスはまだまだたくさんあると思っていた。もちろん中にはマルガリータからのお下がりもあるが、基本的にマルガリータは自分のものを人に譲るという概念が欠けている。そのため、クローゼットの中にあるものは基本的、はマーガレット用に買い与えられたもの達だった。
ハンガーにかけてあるドレスを一通り見終えた後、もう一度今度は反対側からドレスをチェックしていく。ずらりと並んであるドレスを二週見終えた後、マーガレットは思わず頭を掻いた。
「困ったわね。マッサージをするようなドレスがないじゃない」
どれもふわりと膨らんだドレスの裾。腰はくびれるように締め上げる、細いライン。胸の膨らみが出るように開いた胸元。レースが施され、広がりを見せる袖。どれをとってもマッサージをするには不向きだ。
マーガレットは泥だらけのドレスを手に取り、はぁ、とため息をついてから意を決して顔を上げ、部屋を後にした。
*
「あら、今朝はどこまで行っていたのかしらね?」
マルガリータは嫌味っぽく口元を歪ませて笑った。そんなマルガリータを一瞥したあと、「急いでいますので」と行ってその場を去ろうとしたが、そう簡単には逃してくれない様子だ。
「先ほど、私の部屋にまでお母様の叫び声が聞こえていたわよ」
クスクス笑いながら、いつもの扇でマーガレットが抱える泥に汚れたドレスを差した。
「いつまで泥遊びをするつもりなの、マーガレット。そんなことでは立派なレディにはなれませんよ」
子供をあやすような物言いに、マーガレットは苛立ちを抑えながらにっこりと微笑んだ。ここでマルガリータの言葉に乗ってしまっては相手の思うツボだとでもいうように。
「そうですわね。私も早くお姉様のような立派なレディにならなくてはと思うのですが、まだまだ未熟者でして」
「はんっ、あんたがそんなこと言うなんて嘘くさいわね」
それはそうだ、嘘なのだから。マーガレットはこれっぽっちもそんな風にマルガリータを思ったことはない。その証拠にマーガレットの薄い唇の端がピクピクと小さく痙攣を起こしている。それは口では簡単に言えても脳が嘘に抗おうとしている証拠でもあった。
「ところでお姉様、最近どうやらそばかすが増えたんじゃありませんか?」
「……!」
突然のこの言葉に、マルガリータは慌てて顔を扇で隠した。マーガレットは当てずっぽうで言ったにも関わらず、この様子を見ると事実なようだ。
マルガリータは服装一つをとっても抜かりがない。ドレスやジュエリーで自分を着飾るのが元々好きなのだろうが、イザベラに似て位の高い殿方と結婚するのが将来の安泰であり、幸せな結末だと思っている。そのためどこへ行くにも外見には抜かりがない。例え家から一歩も出る予定がなくともだ。
けれど残念なことに持って生まれた外見というものは簡単には変えられない。満里奈のいた世界のように医療が発達し、整形などという手法があるのであれば別だが、この世界にはそれは存在し得ないものだった。そのため、化粧を施し普段はなるべく隠している様子だが、隠そうとすればするほどそれは本人にとって触れられたくないものの一つであると言っているようなものでもある。
「それに、目尻に小じわが……」
マーガレットのこの言葉に、マルガリータは扇で完全に顔を覆い隠してしまった。
「それではお姉様、ご機嫌よう」
顔が見えないことをいいことに、マーガレットは会釈をした後マルガリータを置いてその場を去った。マーガレットが去った後も、マルガリータはしばらくその場に立ち尽くし、扇で顔を隠したまま。けれどその扇を持つ手が震えていた。
「……マーガレット、覚えてなさい!」
*
マーガレットはマルガリータをやり過ごした後、キッチンへと向かった。けれどそこには誰もいない。すると、今度はキッチンから続く裏口へと向かい、裏庭に出た。するとそこには洗濯物を干すリュセットの後ろ姿があった。
マーガレットは腕に抱えるドレスを持ち直して一度深呼吸をついた。しっかり息を吸い、吐き出した後は胸を張ってリュセットの元へと向かった。
「リュ、リュセット」
思わず言葉がどもり、マーガレットは気を取り直して笑顔を作った。
「洗濯中?」
その言葉に、リュセットは振り向き、マーガレットに挨拶を交わす。
「あっ、マーガレットお姉様……」
どこか気まずそうに、リュセットは微笑みを返しながらもマーガレットと目を合わせようとはしない。そんな様子に一瞬心が挫けそうになりながらも、マーガレットは言葉を紡いだ。
「今朝は、ごめんなさい」
どうかリュセットが許してくれますようにと神に祈るような思いで頭を深々と下げ、同時に瞼も下げた。
「マーガレットお姉様、どうか頭をお上げください」
「いいえ、リュセットが許すと言ってくれるまであげないわ」
先ほどは泥だらけのドレスのことでマルガリータに子供扱いされて怒っていたが、この状況もまるで子供だ。駄駄をこねる子供のようなマーガレットにも愛想をつかす様子は微塵も見せず、むしろリュセットは屈みこんでマーガレットの顔を覗き込んだ。
「それならば私は、ここからこうしてマーガレットお姉様の顔を覗き込んでしまいます」
そんなことを言われて、固く閉じていた瞼を押し上げると、そこには無邪気に笑うリュセットがマーガレットの顔を下から見上げていた。
「そんな思いつめた顔をするようでは、マーガレットお姉様のせっかくの美貌が台無しですわ」
「リュセット……」
リュセットの思わぬ行動に、思わずマーガレットは顔を上げた。するとリュセットも立ち上がって、再び微笑んだ。それはまるで蕾の花が開花する瞬間をこの目で見るかのような衝撃と、その咲き誇った花の美しさに思わず酔いしれてしまいそうになるような感動が、今マーガレットの胸に押し寄せていた。
「本当にごめんなさい。けれどこれだけは信じて欲しいの。私はあなたをいじめようとしたり、騙そうなんてこれっぽっちも考えていないわ。マルガリータお姉様はああ言ったけれど、今朝のマッサージも決してあなたをあざ笑うためにしたわけでもないの」
「大丈夫ですわ、私はマーガレットお姉様のお言葉を信じます」
リュセットはマーガレットが抱えるドレスの上から、マーガレットの手をそっと掴んだ。
「私の方こそごめんなさい。今朝は動転してしまい、あのような態度をとってしまって……買い物から戻ると、マーガレットお姉様はもういらっしゃらなかったし、朝食も召し上がらなかったでしょう? だから私もマーガレットお姉様に愛想をつかされたのかと……」
マーガレットはドレス掴んでいた手をほどき、ドレスは重力に従って地面へパサリと落ちた。ドレスのことは気にもせず、マーガレットはリュセットの手を掴み直して、こう誓った。
「昔の私はマルガリータお姉様と同じようにあなたを蔑んだり、意地悪をしたことがあるかもしれない。けれど私は変わったの。リュセットにはとても感謝をしているわ。こうしていつも洗濯や掃除、買い物、料理までこなしてもらっているもの。それに私はね、あなたのことを本当の妹だと思っているの。たとえ私たちの身体には一滴も同じ血が流れていないとしても」
リュセットは一瞬、目尻を滲ませた。そして照れたように、目を伏せてマーガレットの誓いにこう答えた。
「私も、マーガレットお姉様を信用しています。いつも気にかけて下さるのは今はマーガレットお姉様だけですもの……」
その言葉を聞いて、マーガレットは思わずリュセットに抱きついた。
その言葉は、胸が引き裂かれそうなほどに苦しかった。イザベラやマルガリータにいじめられ、家の隅に追いやられても気丈に振る舞っているリュセットが、とても愛おしく思えてならなかった。
「私のお友達は空を舞う小鳥や、家の下に住む鼠達だけでした。父を亡くし孤独を感じておりましたが、マーガレットお姉様は私の本当のお姉様のようだと、私も思っていたのです」
「ええ、私はあなたの姉です。あなたにはたくさんの友人と家族がいるのを忘れないで」
リュセットが鼻をすする音が抱きつくマーガレットの耳元で聞こえたけれど、マーガレットはそのまま黙って自分よりも小さな妹をただ抱きしめ続けた。