祈り
「その婚約は……辞退させていただきます」
辞退という言葉に、一同騒然となる。何より驚いたのは、マーガレットだ。マーガレットはこの結末を知っている。ガラスの靴を履けば、リュセットがシンデレラだと誰もが気づき、そして王子様と結婚する。シンデレラは王子様の隣で微笑んでいるのが、大元のあらすじだ。それなのに……。
「辞退? なぜだ……」
誰もが疑問に思ったことを声に出して言ったのは大臣だった。眉間にしわを寄せ、リュセットに歩み寄ってさらにこう言った。
「ここにいる誰もが王子との婚約を望んでいるというのに? どうしてあなたはそんなことを言うのか、わしにはわからん!」
「私は……」
マーガレットにも疑問だった。その答えはマーガレットの想像としていたものではない。
「で、では、この場合はどうなるのでしょうか? 代案として他の令嬢を探すというのはいかがでしょう? 例えば私の他の娘などーー」
「これは上からの命令なのだ。一度城に戻って相談してみなければ……!」
「それならば別の娘の案はどうかと確認もお願いいたします!」
イザベラが必死にそう訴えるが、大臣はそれどころではない。バタバタと部屋の中を歩き回り、リュセットはただバツが悪そうにその場に立ち尽くしているだけだ。
「ええい、辞退したいと申すなら、一度わしらとともに城まで同行願えますかな? 理由はそこで聞きましょうぞ!」
「……かしこまりました。それについては甘んじてお受けいたします」
リュセットは会釈をしながら、慌てた様子でクローゼットの中を探す。中から取り出したのは、以前マーガレットが借りたあのワンピースだった。
「少し準備をしますので、皆様は外でお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「リュセット、着替えを手伝ってもいいかしら?」
「ありがとうございます。お気持ちは嬉しく思うのですが、私一人で大丈夫ですので、お姉様も外でお待ちくださいませ」
マーガレットは留まりリュセットの考えを聞き出そうとするが、申し訳なさそうに断られてしまった。マーガレットはリュセットが支度をしているその間、いても経ってもいられずに皆とは同じところではなく一人裏庭へと回った。
(……リュセット、なんで? ってか、ねぇこれって、このままじゃやばいんじゃない?)
思わずツーっと背中に冷たい何かが流れ落ちるのを感じる。それと同時だった。土の上に立っているはずの足元がぐにゃりと歪み、マーガレットは立っていられなくなる。
「きゃっ!」
思わず上げた悲鳴もその歪みの中に飲み込まれて、消えていく。まだら模様を描きながら景色はマーブルに混ざり合い、やがてそれは茶色になりどんどん濃く、深い闇の色へと変わっていく。
自分の体がどこかへ落ちていくような感覚がし、必死になって手を伸ばすけれど、その手は何も掴めない。いいや、掴んでいるのかもしれない。それは闇という暗闇をーー。
「マーガレット〜」
その声に導かれでもするかのように、マーガレットはハッと目を開けた。さっきまでいた暗闇はそこにはなく、ただ裏庭でマーガレットは突っ立っていただけだった。
額の上で玉になった汗の粒を手の甲で拭い去り、マーガレットは顔を上げた。
「アリス、またあなたなのね……?」
挑むように、睨みつけるマーガレットの視線にも何も感じない様子で、アリスはプラタナスの樹の上で座って遠くを見ている。
「最近空気がなんだか違うの。あなたもそう感じない?」
アリスはマーガレットへと視線を投げ落としたが、その瞳はマーガレットを見ているようで見ていない。そんな風に感じる。心ここにあらずと言ったような表情に、マーガレットは眉根を寄せた。
「私にはあなたの言うことがなんの話なのか、さっぱり分からないわ」
「そう。それもそうね」
なんて言ったかと思えば、アリスはマーガレットの背後に立っていた。相変わらずどこか夢うつつな様子で、アリスはマーガレットを背後から見つめている。
そんな様子にまたかと思ったマーガレットは、振り返りもしない。振り返ったところで、アリスを目で追えるとも思わなかったからだ。代わりにプラタナスの木を見つめたまま、口を開いた。
「ねぇ、リュセットが王子様と結婚しないって言い出したのだけど、どういうことなの? あなたはなんでも知っているのでしょう? この世界の理も、この世界の結末も」
「ええ、何かが変わり始めているわ」
アリスの声は再びプラタナスの樹の上から聞こえる。けれどマーガレットは目で彼女を追わず、ただ声に耳をそば立てた。
「それはいいことなのかしら〜。世界が消える〜。物語が消える〜。もしもそうなれば〜それは〜……あなたのせいね、マーガレット」
最後の言葉はマーガレットの正面から聞こえた。プラナタスの樹の後ろから覗き込むような形で、マーガレットを正面から見ていた。
「私は……努力したわ。物語を元の話に持っていこうと努力したわ……」
(自分の感情を押しとどめ、心を殺して)
マーガレットは胸元に手を当てた。そこには何もないというのに。
「知っているわ。あなたの行動も、私は見ていたのだから」
「じゃあどうして? どうしてこんなことになってるの?」
アリスは珍しく口元を綻ばせた。まるで笑顔を作っているかのように。それが本当に笑顔なのだとしたら、マーガレットが見るアリスの初めての笑顔だった。
「物語が消えるのだとしたら〜、それは〜、いけない〜。いけないことだわ〜」
アリスは両手を広げて踊り始める。
「けれど〜、これがそうじゃないのなら〜、そうじゃないというのなら〜、あなたにはチャンスがあるわ〜」
「……チャンス?」
踊りながら、歌いながら。アリスはマーガレットの手を取った。そのままマーガレットと踊るように、その場をくるくると回っている。アリスの踊りに付き合わされて、マーガレットは半ば振り回されながら踊り続けた。
「マーガレット〜。おお、マーガレット〜」
そんな足がピタリと止まった時、アリスは目を閉じ掴んでいるマーガレットの両方の手を口元に寄せて、何かを囁いた。
「……っ」
静かに目を閉じるアリスの姿は、どこか神聖なものに見え、声をかけようと開いた口は何も発することもなく静かに閉じた。
やがてゆっくりと瞼を開けたアリスは、マーガレットにこう言った。
「これはリュセットの物語。けれど、それと同時にこれは、マーガレット……あなたの物語でもあるのね」
澄んだ瞳はまるで湖を彷彿させる。透明感があり、広く、深い、なぜか安心させるような、そんな瞳。
「祈りましょう〜。私はあなたに魔法はかけられない〜。けれど私はマーガレットのために祈ることができる〜」
アリスは歌う。踊りはせず、マーガレットの両方の手を握りしめながら。
「祈りは願い〜。願いは希望〜」
マーガレットの手にキスを落とし、アリスは手を離した。
「希望はきっと、奇跡を呼ぶわ」
アリスの声が再び樹の上からしたかと思ったが、見上げた先にはもう、誰もいなかった。