救出
白いジレと青のジュストコールに身を包んだ男。それは、昨日森で出会ったあの失礼な男だった。
マーガレットはもう二度とこの男に会うことはないだろうと思っていたにも関わらず、今はこの男がいてくれて本当に良かったと、心から思えた。正直、マーガレットからすればこの男も信用ならないが、先ほどの山賊達と比べれば安全だと思えた。
同じような状況になった時、この男は力づくで何かをしようとはしなかった上、一応謝っていたのだから、と。
「……あ、あの……」
マーガレットは衣服を整え、身を引き締めながら、上体を起こした。お礼を言いたいところだが、先ほどのショックからか涙が止まらず、体の震えは止まらない。
すると男は山賊が完全に去ったことを確認してから剣を鞘へと戻し、マーガレットの元へと歩み寄った。
「お前はバカか!」
男の強い口調にマーガレットの縮こまった体が、小さく跳ねた。
「昨日忠告したにも関わらず、なぜ一人でノコノコとこんなところに来たんだ。これではまるで襲ってくれと言っているようなものだろうが!」
マーガレットはスカートをぎゅっと掴み、奥歯を噛み締めた。男の言うことはもっともだとマーガレット自身、身にしみて感じていたため、言い返す言葉も見つからず、ただ涙は止めどなく流れ続けていた。そんな様子を見てか、男は「はぁ」と大きなため息を一つついた。
「……で、怪我は?」
「……」
「怪我はないのかと聞いているのだが?」
口を開く元気も、声を振り絞って男と話す勇気もなく、マーガレットはただ黙って首を横に振った。そんなマーガレットの様子を見て、小さく息を吐き出した後、男は自分の着ていたジュストコールを脱ぎ、マーガレットの背中にそれをそっとかけてやった。
「ならば、良かった」
男は屈み込むようにして、マーガレットの下がった顔を覗き込み、ホッとしたような表情で優しく微笑んだ。
「怖かったな。俺が来るまでよく耐えた」
その表情を見たマーガレットは、凍っていたかのように冷え切っていた心が、ほんのり温かみを取り戻したような感覚を覚え、どっと涙が溢れ出した。さっきまでとは違う、涙だった。
マーガレットは思わず両手で顔を覆い、泣きじゃくった。
「キツイことを言って、すまなかった」
男はそう謝りながら、遠慮がちにマーガレットの頭を優しく撫でる。そんな様子に、マーガレットは首をブンブンと振るが、嗚咽以外の言葉は出てきそうにない。そんな様子をみながら、男は静かに隣に腰を下ろす。マーガレットが落ち着くまで、黙って頭を撫でながら。
*
どれくらいそこに座り込んで泣いているのかわからないが、朝霧はとっくに引っ込み、朝日が力強く木々の間から差し込んでいた。
マーガレットの涙もとっくに止まっていたにも関わらず、顔を上げるにあげれなくなっていた。それもそのはず、ずっと泣きじゃくっていたせいで顔はきっと涙の痕でボロボロだった。
「あの……助けていただき、ありがとうございました」
気持ちが幾分か落ち着き、ようやく言葉を発した。泣き疲れて喉はカラカラでしゃがれているにも関わらず、男はマーガレットの言葉をしっかりと聞き取った。その証に男は返答の代わりに、ずっと撫でていたマーガレットの頭をさらにクシャクシャと撫でた。
「すぐそばに小川がある、そこで顔でも洗ってくればいい。俺は近くに留めっぱなしの馬を連れて来る」
男はスッと立ち上がり、衣類についた土を払いながら歩き始めた。そんな男の後ろ姿をしばらく見つめた後、マーガレットも立ち上がり、小川へと向かった。
そばにある小川に身を乗り出し水に映ったマーガレットの表情は、気弱そうで怯えた様子。そんな表情を消し去るようにマーガレットは冷たい水に両手を入れた。手を水の中に入れた瞬間、気弱そうな怯えた女性は水の波紋に揺られながら消えた。マーガレットはそのままそれをすくって顔を洗う。
冷たい水が肌を刺し、そのおかげで頭がシャキッとする。再び水のせせらぎに映し出された女性の顔は、さっきの怯えた様子は微塵もない。
「しっかりしなきゃ」
喝を入れるように、マーガレットは自分の頬を両手で何度かパンパンと叩く。そして男が待つ場所へと歩き出した。今度はしっかりとした足取りで。
マーガレットが戻ると、男は馬の手綱を木に繋ぎ、戯れるように馬の頬を撫でていた。けれど男はすぐにマーガレットが戻ってきたことに気がつき、手を止めてこう言った。
「その様子を見ると、少しは落ち着いたようだな」
マーガレットは深呼吸をついてから、ドレスの裾を少し持ち上げ、頭を下げた。
「先ほどは、危険なところを助けていただき、誠にありがとうございました。あなた様がいらっしゃらなければ、今頃……」
最後、言葉の語尾が少し揺れた。が、マーガレットは奥歯をグッと噛み締めた後、何事もなかったかのように、顔を上げた。瞳はブレずに真っ直ぐ、男を見据えながら。
「こちらはお返しいたします」
マーガレットは男から借りていた上着を脱いで、男へと差し出した。けれど男は受け取らない。
「ドレスが泥だらけだ。今日はそれを羽織って帰るといい」
「いいえ、私は気になりませんので、お返しいたします」
ここでジュストコールを借りて帰れば、またこの男に会わなければならなくなる。助けてもらったとはいえ、マーガレットはまだ男に対して警戒心を解いたわけではないのだ。
「マーガレットと言ったな。お前、なかなかの頑固者だな」
男の上着を持っていた手がピクリと揺れた。そんなマーガレットの様子に気づいてないのか、男はお構いなしにさらにこう言った。
「その上、気が強い」
「あら、いけませんか? 女性は皆がおしとやかというわけではないのです」
「いや、ダメだと言っているのではない。ただ、その無鉄砲さが今回のようなことになったのではないのか」
山賊に襲われた話をされると、さすがのマーガレットもぐうの音も出ない様子。昨日この男に忠告されていたにも関わらず、今日このようなことが起きたのだ。これは完全にマーガレットの油断から生じた事件だとマーガレット自身が身に沁みて感じていた。
「そこまでおっしゃるのであれば、私も正直に申し上げます」
マーガレットの表情は先ほどとは打って変わり、目の前の男に対して敵意をむき出しにし、叫ぶようにこう言った。
「私はあなた様を信用しておりません。ですから、このコートをお借りすることによって私はもう一度あなた様に会うことになる。それは避けたいのです。それにこれ以上借りも作りたくはありませんので!」
一息に全てを吐き出し、マーガレットは肩を揺らして呼吸を整えた。その後は男がどう出てくるのか……マーガレットは身構えながら男を睨み続けていた。するとーー。
「……ふっ、なかなかはっきり言うではないか」
先ほどは危ないところを助けてくれた恩人だというのに、マーガレットは男に負けじと言い返す。すると、男は肩を震わせてくっくっと笑った。
「ええ、ここで遠慮しても意味がないと思いますので」
「それもそうだ。お前の度胸、気に入ったぞ」
思っていたのとは真逆の反応を示す男に対し、マーガレットは完全に引いている。顔を引きつらせながら、一歩後ろに下がった。すると、男はむしろマーガレットに歩み寄り、ジュストコールを再びマーガレットの背中にふわりとかけた。
「林の中は肌寒い、そのまま着ておけ。返却する必要はない、不要であれば捨てればいい」
「捨てればって……」
見るからに上質な素材で仕立て上げられているジュストコールに触れながら、マーガレットはどうしたものかと男とサーコートの間で何度となく視線を泳がせた。
「……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「あなた様がここを通りかかったのは偶然なのでしょうか。それとも、昨日と同様でこの辺りの治安を気にされていらしたのでしょうか?」
昨日の出会いは偶然だった。だが、二日続けて会ったのも偶然なのだろうか。しかも昨日とは違う場所で、違う時間だというのにも関わらず。
今日、この男に会えたから助かった……けれどこの偶然な出会いがまた、マーガレットが男を不審に思う要素の一つでもあった。
「偶然と、必然だな」
「それはどういう……?」
「昨日言っただろう、俺はお前に詫びがしたかったのだ。その上お前はこの近くの街に住んでいると言っていたからな。散歩がてらに馬を走らせて向かった途中で、お前を見つけた」
その言葉を聞いて、マーガレットは再び男から距離を取った。
「ストーカーではありませんか!」
足元から蛇でも這ってくるようなおぞましい感覚を覚えたマーガレットは、思わず両手で自分の身体を引き寄せ、抱きしめた。
「失礼なことを言うな。実際に会えるかもわからなかったのだ。けれど、それでお前は助かったのだろう?」
「それはそうですが……」
男は納得のいかない様子で顔を顰めるマーガレットにため息をついた後、そばの草むらに腰を下ろし、話を続けた。
「そもそも昨日のあれも、お前が俺の身体を変な目で見てきたのが悪いのだろう」
「変な……!? そんな目で見ていません!」
「俺の身体を見ていればなんとなく〜とかなんとか言ってたではないか」
マーガレットは驚きのあまり、あんぐりと口を開いて絶句した。けれどすぐに何か思い直し、落ち着いた口調でこう言った。
「コホン、ええ……そうですわね。私も勘違いさせるような言葉を言ったかもしれません」
ほらみろ、とても言いたげな男の表情を見て、マーガレットは再び強めの口調で話しを続けた。
「けれど私が言いたかったのは性的な意味ではなく、あなた様の身体が身体的に疲れているように見えたからそう言ったまでです。万が一私があなた様の体を変な目で見ていたと言うのであれば、それも間違いなく体のコンディションを外からチェックしていただけですわ!」
心外だと言いたげに、マーガレットは声を荒げた。そんな様子を興味深く観察していた男は、少し感心したようにマーガレットの姿を爪先から頭の先まで目視している。
「ほぅ、お前は何か。医療に携わる者だと言うのか? そんなどこぞの令嬢のような格好をしていながら?」
「いえ、私はマッサージをするのが得意なだけで、医者でもナースでもございません……」
マーガレットはしずしずと言葉を選びながらそう言った。それもそのはず、マーガレットは医者でもナースでも医療従事者でもない。しかもマッサージセラピストとして仕事をしていたのは前世の記憶で、今世ではない。
その上、この世界ではマッサージというのがどの程度の位置付けなのかも不明なため、マーガレットは胸を張って言えなかった理由だった。
「じゃあ聞くが、マーガレットから見て俺の体はどう思うのだ?」
男はあぐらを組み直し、興味ある姿勢でマーガレットの答えを待っている。その様子を見て、マーガレットの中でカチリと何かのスイッチが入った。
「まず、立った時の姿を見て、腰の位置がズレているかと思います。その理由として考えられるのが、腰に下げたあの剣ですわね。それが重りとなり、左側のヒップ……というか、骨盤が歪んでいるのかと思われます。また、昨日肩が凝っているような仕草を取っていましたが、それは右側ではございませんか? 実際に触って見ないとわかりませんが、両方凝っている可能性はあります。が、右側の方が負担が大きいかと。それは剣をーー」
「ーーストップ」
マーガレットは男の身体をさらに観察しようとどんどん距離を縮め、やがては人一人分まで詰めていた。男に口を挟まれるまで、自分が集中して周りが見えなくなっていたことに気づきもせず、話を止めた途端にはっと我に返り、男から距離を取った。
「お前が医療に携わるものではないと分かったが、お前の知識と観察力はがすごいということは分かった」
マーガレットはどう反応していいものか考えあぐねいていたが、男が口先だけでそう言っているのではないということは見てとれ、純粋に嬉しさから頬が緩んでいた。
「さっき少し言っていたが、触ればもっと分かるというのは本当か?」
「はい、マッサージは触ってコリをほぐすものですから。触る方がより明確かと」
「ではどうすればいいのだ?」
「は……?」
男は自分の肩に手を置き、揉みほぐす仕草を見せた。実践して見せろと言わんばかりに。