舞踏会一日目 3
カインの唇がそっとマーガレットの元から離れていく。それを肌で感じながら、マーガレットはそっと目を開けた。
「……せっかくめかし込んで来たのだ。舞踏会に参加しなくていいのか?」
カインは樹木の向こう側にそびえ立つお城を見つめている。ほぅ、と惚けた様子でカインを見上げていたマーガレットだが、その言葉を聞いて思わず立ち上がった。
「そうだわ、私は戻らなければ! お母様が私を探しているかもしれないもの」
カインとのことを疑ってかかるあの母親の元へ。カインと一緒にいたいという気持ちが、マーガレットの後ろ髪を引くところだが。
「俺も戻らなければならない」
「そうね、騎士団長殿がこんなところで油を売っていては、他の者に示しがつかないのでは?」
マーガレットが軽口を叩く。先ほどの口づけの余韻を隠すかのように。
カインは何も言わずただ静かにマーガレットを見つめている。
「マーガレット、さっきの言葉に嘘偽りはないか?」
「さっきの、って?」
「相手がたとえ平民でも、騎士でも……」
空の広さと、海の深さ。それらを感じるカインの青い瞳。その澄んだ瞳がマーガレットを真っ直ぐ捉えて、離さない。マーガレットもその瞳から離れる気など更々ない。
「ええ。相手がたとえ、誰であれ」
マーガレットは決心していた。カインとこの童話世界を過ごすことを。例えイザベラに反対されようと。例えマルガリータに蔑まれようと。
マーガレットの強い意思を含んだその瞳を見たカインは、ふっ、と笑った。
「舞踏会のメインが始まるまで、あと数時間ある。今城に戻ればきっと貴族の殿方がマーガレットにダンスを申し込むだろう。気になった女性を誘うのが習わしだからな」
「ええ、そうね……」
ダンスをを踊り、そのまま会話を楽しむ。そうやって普段は関わりの無い家柄や爵位の方々とお近づきになっていく。イザベラはそれが狙いだ。だからこそマルガリータは着飾り、イザベラは品位をこの日のために刷り込んでいた。
「俺はマーガレットは誰ともダンスを踊って欲しく無いのだが」
あっさり、はっきりそう言い切った。思わずマーガレットも目を丸くするほどに。
「例えば11時のメインのダンスの時間が始まる頃までここで待つことは可能か?」
「……ええ、いいわ」
カインと共に踊れることを願うマーガレットだが、カインは騎士。それは叶わぬことだとマーガレットも承知していた。その上、メインのダンスには王族も現れ、今回の主役であるルイ王子がダンスを踊るだろう。その相手はリュセットなのだが。
イザベラになんと言われようともマーガレットの決心は固い。一度は駆け落ちまで考えたくらいだ。
だがそれは現実的では無いとマーガレットも思っていた。カインは王室に仕える騎士団長。王室から離れることは難しいだろうと……。
「メインの時間になれば俺も警護のために広間へと向かうことになる。そのあとは俺がマーガレットを連れ去る。それまで待っててくれ」
カインはマーガレット前で膝をつき、その手を握りしめた。騎士が姫に誓いを立てるかのように。
そんなカインの姿にマーガレットは小さく頷いた。するとカインは微笑んだあと、マーガレットの手の甲に誓いのキスを交わした。
*
カインは警護のために一旦城に戻ると言って、去ってしまった。
全ては夢のようで、今でもまだカインとの余韻に酔いしれていた。マーガレットはイザベラのこともマルガリータのことも、そしてリュセットのことも忘れて、その余韻に浸りながらあの城を見つめていた。
気がつけば時刻はメインダンスの時間に近づいていた。
この広場にある時計の針がもうすぐ11時を差そうという頃、マーガレットは一人、腰を上げてあの迷路の道を歩いていく。けれど来た道とは違い、出口へと向かう単調な道がある方へと足を向ける。それはカインが教えてくれた道だった。
カインの言う通りに進むと、簡単に城へと抜け出し、マーガレットは何事もなかったかのように城の中へと入り込む。ほんのり冷えた体、だけど心の中は火照っていた。
「マーガレット!」
通路の向かいから聞こえたその声はマーガレットのよく知るマルガリータの声だ。
「マルガリータお姉様」
「今までどこにいたの! 私とお母様はずっとあんたを探していたのよ」
マーガレットを探していたと言う割に、マルガリータはいたく落ち着いていた。そう言ったのは建前で、実際はこのパーティを楽しんでいると言ったところだろうか。マルガリータの手にはシャンパングラスが握られていた。
「お母様はどちらにいるのですか?」
「中だよ」
そう言って、広間へと扇で差した。マーガレットはマルガリータと共に、イザベラの元へと向かう。
広間の中は天井が高く、中世ヨーロッパを想像させるクラシックミュージックが広間の中で演奏されている。オーケストラによって奏でられる生演奏が優しい旋律を紡いでいる中、それを割くようにチリンチリンと鈴の音が鳴り響いた。
中年の男性が、広間の前方で、少し小高くなっている場所で鐘を鳴らしていたのだ。それに合わせて演奏はピタリと止んだ。
「本日はご来城誠にありがとうございます。みなさま楽しんでいただいておりますでしょうか」
メインイベントの始まりを告げる挨拶が続く中、マーガレットはイザベラを見つけた。マーガレット達の立つ場所とは反対側の壁際に面する場所で他の夫人と会話を繰り広げている。
「引き続き舞踏会を楽しんでいただければ幸いにございます。が、本日はアルトワ=ブルゴーニュ王室のルイ王子の誕生日であります。是非とも王子の誕生と、この国の繁栄を祝い、盛大な拍手をお送りくださいませ」
盛大にお膳立てされながら、皆が拍手を始めた。すると前方にある扉が使用人達によって開かれる。その中から颯爽と現れた王子に、誰もが息を飲んだ。
赤いマントを翻し、白い衣装に身を包んだその姿はまさに絵本の中の王子様。マルガリータですら王子の凛々しさに色めいた吐息をこぼしている中、マーガレットは周りとは違った様子で固唾を飲んだ。
(……嘘、でしょ……?)
神経質そうにつり上がった眉。それに合わせて目尻も鋭い瞳。豊かな蜂蜜色の金髪に、思慮深い青い色をその瞳に宿したルイ王子。初めて見るはずなのにその顔には見覚えがあった。
「……カイン」
ルイ王子と紹介されたその人物は、なぜかマーガレットのよく知る人物ーーカインだった。
舞台のように少し小高くなった広間の前方に玉座が三つ置かれている。その一つに腰を据えたのは、さっきまでマーガレットと共に笑い合い、口づけを交わしたその人物。
「カインが、どうして……?」
何かの間違いだと言いたげにマーガレットは目を擦り、再び前方を見やる。けれどそこに座る人物はやはりカイン。マーガレットが想像していたものとは違う人物がそこに座っていた。
(カインは騎士団長でしょ? なんであの席にいるの……?)
わけがわからないといったこの状況で、さっきルイ王子を紹介していた男性がカインに向かって会釈をした。するとカインが出てきたあの扉から、王と王妃が現れ、カインの両サイドに座った。
この光景に理解が追いつかないマーガレットは、思わず胃からこみ上げてくる嘔吐感に思わずハンカチで口元を覆った。すると、そのタイミングで王子は室内を見渡し、マーガレットを見つけた瞬間、ほんのり口元を緩ませた。
「今日はこの舞踏会の為、遥々この城まで足を運んできてくれたことを嬉しく思う。堅苦しい挨拶は抜きにし、今日は盛大に楽しんでいってくれ」
王子はそう言って、席を立った。しかし目線はマーガレットを見つめている。
マーガレットは金縛りにあっているかのように、体が動かない。
(……カインが、ルイ王子……? カインは騎士団長で、王子ではないわ……だから私は……)
そう思った時に、ふとあの不思議な声が聞こえた気がした。
『やめた方がいい〜。彼とは会わない方がいい〜』
その忠告とも取れるアリスが言った言葉が、再びマーガレットの脳内で響き渡る。
王子は席を立ち、相変わらずマーガレットを見つめたまま、階段を降りてくる。ほんの数段降りると、この広間にいる人々は王子を見つめながら道を開ける。
「ルイ王子がこっちに来るわ! きっと私のことを見ているのだわ!」
興奮した様子でそう言うマルガリータ。けれど今回に関してはマルガリータの希望が叶うことを願った。
王子様はシンデレラと幸せに暮らしましたーー。そんな言葉で締めくくられる童話のラスト。それは決してシンデレラのことをいじめ抜いた義姉などではない。
王子はどんどんマーガレットへと詰め寄る。その真っ直ぐな瞳は、マーガレットのよく知るもの。さっきまで愛しく思っていたその瞳も、その唇も、今はもう違うものに見えていた。
(ああ、私はどこで道を間違えていたのか……)
そんな風に思っていた、その時だったーー。